22. 打たれる少女
2度目の市街への外出。リズベットはいくつもの店や工房を巡り、陶器やガラス製品を見て回っていた。日焼け止めやスキンケア、ヘアケア製品にふさわしい容器を選別するためだ。
(プラスチックなんて便利なものはないから、一般向けは陶器、高級ラインはガラス瓶にすればいいかしら。
問題は形ね。使い終わった後も、インテリアとして手元に置いておきたくなるような可愛いデザインがいいわ)
そんなことを考えながら、彼女は自ら足を棒にして歩き回り、サンプルになりそうな品をかなりの数買い込んだ。
評判のレストランでステーキに舌鼓を打ち、甘い菓子も一包みずつ買って、上機嫌で帰路につく。身分を隠しての忍び歩きだったため、正門ではなく内城の裏手から入ることにした。
建物へ向かおうとしたその時、ある音が彼女の注意を引いた。誰かの泣き声のようだ。何事かと思い、声のする方へ向かうと、厨房の裏庭で、一人の少女が料理長に激しく叩かれていた。
「この泥棒猫め! これがいくらすると思っているんだ、盗みおって!」
顔を真っ赤にした料理長が、怒鳴り声を上げている。
「ごめんなさい……でも、本当に盗んでなんていません!」
少女は抵抗もできず、おいおいと泣きながら両手を合わせて許しを請うていた。
「この期に及んで、よくも白々しい嘘を!」
料理長の大きな手が、再び少女の頭を殴りつけようとしたその瞬間。
「今、何をしているのですか?」
思わず、鋭い声が出た。
動きを止めた料理長がリズベットを振り返る。地味な身なりの彼女を、最初は誰か分からなかったようだが、後ろに控えるメリンダとエリを見て状況を察したのか、慌てて頭を垂れた。
「なんて酷いことを……」
リズベットの視界は、膝をついて泣きじゃくる少女の姿だけで埋め尽くされていた。突如として呼吸が乱れ、制御不能なほどの激しい怒りがこみ上げてくる。
リズベットが怒鳴り散らそうとしたその刹那、エリが控えめな声で彼女を呼び止めた。
「奥様、いかがなさいましたか?」
その声で、リズベットは自分が無意識のうちに両拳を固く握りしめていることに気づいた。
そうだ。この感情は、自分のものではない。子供が打ち据えられる光景を見て憤りを感じたのは確かだが、これほどまでの激しい動揺は、決して自分自身の感情であるはずがない。
リズベットはどうにか感情を抑え込んだ。
料理長がリズベットの顔色を窺いながら、おどおどと言い訳を並べ始めた。
「こ、これは……。実は、この小娘が、高価な黒トリュフを盗み出したのでございます」
すると、少女が哀願するように言った。
「盗んだのではありません……。床に落ちていたので、大きなジャガイモかと思って拾っただけなんです。そんなに高いものだとは、本当に知らなくて……」
10代半ばほどだろうか。痩せこけた、みすぼらしい身なりの少女だった。乱れた髪に、殴られて赤く腫れた頬。涙に濡れた顔がいたたまれなかった。
「事情がどうあれ、大の大人が子供に手を上げるなんて。あんまりではありませんか?」
料理長をたしなめると、リズベットは侍女たちに命じた。
「詳しい話を聞かなければ。この子を中へ連れて行きなさい」
*** ***
リズベットの部屋に呼ばれた少女は、ぶるぶると震えながらうつむいていた。
「お名前は?」
「……ベティナ、と申します」
「何があったのか、話してくれるかしら?」
ベティナはおずおずと口を開いた。
「床掃除をしていたら、転がっている大きなジャガイモのようなものを見つけたんです。これをシチューに入れてあげれば、弟たちが喜ぶと思って……。
いけないことだと分かってはいながら……つい、拾って、ポケットに入れてしまいました」
ベティナはガタガタと膝をつき、震える声で訴えた。
「本当に、そんなに高価なものだとは知らなかったんです。ただのジャガイモだと……。
申し訳ございません。どうか一度だけお許しください。お願いです、ここを追い出さないでください。私が働けなくなったら、母も弟たちも飢え死にしてしまいます」
最後は、嗚咽に変わっていた。
「お母様と弟たち? お父様はいらっしゃらないの?」
リズベットの問いに、ベティナは涙を拭いながら身の上を明かした。漁師だった父親は、3年前、海で事故に遭い亡くなった。追い打ちをかけるように昨年から母親も体調を崩し、今では15歳のベティナが一家の大黒柱となっているのだという。
あかぎれだらけの小さな手で、しきりに涙を拭う姿が、あまりにも不憫だった。
「ベティナ。ここで、私のすぐそばで働いてみる気はあるかしら?」
「……え?」
ベティナは目を丸くしてリズベットを見上げた。
リズベットの隣に立っていたジルマは、驚いた表情で何かを言いかけたが、すぐに口を閉ざした。
「私のような者が、そんな……滅相もございません」
震える声で呟くベティナに、リズベットは優しい笑みを向けた。
ベティナは、その場に平伏した。
「ありがとうございます、奥様! 何でもいたします!」
「ジルマ、お手数だけどお願いね」
リズベットの言葉に、ジルマは恭しく頭を下げた。
「かしこまりました、奥様」
ジルマはすぐさまメリンダに命じ、ベティナを侍女たちの宿舎へ連れて行かせ、空き部屋を割り当てた。メリンダがベティナを連れ出した後、ジルマは慎重にリズベットへ声をかけた。
「料理長について、一言よろしいでしょうか。
料理長の立場からすれば、ベティナに激昂したのも無理はございません。黒トリュフは極めて高価な食材です。
まして、大きなジャガイモほどの大きさとなれば……。もし紛失でもすれば、料理長にとっては文字通りの一大事でございます。それで、気が立っていたのでしょう」
説明を聞き、リズベットは少し申し訳ない気持ちになった。彼女は料理長を部屋に呼ぶよう伝えた。
もっとひどく叱責されると思っていたのか、料理長は部屋に入るなり平伏して懇願した。
「申し訳ございません! 今回ばかりは、どうか、どうか寛大なお裁きを! 追い出すことだけはご勘弁ください!」
「叱るために呼んだのではありません。顔を上げてください」
リズベットの落ち着いた声に、料理長はようやく生きた心地を取り戻して立ち上がった。
「先ほどは、私が詳しい事情を知らなかったとはいえ、人前で大声を上げて叱りつけてしまい、ごめんなさい。
腹が立つのも無理はない状況だったけれど、それでも、これからは罰する前に事実を確認してほしいの」
「……はっ。以後、気をつけます」
リズベットは手招きして料理長を呼び寄せると、小さな箱から金貨を一枚取り出し、彼に手渡した。
「嫌な思いをさせたわね。家族と何か美味しいものでも食べてちょうだい」
料理長は予期せぬ展開に面食らいながらも、嬉しそうに金貨を受け取った。
「これほどまで……。ありがとうございます!」
「いつも美味しい料理を作ってくれて感謝しているわ。不快な思いをしたかもしれないけれど、これからもよろしくね」
「もったいなきお言葉。私の方こそ、今後とも精一杯務めさせていただきます!」
料理長は涙ぐみながら何度も辞儀をして、部屋を後にした。
しばらくして戻ってきたメリンダが、不思議そうに言った。
「料理長、何かいいことでもあったんでしょうか? 廊下で踊り出しそうな様子で歩いていましたよ」
エリがクスクスと笑う。
「そういうことがあったのよ」
ジルマがリズベットに向かって言った。
「奥様は、少々寛大すぎます。下の者には、時に厳格な姿も見せなければなりません」
リズベットは首を振った。
「心配しないで、ジルマ。私はそれほど甘い性格じゃないわ。
あらかじめ言っておくけれど、仲間同士での差別やいじめは絶対に許さない。その時は、本当に怒るから」
「……はい!」
それがベティナのことを指しているのだと察したメリンダとエリは、気を引き締めて答えた。
*** ***
ジルマは、テーブルに並べた器を眺めながら紙にスケッチを始めたリズベットを、物憂げに見つめた。
貴人の至近距離で仕える侍従や侍女は、一般の下男や下女とは異なり、貴族や少なくとも騎士・商人の家の出身であるのが常だ。本来ならば、ベティナのような出自の娘が伯爵夫人に仕えるなど、あり得ないことだった。
それでもジルマが何も言わなかったのは、リズベットに対する深い尊敬の念があったからだ。
高名な魔導師であり研究者であるギスカールはもちろん、あの大伯爵でさえ軽んじられないヴィーチェと共に魔法を研究するリズベットのことを、城内の人々は並外れた知識人、あるいは魔導師だと信じていた。
伯爵家の家臣団の中でも、とりわけ鼻持ちならない魔法家系であるソーネン子爵やカイフェルト男爵が、リズベットの前では頭も上げられず、恭しく仕えている様子は、その確信をより強固なものにしていた。
(きっと、何かお考えがあるに違いないわ)




