・今というもの
・今というもの
それから数日、俺はバイトと夏休みの宿題に追われていた。たったそれだけの日々。目新しさも変わったこともない。日々の変化も特にない。
ニュースを見ても新しい国が出来ていたり、知らぬ間に滅亡してたりもしない。兄弟が生えることも、俺たちの誰かが消えていたりすることも、知らない知識が頭の中にあったりもしない。
こっちの世界での、最初の異変に気付いただけで、俺たちは否も応も無く、日々の時間に追われていた。南が去った後、俺たちは普通に過ごしていた。
先輩はすぐにコミケの準備に戻った。申し込みも脱稿も済んで、当日の手配のことで忙しそうだった。俺のほうにも、売り子を手伝ってくれと言ってきた。丁度その日は、バイトの合間だったので了承した。
なんでも学校の卒業生がやってるサークルで、先輩もよく顔と本を出しているんだとか。どうも嫌な予感がする。
海さんは家族旅行の準備に向けて、店の休業準備をしないといけないんだとか。ここではない田舎に行って、一週間ほど過ごすらしい。
高校二年で既に進路を決めているそうだから、ゆっくりできるのは、これが最後かも知れないと言ってた。
儚げな笑いを浮かべた、海さんの横顔が忘れらない。俺たちの中で次にいなくなるとしたら、たぶんあの人だろうな。
進路か。俺の進路は決定してるけど、そうか。俺も本当なら、いや、俺の本当は向こう側にある。だから、この場合はもしもだな。
俺も受験か就職先を考えて、何かをしていた可能性があるのか。つっても今度は学費のために、バイトは続けないといけないし、就職っつっても何の当ても無し。
パート掛け持ちなんて、いつ破綻するかも分からん暮らしだし、学校出た所で、継続して生きていけるような仕事に、ありつけるのかってのも疑問だ。
まあ、福祉なら食いっ逸れ難いとは聞くけど、それもどこまで本当か。
「目下の先輩二人組みも、どうやって生きていくのかねえ」
こうして見ると、人生なんてどうなるか分からないんだな。それなのに、死ぬまで生きていかなくちゃいけないってんだから、酷い話だ。
一生続くんだから、一生目を背けていようって奴が出ても、不思議はないんだ。だからと言って、それに他人を巻き込むのは、ご法度だけど。
変わらない。誰も。時間に追い立てられても。
変われない。誰も。誰かがいなくなっても。
「むなしいな」
「宿題をやってる時間が」
「違う」
机の反対側の席に座ったミトラスが言う。数学の問題に四苦八苦している俺は、彼に懇切丁寧に説明してもらうことで、何とか進めることができた。
異世界出身なのに、俺よりすんなり理数のことを覚えてしまったので、非常にありがたい。
やはり頭のデキに、時代や世界や文明は関係ないな。たぶん俺が赤ん坊の頃に、現代から江戸時代に送られて、育つなんてことがあれば、俺のオツムは江戸時代相当になってたはずだ。逆を言えばファンタジーの世界人だって現代で育てば現代人だろう。
あくまでも周りにあるものが、異なるってだけで、環境が個人の努力の伸びしろに、関与することはあっても、生まれた世界が違うからと、異なる世界や時代、文明のことが、まったく分からないということは無いのだ。たぶん。
だからこれは単純に、俺という人間の頭がよろしくないだけであって、決して歴史が改変されたことにより、数学のレベルが著しく上がっているとか、異世界から帰ったから理解不能になったとか、そういうんじゃないんだ。よかった。
よくねえよ。
「友だち一人いなくなったところで、変わり映えしない人生ってのは、むなしいなと思ってさ」
数学なのに文字と暗記ばかりになって、納得がいかないまま問題の答えを書いてから、俺は一息入れることにした。背を逸らして大きく伸びをする。
「人生を続けるだけの人生は、そうだね。でも静かだよ」
穏やかで、諭すような調子でミトラスは答えた。何気なく、彼の緑色の髪を撫でる。
「何かをし続けることで人生が出来て、それを続けていけるのが、デキる人って奴なのかね。でも、それって結局、その何かの外、上、他、とにかく、人との繋がりっていうのは、どれだけ大切にしたくても、その中には入らないのかな」
「し続けていることからの観点で言えば、関わり合いの乏しいことの意味は薄く、価値は低くなるだろうね。だから気持ちの問題なんだ。時が経てば、それはどんどん、大事なものだと思えなくなっていくよ。だから、自分が大切にする以外に、大切にしておくことはできないんだ。誰にも預けられないし、任せられない」
「大変だな」
「大変なんだよ」
きっぱりと言い切るミトラスの目は、こちらを捉えて放さない。彼が大切だと思うことを教えているのだ。
「だから、気持ちのことはどんどん隅に追いやられていく。そうして何時しか自分の気持ちさえ考えられなくなって、消えていくんだ。寂しいし、情けないことさ」
「厳しいな」
「大事なことだからね」
溜め息を一つ吐いて、席を立つ。冷蔵庫から麦茶のパックを取り出して、コップに注ぐ。それを一息に呷り、また冷蔵庫に戻す。振り向いてリビングの外を見る。晴れている。とても静かだ。誰もいない。
「……南は元気にしてるかね」
「大切なことなの」
「そういうことにしておきたい。今のところは」
くすり、と笑って静かに目を閉じた。茶化すようなものではなく、しょうがないものを見るときの、苦笑のようなものだ。
そんなとき、電話が鳴った。誰からか。学校から名簿屋に売り払われた名簿から、塾の勧誘の電話や、悪質なプロバイダ乗り換え話など、その手の詐欺がかかってくることはあるが。こういう気持ちのときに、そんなのには出たくないな。
「もしもし」
『もしもし? 臼居さんのお宅ですか』
「はい、うちは臼居ですが」
女の声。受話器の向こう。聞き覚えがある。でも誰だろう。人間の声って年齢が進まないと、だいたい皆同じ声だから判別が難しい。
『あ! 良かった! 私私!』
「詐欺か」
『私だって分かってそういうこと言わないでよ!』
相手が誰だか分かった。つい先日お別れしたばっかりだっていうのによ。
「悪い。どうした南。忘れ物か。大人行きのバスにでも乗り遅れたのか」
『そんなんじゃないわよ』
「そうか。そういえばこれって未来からかけてるのか。いや、お前のところの世界が違うのか。じゃあ違う世界からかけてることになるのか」
南の小さく笑う声が聞こえる。何だかおかしなことになったな。今更か。俺のほうからも、小さく声が漏れる。
『それも外れ。実はね、私今、こっちに戻ってきてるの。今度は勉強でね』
「てことは、無事に仕事は辞められたんだな。良かったよ。特に問題はないか」
『ないわ! 話したいことは一杯あるんだけど、今は荷解きに忙しいから、それはまた今度会ってから話す』
期待を胸にしているかのような高揚感と、幸せそうな雰囲気が、耳に伝わる。何をどうしてそんな選択をしたのか。気にはなるが、今度話してもらおう。
『それにしても、驚かないのね』
「まだ寂しくなるほど時間が経ってないからな」
本当は別れる前から寂しくはあった。でもそんなことは言ってやらない。南は俺の吐いた言葉を、嘘と知ってか知らずか、先を続けた。
『そっか。まだそっちじゃあそうなのよね……ごめんなさいね臼居さん。あなたに謝らないといけないことがあるの』
「なんだいったい」
急に南の声から元気が無くなる。どうやら彼女だけ、あの日からずっと時間が経っているようだ。もう俺たちと同じ、数日後の彼女ではないんだな。
『あのね、私あなたよりいっこ年上になっちゃったから、秋からは先輩になるの』
「なんだそんなことか。むしろ十歳くらいかさんで、顧問として現れたらどうしようかと」
そんな時間移動あるある、あってたまるかとは思うが実際にそうなってもこの際不思議には思わない。電話口の南はずっと楽しそうだった。
『やあね、そんなオバちゃんになったら、顔合わせられないわよ! でも私もう先輩だから、今度からはそういう扱いでお願いね、サチコ!』
「ん、おいてめえ今何つった」
『じゃあまたね!』
ぶつっという音がして、そこで電話が切れた。臼居祥子今年で十九歳。高校一年生。秋から目下の同輩が、先輩になる。性質の悪い冗談だ。
「どうしたの」
ミトラスが意地の悪い顔で聞いてくる。机に頬杖を突いて尋ねる姿勢は、身長が足りないので、些か滑稽である。
「南が帰って来たんだとさ」
「そう。良かったね」
「う~ん。そう、だな」
「なんで肯定するのにそんなに時間かかるの」
友だちだけど俺は南が嫌いだからな、あるかないかで言えばある。肯定か否定かで言えば肯定、0か1か-1で問えば限りなく0に近い正の数。だからまあ、こればっかりは仕方ないんだよ。
まあ、悪い気はしないけどさ。
「いいんだよ。良かったんだから、それでいいんだ。それ以上は止そう」
「君たちって仲が良いのか悪いのか、いまいちはっきりしないなあ」
「そういう関係もあるの。ほら、宿題やろうぜ」
納得のいかない様子のミトラスを無視して俺は宿題を広げたテーブルへと戻った。
「太陽は東から昇るけど、南は明日から来るんだな。なんて、ふふ」
「何言ってんのサチコ大丈夫?」
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さ、宿題やろ!
<了>
これにてこの章は終了となります。
ここまで読んで下さった方々、本当にありがとうございました。
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