24. 遺された伝言
魔法研究所では、ギスカールとシャロナの父娘が首を傾げながら『ベルケスス博物誌』を覗き込んでいた。
「何かが変わったな」
ギスカールが呟くと、シャロナも同意を示した。
「私もそう感じます。何なのかは分かりませんが、何かしらの変化があったようですわ」
ちょうどヴィーチェが研究所に足を踏み入れたため、ギスカールは彼女を呼び止めて本の確認を頼んだ。父娘の傍らに歩み寄り、本を一瞥したヴィーチェは唐突に問いかけた。
「お前たちの他に、誰かがこの本に触れたのか?」
シャロナが答えた。
「ジェルニエ侯爵様がお望みになり、リズベット様とご一緒にご覧になったと伺っております」
「ジェルニエ侯爵?」
ヴィーチェは何かに思い至ったような表情で小さく頷いた。
「やはり、この本に宿っていた何かが抜け出たのですね?」
ギスカールの問いに、ヴィーチェはニヤリと笑った。
「そういうことだ。そう惜しがるな。それは術士が選べるものではない。選ばれるものなのだからな」
そう言うと、身を翻してその場を立ち去った。
「用事を思い出した。じゃな」
*** ***
ヴィーチェが廊下を歩いていると、柱の陰からキシャルがふらりと姿を現した。
「ちっ、貴様はまだそのように彷徨い歩いておるのか?」
キシャルが投げかけた言葉に、ヴィーチェは気のない様子で返した。
「ふん、そういうお前こそ、どこの片隅に引きこもっていて今更這い出てきたんだ」
キシャルはニコッと笑い、ヴィーチェの隣へと歩み寄った。
「まあ、何であれ見知った顔を見るのは悪くない。ここではどのような名を名乗っておるのだ?」
「ヴィーチェだ。お前は?」
「キシャルだ。高貴なるレディが授けてくださった」
「契約者ではなく?」
ジェルニエの話が出るや、キシャルは唇を尖らせた。
「今度の契約者はひねくれた奴でな。初めは我と契約など結ばぬと突っぱねおった。自分にはこのような強大な力など不要だと抜かしおってな」
「へえ? 面白いじゃないか」
「意地になって契約を迫ってやったわ。そうしたら拗ねたのか、名でふざけ始めおってな。
『アオ助』だの『ネコ目玉』だの、挙句の果てには『ネコ目玉のアオ助』だと抜かしおって……」
ヴィーチェが愉快そうに吹き出した。
「ははっ、そいつは傑作だ。『ネコ目玉のアオ助』にしておけばよかったものを」
「まあ、リズベット様がキシャルという名を授けてくださったおかげで、無事に収まったがな」
「それはそうと……」
ヴィーチェがキシャルをちらりと見やった。
「人間のなりをしているところを見ると、外を出歩くつもりなのか?」
「ああ。我が契約者となった男が存外面白くもあるし、今回を最後に我の使命も終わるような気がしてな。ベルケススが申しておったのだ。
次の契約者と出会う時、我の使命が成就されるであろう、とな。貴様も知っておろう? あの男が時折、未来を見通していたことを」
ヴィーチェはしばし押し黙った後、ぽつりと問いかけた。
「私に残した言葉はないのか?」
「あるぞ」
キシャルはニヤリと笑うと、ヴィーチェにぐっと顔を近づけ、その唇に軽く口づけを落とした。
「『愛しているぞ、この大馬鹿野郎』だそうだ」
「この野郎が……!」
ヴィーチェがカッとなって胸倉を掴み上げようとしたが、風のように身を躱したキシャルが高らかに笑い声を上げた。
「ははっ、真だ! それがあの男が遺した伝言なのだからな!」
ヴィーチェは手の甲で唇を乱暴に拭いながら悪態をついた。
「クソ野郎め……本当に答えが必要だったのは私の方だというのに……」
「勝手に出て行ったのは貴様の方であろう。せめて最後くらいは見送りに来てやればよかったものを。口には出さずとも、待っている気配だったぞ」
ヴィーチェは伏し目がちに視線を落とし、何も答えなかった。
キシャルは視線を転じ、窓の外に見える『レトナの翼』を眺めながら問うた。
「今度は、この地のレディに期待を懸けておるのか?」
「そういうことだ。色々と面白いことも起きていてね」
「かつての栄光の再現か? 興味深いな」
口元に笑みを浮かべたキシャルが身を翻した。
「また会おう」
手を振り去りゆくキシャルの背中を見つめていたヴィーチェは、顔を背けて低く呟いた。
「見送るなんて、虫唾が走る」
*** ***
翌朝、シャイナの訪問を受けたリズベットは、彼女と共に魔法研究所へと向かった。そこには家令ステアンとギスカール父娘、ソネン子爵ら魔導士たちが集っていた。
「今朝、ジェルニエ侯爵様より『ベルケスス博物誌』の購入代金の倍額に相当する金員が届けられました。奥様にお話しくださればお分かりになるはずだ、と言い添えられておりまして」
家令ステアンの言葉を聞いたリズベットはその真意を汲み取り、昨日の出来事をかいつまんで説明した。写本で目にした絵を確認しようと本を開いた瞬間、自ずと該当の頁へとめくられたこと、そして本に宿っていた強大な力がジェルニエを選定したという事実のみを伝えたのだ。
ゲームにおいてキシャルの存在が終盤まで伏せられていたことを思い起こし、ジェルニエ本人が明かさない限りは秘匿しておくのが得策だと判断したためであった。
「ジェルニエ侯爵様はご自身が本の持ち主ではないとご辞退なさろうとされましたが、人の思惑で左右できることでもなく、結果的にそうなってしまいましたの」
魔導士たちは惜しむ気持ちを隠しきれず、それぞれ無念そうに溜息を漏らした。
「ジェルニエ侯爵様が魔法を修めていらっしゃるとは存じ上げませんでしたわ」
シャロナが意外そうに呟くと、ソネン子爵が口を開いた。
「貴族家の中には、魔導士の血を引く家柄が少なからず存在します。尊い才能であり血統ですから。デクレール公爵家や我が家のようにそれを前面に押し出す場合もあれば、あえて表沙汰にせぬ場合もございます」
シャイナがリズベットに尋ねた。
「奥様はその場にいらっしゃったわけですね? 悔しくはおありになりませんか?」
「こちらが選べるものではありませんもの。仕方ありませんわ」
リズベットの返答を聞いたギスカールは、照れくさそうに呟いた。
「流石は奥様でいらっしゃいます。未だ欲を捨てきれぬ私自身が、奥様のその達観されたお姿を前に恥じ入るばかりです」
「そんなことはありませんわ。欲がないのではなく、ただ元より私の物ではなかったというだけですから」
リズベットは言い訳のように返した。
ゲームの知識によってジェルニエがキシャルの契約者であることを知っていたからこそ、潔く受け入れられたに過ぎない。もしその事実を知らず、自分にも挑戦する資格があると思い込んでいたならばどうなっていたかなど、分かりようもなかった。
「惜しむらくはありますが、この本それ自体にも研究する価値は十二分にございます。全容の解読を目指して研究を継続いたしましょう」
ギスカールの言葉に魔導士たちは頷いて同意したものの、どうしても少々拍子抜けした空気が漂っていた。
*** ***
家令ステアンから『ベルケスス博物誌』に関する報告を受けた大伯爵ルヴェインは、ステアンに問うた。
「その本に込められていた力の源泉とやらが、具体的にどのようなものであったのかは分からぬのか?」
「はい。詳しいことは仰いませんでした」
「ふむ、まあ惜しくはあるが。致し方あるまい」
そう口にしながらも、老伯爵の口元には意味深な笑みが浮かんでいた。
その力が何であれ、クラヴァンテ家に属していればという惜しさは拭えぬものの、ジェルニエ侯爵に大きな恩を売ったことは決して悪い話ではない。
ジェルニエは年に似合わず慎重で老獪な政治家だ。中央政界で巻き起こる幾多の政争において、彼は常に絶妙な均衡を保ち、巻き込まれぬ巧みさを見せつけてきた男である。
しかし今回、『ベルケスス博物誌』を通じてジェルニエが得たものは、到底金銭には換算できぬ価値を持つものに違いなかった。それをあっさりとジェルニエに譲り渡したリズベットの決断は、凡百の人間には不可能な芸当と言えた。
購入代金の倍額を届けてきたとて、それは一種の誠意の表明に過ぎない。ジェルニエの人柄とこれまでの立ち回りから推し量るに、必ずやリズベット、ひいてはクラヴァンテ辺境伯家に深い負い目を抱いているはずだ。
クラヴァンテ家の立場からすれば、決定的な局面においてジェルニエの後援を期待できる絶好の切り札を手に入れたも同然であった。
(夏におけるメロヴィッツ王国との会談に加え、ジェルニエ侯爵の後援まで加わるとなれば、打って出る価値はあるな。
アルゼンが戻り次第、銀婚式パーティーの後に開かれる連邦会議について詰めねばなるまい)
ルヴェインは今度こそ、家門の悲願である『陞爵』を本格的に推進することを心に決めた。




