25. 約束
ジェルニエ侯爵が昨日の礼を述べたいとリズベットに対面を申し入れてきた。リズベットは庭園のガゼボで彼を迎えた。
その席で、リズベットはジェルニエ、エルワンと並んで現れたキシャルの姿を目にして少なからず驚いた。キシャルは何食わぬ顔で、至極自然に挨拶を述べてきた。
「初めまして。キシャルと申します」
本来の青い肌ではないこと、そしてその挨拶から彼が人間のふりをしているのだと察したリズベットは、知らぬふりをしてその芝居に合わせてやった。
「お目にかかれて光栄ですわ。クラヴァンテ辺境伯の妻、リズベットと申します」
ジェルニエがキシャルについて説明を添えた。
「遠き国から訪れた者ですが、不思議な縁がありまして私のもとに身を寄せることとなりました」
「まあ、そうでいらしたのですね」
ジェルニエが見繕ったのか、この地の衣服を纏ったキシャルは快活で麗しい青年に見えた。侍女たちは好奇心に満ちた視線で、ちらちらとキシャルを盗み見ていた。
(これもゲームとは異なる部分ね。キシャルがこうして出歩くなんて)
「奥様から賜ったご恩に比べればささやかな品ではございますが、どうかお納めください」
ジェルニエが小さな小箱を差し出した。
「書物の代金もすでに頂戴いたしましたのに、このようなことまで……」
「あれは最低限の礼儀に過ぎません。奥様が施してくださった恩に比べれば、何ほどのこともないのです」
ベルベットの小箱の中に収められていたのは、銀白色のプラチナで精緻に編み込まれた結び目の意匠のブローチであった。始まりと終わりの見分けがつかぬほど流麗に絡み合い連なるプラチナの結び目の中心には、真夏の海のように澄み渡るブルーサファイアが、燦然たる青の輝きを宿していた。
ジェルニエが落ち着いた面持ちで口を開いた。
「今後、万が一にも私が奥様のお力になれることがございましたら、何なりとお申し付けください。いかなる事柄であろうと、必ずや奥様のお求めに応じましょう」
リズベットは驚いてジェルニエを見つめた。それはあまりにも重く、絶対的な約束であった。
「そこまでなさらずとも結構ですわ。そのようなお約束を、軽々となさるものではありません」
「承知しております。決して軽い気持ちで口にしているのではありません。……あなた様だからこそ、申し上げているのです」
じっとそれを見つめていたリズベットは、小さく頷いた。頑なに拒み続けるのはかえって無作法であると感じたのだ。
「分かりました。ありがたく頂戴いたします」
「お受け取りくださり、感謝いたします」
ジェルニエは視線を上げ、庭園を眺めながら言った。
「麗らかな良き日和ですね。少し庭園を散策いたしませんか?」
「ええ、そういたしましょう」
*** ***
ジェルニエとリズベットがガゼボを出て散策を始めると、二人の侍女もその後に続いた。キシャルは侍女たちの隣を歩きながら声をかけた。
「お前たち、名は何というのだ?」
二人は驚きつつも、恭しく答えた。
「メリンダ・ブラックスと申します」
「ベティナと申します」
キシャルはメリンダを一瞥し、問いかけた。
「ふむ、ここでは侍女も戦士となるのだな。日頃から体を鍛えておるようだが」
メリンダがギクリとして尋ねた。
「そのようなことが見て取れますのですか?」
「我はその手の気配に目ざとくてな」
悪戯っぽく笑ったキシャルは、ベティナに向き直った。
「お前は鍛錬を始めて日が浅いようだな。その手の才能はなさそうだから無理はせず、健康のためと割り切るがよい」
ベティナの顔がボッと赤くなった。
リズベットの側近くに仕えるようになって以来、万が一の際には傍で彼女を守れるよう、ベティナも他の侍女たちと共に日々体を鍛え、乗馬も学んでいた。しかし、初めからそうした武術の素養を見越して選抜されたエリーやメリンダとは異なり、ベティナには戦闘の才能がなかった。
「私だって……奥様をお守りできる者になりたいのです」
しょんぼりと呟くベティナを目にし、キシャルはニヤリと微笑んだ。
「その心意気があれば十分にお守りできる。自分にできることに最善を尽くすがよい」
*** ***
ジェルニエと並んで歩いていたリズベットは、ふと自分たちの周囲の空気が微かに変化したことに気づいた。ほとんど感知できぬほどに繊細な気流が、二人の周りを巡っている感覚があった。
何事かと不審に思っていると、ジェルニエが唐突に昨日の出来事を切り出した。
「エミリーは……乳母の姪でした。幼くして両親を亡くし孤児となったのを、乳母が引き取って屋敷で暮らすようになったのです……」
リズベットは、微細に揺らめく空気がジェルニエの声をほんの僅かに揺らし、外へと散らしているのを感じ取った。他者に二人の会話を聞かれぬようにするための、ジェルニエの細やかな配慮であった。
自分がこのような魔力の機微を感じ取れること自体を不思議に思いつつも、このところ魔導士たちと過ごす時間が長かったためだろうと、深く追及せずに受け流した。
ミロスより4歳年上のエミリーは、彼の遊び相手兼身の回りの世話係として共に育った。ミロスにとっては侍女である以前に友人であり、姉弟にも似た間柄だったのだ。気兼ねなく打ち解けるミロスに対し、身分の差を忘れてはならないと両親が注意を促すほどであった。
そんなエミリーがあのような暴挙に出たことは、ミロスにとって計り知れない衝撃だった。それでもミロスは、その事実を両親には告げなかった。行き場のないエミリーが屋敷を追放されることを憂慮したためであった。
代わりに、これからは男の侍従を側に置きたいと申し出て、エミリーには別の仕事をあてがうように取り計らった。周囲はエミリーが何か大きな粗相をしたか、あるいはミロスが大人びたのだろうと受け止めるに留まった。
そして――あの日の惨劇が起きたのだった。忘れようと、思い出さぬようにと足掻き続けたものの、その記憶は終わりのない悪夢となって執拗に彼を苛み、決して解き放ってはくれなかった。いかなる術を用いようとも、あの日の記憶とエミリーの姿を消し去ることは叶わなかった。
「ですが、もう大丈夫です。無かったことにはできずとも、心はずっと軽くなりました。これもまた、奥様のおかげです。心より感謝申し上げます」
ジェルニエは歩みを止め、慇懃に頭を垂れた。
「私がお力になれたことなど滅相もありませんが……何であれ、心が晴れやかになられたのでしたら何よりですわ」
あのような壮絶な苦難を味わった後であっても、ジェルニエがなお温かく誠実な人間であり続けられたのは、それが彼の生まれ持った高潔な天性ゆえだろう。
彼のその優しさが、かつての自分――哀れな少女だったリズベットにとってどれほど大きな救いと希望になっていたかを伝えてやりたい衝動に駆られたが、リズベットはその記憶を胸の奥深くに秘めておくことを選んだ。
ジェルニエが不意に問いかけてきた。
「この地で……レトナでお幸せですか?」
リズベットはジェルニエを真っ直ぐに見据え、曇りのない声で答えた。
「もちろんですわ。ここが、私の家ですもの」
ジェルニエは穏やかに微笑んだ。
「左様ですか。……本当に、喜ばしいことです」
その華やかな笑みがどこか痛ましげに感じられ、リズベットはそれ以上何も言葉を紡ぐことができなかった。気流の揺らめきは、いつしか普段の静けさへと戻っていた。




