23. ベティナ
ベティナはピンと背筋を伸ばして座り、鏡に映る自分と、その背後に立つリズベットの姿をそっと伺っていた。
思えば、信じられないような出来事の連続だった。厨房で雑用や掃除といった泥臭い仕事ばかりしていた自分が、今は糊のきいた清潔な服に身を包み、伯爵夫人のすぐそばで仕えている。
城内に自分だけの清潔な部屋が与えられ、夢にも思わなかったような美味しい食事を毎日口にすることができた。住み込みのため家族に頻繁に会えないのは少し寂しいが、給料が大幅に増えたおかげで、母には良い薬を、弟たちには鶏肉や魚を買ってやることができた。
この夢のような幸運を逃すまいと、ベティナは懸命に努力した。伯爵夫人は不潔なものを嫌うと聞いていたので、朝早くに起きて体を清め、服も隙なくアイロンをかけて着こなした。
夫人の部屋にある調度品の位置をすべて覚え、常にそれらが定位置にあるように気を配り、暇さえあれば磨き、片付け、整頓した。その甲斐あって、あの厳格なジルマから「仕事の筋がいい」と褒め言葉をもらうまでになった。
そして今日は、あろうことか伯爵夫人が直々に自分の髪を整えてくれている。腰に数種類の鋼鉄のハサミが入った革の道具袋を携え、大きなクリップで髪をいくつもの束に分けて固定しながらハサミを動かす夫人の姿は、あまりにも新鮮だった。世の中にこれほど多くの種類のハサミがあることを、ベティナは初めて知った。
髪を切りそろえた後は、細長い棒のような形をした魔道具で髪を伸ばし始めた。ベティナの髪はあちこち好き勝手な方向に跳ねる癖毛で、これまではきつく結び上げるしかなかった。しかし今、魔法のような光景が目の前で繰り広げられていた。
「指紋が人によって違うように、髪の生え方も質もそれぞれ違うの。ほら、このつむじを中心に、こうして髪が渦を巻くように生えているのが見えるかしら? この『毛流れ』を読むことが重要なのよ」
3人の侍女に説明しながら、リズベットがストレートアイロンでベティナの髪を伸ばしていくと、あちこち跳ねていた髪がしっとりと落ち着いていった。
「わあ……凄いです!」
感嘆の声を上げた3人は、それぞれのアイロンを手に取り、前に座った侍女たちの髪を整え始めた。
「火箸ほどではないけれど、これも扱いを間違えれば火傷をしたり髪を焼いたりするから、気をつけてね」
「はい!」
3人は意欲に燃え、熱心に指導に従った。
やがて、髪の手入れが終わった。
「……なんて綺麗なんでしょう。まるで、まるで……高貴なお嬢様になったみたいです」
ベティナは目を輝かせて鏡を見つめた。しなやかに揺れる髪が、柔らかく耳を撫でる。ゴワついて見苦しいと思っていた自分の髪が、これほど美しくなるとは思ってもみなかった。
エリが、自分が手入れをした侍女を見てため息をついた。
「奥様がなさったものとは全然違います……。なんだか、あちこちバラバラに跳ねてしまいました」
「練習を重ねれば上手くなるわ。手に馴染むまで、何度もやってみて」
リズベットはエリを励ました。
不思議そうに自分の髪に触れていたベティナは、3人の侍女が持っている魔道具をうらやましそうに見つめた。自分も伯爵夫人に、このような魔法のような技術を教わりたい。けれど、ベティナはその気持ちを押し殺した。
(今の私には、身に余る幸運をいただいているわ。これ以上欲張ったら、バチが当たってしまう)
そう自分に言い聞かせていると、伯爵夫人が声をかけてきた。
「ベティナも、一度学んでみる?」
「えっ? 私がですか? 私のような者が、滅相もございません……」
「嫌なの?」
「いいえ! その、それは……」
「どっちなのか、はっきり言ってごらんなさい。心から望むものがあるのなら、時には勇気を出すことも必要なのよ」
その言葉に背中を押され、ベティナは勇気を振り絞った。ごくりと唾を飲み込み、拳をぎゅっと握りしめる。
「……学びたいです!」
「ええ。あなたの分も作ってあげるから、教わるといいわ」
その優しい声を聞くと、いけないと思いつつも涙が溢れてきた。手の甲で涙を拭いながら、ベティナは声を詰まらせた。
「……申し訳ございません、奥様。奥様は私にこれほどまで良くしてくださるのに、私は奥様に何もお返しできるものがなくて……」
リズベットは微笑み、ベティナの髪を愛おしそうに撫でた。
「あなたは今でも十分にやってくれているわ。人は誰しも、人生という重い荷物を背負っているものよ。その重さに耐えながら、一歩ずつ進んでいくだけでも、その人は自分の人生における役割を立派に果たしているの」
そして、リズベットはベティナにハンカチを差し出した。
「これからはあなたも淑女になるのだから、これを使いなさい。返さなくてもいいわよ」
「ありがとうございます、奥様……」
伯爵夫人の心のように気品があって柔らかいハンカチからは、花の香りがした。
その日から侍女たちは、自分の道具を持ち歩き、暇さえあれば周囲の人間を相手に実習に励んだ。それから間もなく、レトナ城内の使用人たちは、誰もが艶やかなストレートヘアや、優雅に波打つウェーブヘアをなびかせて歩くようになったのである。




