24. 魔動炉の製作
ヴィーチェが豪語した通り、一ヶ月余りの間に建物の改築は終わり、魔動炉を製作する準備も整った。
リズベットは朝早くに起きて身を清めると、『美の錬金術』に記された古代の司祭服を再現した衣装に袖を通した。青と白を基調とし、青緑と金の紋様が施された。化粧もまた、本にある手法を再現した。
(化粧品の質が物足りないけれど、仕方ないわね)
古代エジプトのように目元を強調するメイクだった。
アルゼンと共に馬車に揺られている間、興奮と緊張で体がわずかに震えた。
(あまりに大きなことになってしまったわ。今すぐここを出て行くとしても、あてなんてないのに)
魔動炉そのものに対する心配ではなかった。本の記述は紛れもない真実であり、魔動炉は問題なく完成するはずだ。
これまでにリズベットが知ったのは、この世界の遥か昔、ここから遠く離れた大陸に存在したという偉大なる魔導文明の伝説だった。メルカリアスはその文明を象徴する偉大な魔導士であり、地球で言えばソロモン王に匹敵する存在だ。
メルカリアスは当時から「神の神秘を具現する者」「神の現身」として崇められ、死後は魔法の神の座にまで昇り詰めた。彼が遺したとされる本にまつわる神秘的なうわさは、今なお数多くの魔導士や冒険者を魅了し続けている。 その本こそが、この『美の錬金術』なのだ。
リズベットの懸念は、魔動炉の製作に投じられたこの莫大な投資費用を、果たして正しく回収できるかという点だった。文字通り、埋没費用になってしまったらどうしよう、という思いが頭をよぎる。
不安を押し殺しながら、リズベットは隣に座るアルゼンの横顔を盗み見た。普段と変わらぬ落ち着いた様子が、不思議でならないほどだった。
(緊張もしないのかしら。私だったら、心配でならないはずなのに)
つい先日までは騎士らの宿舎であり、今は『美の製作所』へと名を変えた建物の横には、この一ヶ月の間に新築された大きな建物が二棟並んでいた。
製作所のすぐ隣には精製水タンクを収めた建物が、そして少し離れた場所には造形術師をはじめとする魔導士たちの作業空間――『造形の館』と名付けられた建物がそびえ立っていた。
建物の前の訓練場には、武装した騎士や兵士たちが列をなして待機しており、『造形の館』の前にはギスカールやヴィーチェをはじめ、100人を超える魔導士が集まっていた。クラヴァンテ家に所属する者だけでなく、外部から一時的に雇われた者も多かった。
馬車から降りるリズベットのもとへ、ヴィーチェが歩み寄ってきた。
「すべての準備が整いました、奥様」
ヴィーチェは普段とは違い、恭しい言葉遣いと態度でリズベットを迎えた。
『造形の館』は、大型倉庫を思わせる外観の5階建てほどの建物だった。窓は一切なく、正面には城門のように重厚で巨大な正門が据えられている。正門の脇には人が出入りするための専用の扉があり、ヴィーチェはその扉からリズベットを中へと案内した。
内部は全体が一つの巨大な空間になっていた。高く吹き抜けた天井の下、床には2メートルの高さの屋根のない隔壁によって空間が区切られている。
それぞれの空間は八角形の小部屋のような形をしており、壁には小さな扉が一つずつ付いていた。開かれた扉を通って奥へと進んだ3人は、他の部屋よりも広い八角形の部屋に到着した。部屋の中央には、本を置くための大きな書見台が置かれていた。
扉を閉めて内側から鍵をかけると、ヴィーチェは小さな鈴を取り出して振った。それを合図に、彼女たちがいる部屋を囲む八角形の各部屋へと、魔導士たちが一人ずつ入っていく。
その光景を上から見下ろせば、中央の広間を中心に小さな八角形の部屋が幾重にも配置された、まるで蜂の巣のような形状をしていた。
やがて、床に輝く魔法陣が生成された。ヴィーチェは再び鈴を二度鳴らすと、リズベットとギスカールに向かって言った。
「準備はいいよ。さあ、始めようか」
ギスカールが『美の錬金術』を書見台に載せた。リズベットが本を開き、神聖語で朗読を始める。ページが魔動炉の設計図へとめくられ、頭上に広く輝く魔法陣が展開された。
リズベットの声に共鳴して空気が振動し、あらゆる空間が黄金の粒子で満たされると、魔法陣に座る魔導士たちの顔に恍惚とした高揚感が浮かんだ。
魔動炉の設計図が、ホログラムのようにヴィーチェの目の前に広がった。ヴィーチェはそれに視線を固定したまま両腕を伸ばし、指揮者のように優雅に腕を振り始めた。
頭上の魔法陣の上へと、魔石たちが浮かび上がる。巨大な魔石『レトナの心臓』が中央に位置し、それを囲むように他の魔石たちが配置された。魔石から強烈な光が放たれる中、『レトナの心臓』を起点として、それぞれの表面に神の文字が刻まれていく。
次に、清らかな金と銀に輝く金属の糸が現れた。それらは中央の魔石を中心に、脳の神経網が伸びていくかのように複雑に絡み合い、互いを繋ぎながら、まるで踊るように動き出した。
*** ***
屋外で警備にあたっていた騎士や兵士たちは、神秘的な光に包まれた『造形の館』を呆然と見守っていた。これほど多くの魔導士が一堂に会すること自体が異例だが、建物全体が正体不明の力に覆われている光景は、驚異そのものだった。
誰もが今回の計画の真相を知りたがっていたが、莫大な資金が投じられていること以外、その内幕は一切明かされていない。辛うじて知れ渡っているのは、この事の中心に伯爵夫人がいること、そして錬金術に関係しているということくらいだった。
噂好きな者たちの間では、「若きクラヴァンテ伯爵が夫人に心酔し、分別なく振り回されている」と囁かれることさえあった。
特に、突如として宿舎や訓練場を追い出される形となった騎士団の不満は小さくなかった。「一体何をしようとしているのか、拝ませてもらおうじゃないか」という冷ややかな視線を送る者も少なくなかった。
夜明け前から始まった作業は正午を過ぎ、太陽が徐々に赤みを帯び始める時間まで続いていた。
常にアルゼンの影のように付き従う護衛騎士ルパートが、緊張した面持ちで小さく呟いた。
「ヴィーチェ様が日没までには終わると仰っていましたから、もうすぐでしょう。しかし、『神の翼』が広がるというのは、一体どういう意味なのでしょうか」
重厚な鎧に身を包んだルパートは、2メートルを超える巨漢の男だった。『造形の館』へ入る前、ヴィーチェは「魔動炉が無事に完成すれば、製作所の上に神の翼が広がるだろう」と告げていたのだ。
その時、アルゼンの傍らに置かれていた小さな鈴が、ひとりでに三度鳴り響いた。ヴィーチェの合図だ。
直後、信じがたい光景が繰り広げられた。製作所の建物全体が微かに振動したかと思うと、屋根の上へと無数の金属パネルが浮き上がったのだ。それらは宙に浮いたまま互いに連結し、ついには巨大な「金属の翼」へと姿を変えた。
大きく広げられた一対の巨大な翼が、夕日を浴びて煌めく姿は、見る者を圧倒した。騎士団も兵士たちも、抜けたような表情で口をあんぐりと開けたまま、釘付けになっていた。
「できたぞ!」
「成功です、伯爵!」
家臣たちが喜びを隠せず、大きな声を上げて抱き合った。その間に、『造形の館』を包んでいた神秘的な光は、建物内部へと吸い込まれるように染み込んで消えていった。
リーン。
ヴィーチェの鈴が、長い余韻を残して再び鳴った。それを合図に、待機していた騎士たちが館の中へ入り、魔導士たちを肩を貸して連れ出してきた。
魔導士たちは顔を昂揚させ、静かながらも恍惚とした充足感に浸っている様子だった。大抵は騎士に支えられて歩いていたが、中には腰が抜けて背負われて出てくる者もいた。
魔導士たちが用意された宴席へと案内されていく中、最後にリズベットとヴィーチェ、ギスカールが現れた。3人は少し疲れて見えるものの、普段とそれほど変わらない様子だった。
歩み出た3人は振り返り、製作所の上を仰ぎ見た。
「思ったよりずっと大きいわ……」
リズベットは目を丸くした。
魔動炉のページで翼の形は見ていたし、かなりの大きさだとは知っていた。だが、具現化された実物のスケールは、リズベットの予想を遥かに超えていた。
夕映えの中で神秘的に輝く金属の翼を、感慨深い表情で見つめていたヴィーチェが、不意に後ろからリズベットをわらりと抱きしめて、彼女の耳元で囁いた。
「リズベット、私たちが作ったあの美しい翼を見てごらん。歴史に足跡を残すなんて虚しいことだと思っていたけれど……。
自分のマスターピースを世に遺す職人の歓喜というのは、こういうものだったんだね」
リズベットの顔が赤くなった。相手が女性だと分かっていても、ヴィーチェの背が高いためか、まるで異性にバックハグをされているような感覚に陥った。
「そろそろ私の妻を離してくれませんか」
アルゼンが傍らに歩み寄りながら放った言葉に、ヴィーチェは「ふふっ」と声を漏らして笑った。
「女性相手にまで嫉妬するなんてね」
そう言って、ヴィーチェはリズベットを解放した。
「あーあ、お腹が空いた。もう何でもいいからかじり付きたい気分だよ」
彼らは馬車に乗り、城へと移動した。
車内でアルゼンが尋ねた。
「体の具合はどうだ?」
「少し疲れましたけど、大丈夫です。何か食べれば元気になれそう」
「魔動炉というものの内部は、どんな構造になっているんだ?」
「私も見てはいないんです。本を朗読している間はずっと幻影を見ていましたし、朗読が終わった時には、筒状の形になって宙に浮いたまま移動して消えてしまいましたから」
「幻影を見た、だと?」
「一種の幻想のようなものですわ」
リズベットはそれ以上の説明は控えた。彼女が見たのは「宇宙」だった。この世界の惑星を離れ、太陽系、そしてその先にある広大な銀河を遊泳したのだ。
おそらく、現代人である自分自身の知識が反映された幻影だったのだろう。それでも、あまりに鮮明で、荘厳で、圧倒的な体験だった。
リズベットとヴィーチェ、ギスカール父娘がダイニングルームに集まり、旺盛な食欲で山積みの料理を平らげている間、アルゼンは先代伯爵や家臣たちと共に成功を祝う祝宴に出席していた。
「『神の翼』と聞いてどんなものかと思えば、実にとんでもないものを作り上げられましたな」
「今頃、レトナの住民は皆、あれは何事かと首を長くして眺めていることでしょう」
誰もが興奮気味に、神の翼に対する感嘆の声を上げた。翌朝に予定されている製作所訪問への期待の声も相次いだ。
「長期間腐らない清浄な水だなんて、楽しみで仕方がありません」
「これで船の上で腐った水を飲まずに済むと思うと、それだけで本当に嬉しい限りです」
「私は、あの『日焼け止め』というやつが早く出ればいいと思っています」
「それよりは、やはり傷薬でしょう」
誰もが成功の喜びに酔いしれ浮き立つ中、アルゼンだけは言葉少なに、静かに考え込んでいる様子だった。
ルヴェインが声をかけた。
「嬉しくないのか?」
「もちろん、無事に完成して喜んでおります。ただ、これからのことを少し考えていただけです」
ルヴェインはアルゼンの杯に酒を注いだ。
「考え、備えるのは良いことだが、今日のような日は頭を休めるのも悪くない。明日の魔動炉と製作所の視察を終えてから考えればよい。今日は楽しもうではないか」




