22. 名付け
当然契約を結ぶものと思っていたリズベットにとっても、思いがけない展開だった。一歩も引くことのない二人の攻防を見守っていたリズベットは、たまりかねて割って入り、キシャルに尋ねた。
「もし最後まで契約を拒否したら、どうなるのですか?」
二人の言い争いが止み、キシャルが自信に満ちた笑みを浮かべて答えた。
「そのようなことはあり得ません。ここは我の空間であり、この男が我の提案を受け入れるまでここに留まることになるのですから」
その言葉を聞いたジェルニエはリズベットを見やり、やがて白い宮殿へと視線を向けた。キシャルの言う通り、ここは奴の空間なのだ。
こうした空間の特性上、空間の主の同意なしにここを脱出するには、主を倒すより他に方法はない。契約したくないという理由だけで命懸けの戦いをするのも滑稽だが、何よりリズベットが傍にいる状況だった。
あえて力を求めてはいないとはいえ、強大な力とは人間なら誰もが望むものでもあり、身の危険を冒してまで拒絶すべきことでもない。
「いいだろう。契約を結ぶとして、貴様が私に求めるものは何だ?」
キシャルの黄金の瞳が好戦的に輝いた。
「我に見合う強敵と出会い、我の全存在を懸けて戦うことだ」
「そういうことなら、やはり相手を間違えているな。私は冒険者でもなければ、戦場を渡り歩く身でもない」
キシャルはリズベットへ意味深な視線を送ると、にやりと笑った。
「案ずるな。恐らくはそのような日が訪れる。その時こそ、貴様は切実に我の力を必要とするはずだ」
ジェルニエの表情が険しくなった。
「どういう意味だ?」
「我も正確には知らん。ベルケススがそう教えてくれたのだ。次に我が現世に現れ契約を結ぶ時、使命を果たす好機が巡ってくるだろう、とな。
我がこうして貴様と出会ったということは、その時が訪れたという意味さ」
「貴様が災厄の元凶というわけではあるまいな?」
「我が?」
キシャルは面白そうに笑った。
「当然違う。むしろ我がおることで、それが何であれ対処する大きな助けとなるはずだ」
そう言うとキシャルはジェルニエの瞳を真正面から見据えて問うた。
「さあ、これで我と契約を結ぶ気になったか?」
「分かった。契約しよう」
「最初からそうすればよいものを」
キシャルが満足げに微笑み、ジェルニエに言った。
「さあ、我に名を授けよ。それによって契約が成立するのだからな」
このくだりで、リズベットは思わず首をかしげた。
(キシャルが名前じゃなかったの?)
考えてみれば、まだ本人が名を名乗ったことは一度もなかった。
「アオ助」
ジェルニエの口から放たれた名に、キシャルが猛反発した。
「何だと!? その誠意の欠片もない名は!」
「全身真っ青だろう。見た目通りだが、何が不満だ?」
「断る!」
「断ることを断る。名を授けるのは契約者である私の権利だ」
「姑息にも名前で遊ぶつもりか!? ベルケススは何日も苦心した末に見事な名をつけてくれたというのに!」
「アオ助が嫌なら、ネコ目玉はどうだ?」
「もっと嫌だ! そんな涼しい顔でその手のふざけた名を口にするから余計に腹が立つ!」
キシャルの抗議にもジェルニエは眉一つ動かさなかった。
「ネコ目玉のアオ助」
「おい! なぜ合体させる!? 更に最悪になっておるではないか!」
先ほどと同様に容易には終わりそうにない予感を覚えたリズベットが割って入った。ジェルニエには少し申し訳ないが、やはりゲームで目にした名前にするのが良さそうだった。
「『キシャル』……というのはいかがでしょう?」
「おお、それは良き名だ!」
キシャルは顔をほころばせ、勝ち誇ったようにジェルニエを見据えた。
「キシャルに決まりだ。この不届きな名付け親め」
ジェルニエはリズベットを見て微かに微笑むと、恩着せがましく言った。
「高貴なるレディに免じて、このあたりで手を打ってやろう」
ジェルニエとキシャルの間に、淡く光り輝く石板が現れた。何一つ記されていない石板に、自ずと魔法文字が刻み込まれていく。文字がすべて刻まれ終えると、ジェルニエとキシャルが同時に石板へと手を重ねた。
石板から眩い光が放たれ、二人を包み込んだ。やがて光が収まった時、石板もキシャルの姿も掻き消え、ジェルニエ一人だけがそこに残されていた。
「申し訳ありません。ただあの絵を一度確かめてみようとしただけでしたのに、このようなことになってしまいまして」
ジェルニエの謝罪に、リズベットは首を横に振った。
「いいえ。キシャルの言う通り、運命がそう導いたのです。私は全く構いませんので、どうかお気になさらないでください」
「欲のないお方ですね」
「そんなことはありません。ただ、元より私の物ではないというだけですから」
微笑みながら語るリズベットを、ジェルニエはじっと見つめていた。
「そろそろ戻らなくてはなりませんね?」
気まずさを覚えたリズベットが身を翻そうとした刹那、ジェルニエがリズベットを力強く抱きしめた。リズベットを抱きすくめたまま、ジェルニエが震える声で告げた。
「今一度だけ……無礼をお許しください」
その声の響きがあまりにも切実で悲痛だったため、リズベットはどうしても突き放すことができなかった。
「リズベット、私はあなたのことを……」
しばし言葉を詰まらせたジェルニエが、痛ましげに囁いた。
「……あなたの幸せを、いついかなる時も祈り続けております」
その言葉を最後に、ジェルニエはリズベットを解き放ち、身を引き離した。
次の瞬間、リズベットは自分が図書室の閲覧台の前に立っていることに気づいた。少し離れた隣にはジェルニエの姿があった。
周囲を見渡すと、控えていた侍女たちがすかさず尋ねてきた。
「何かご入用のものでもございますか?」
「あ、何でもないわ」
かなり長い時間をあそこで過ごしたように感じられたが、現実世界では全く時間が流れていなかったようだった。
白昼夢でも見ていたかのように呆然とした心地だった。ジェルニエをちらりと盗み見たが、何事もなかったかのように平然とした佇まいであった。
(まさか、本当に夢だったわけではないわよね?)
リズベットは本の開かれた頁へと視線を落とした。
同じ絵であったが、漂う気配は一変していた。そこにはもはや記憶の宮殿の姿は見出せなかった。
「奥様の寛大なるご配慮に心より感謝申し上げます。今回の件につきましては、後日改めてしかるべきお礼をさせていただきます。本日はこれにて失礼いたします」
ジェルニエは慇懃に一礼し、辞去した。その表情も物腰も、普段と何ら変わらぬ自然なものであった。
リズベットは本を魔法研究所へと送り返させ、自身は部屋へと戻った。様々な思いが頭の中を駆け巡り、一人で思考を整理する時間が必要だった。




