第六章 山門の下の影
荒野を吹き抜ける風には、どこか殺伐とした気配があった。
枯れ果てた草木を揺らしながら、冷たい風が二人の間を通り過ぎていく。
天剣宗。
その名は、数千里にも及ぶ周辺一帯に轟いている上宗である。
その山門は、霊気が最も濃いとされる雲嵐山脈に築かれていた。
雲を突き抜けるほど高い峰々。
その頂には、精巧な楼閣や玉造りの宮殿が、霞む雲海の中に浮かんでいる。
山々を覆う護宗大陣からは淡い金色の光が絶えず流れ、まるで天上の神殿そのものだった。
――そして、その仙家の聖地を見上げる山の麓には。
一年を通して、陽の光さえほとんど届かない、痩せた坊市が広がっていた。
そこに暮らしているのは、上宗への供物を捻出するために、日々を這うように生きる低階の散修や、凡人の小作人たち。
彼らにとって、上宗とは遥か高みに君臨する支配者であると同時に――
いつ頭上へ振り下ろされるとも知れない、処刑刀のような存在だった。
そんな坊市の通りに、終夜と晏清の姿が現れた。
周囲の人々が、一斉に二人へ視線を向ける。
警戒。
そして、恐怖。
二人は意図的に気配を抑えていた。
それでも、これまで幾度となく血戦を潜り抜けてきた身体には、完全には消し去れない血の匂いが染みついている。
周囲の散修たちは、それを本能的に感じ取ったのだろう。
誰もが、二人から三歩、四歩と距離を取っていった。
「……頭がおかしいんじゃないの?」
晏清は斗笠の縁を少し下げた。
周囲を見渡す。
そこにあるのは、諦めと麻痺が入り混じったような顔ばかりだった。
彼女は声を落とし、前を歩く終夜へ言った。
「天剣宗は、ついさっき築基修士を何人も失ったばかりよ。今頃、山門は間違いなく厳戒態勢になっている。そんなところへ、傷を負ったまま自分から乗り込むなんて……自殺しに行くようなものよ」
終夜は懐から、古びた紋様の刻まれた銅銭を取り出した。
指先で軽く放り上げ、落ちてきた銅銭を受け止める。
その表情に、焦りはない。
「一番危険な場所ほど、因果は薄くなることがある」
淡々とした声だった。
「さっき俺たちが殺した連中は、命魂簡が砕けた時点で、詳しい状況を伝える暇なんてなかった」
銅銭をもう一度、指先で弄ぶ。
「天剣宗が今知っているのは、誰かが自分たちに喧嘩を売った――その程度だ」
終夜は前方を見たまま、続ける。
「まさか、たかが二人の散修が、自分たちの目の前まで直接手を伸ばしてくるとは思わないだろうさ」
二人は坊市の片隅にある、粗末な茶寮へ入った。
店内にいる客は少ない。
隅の席では、数人の低階散修が周囲を気にしながら、声を潜めて何かを話していた。
話題は、数日前に青石鎮から届いたばかりの、とんでもない知らせだった。
――一人の凡人の少年が、上宗の長老を殺した。
天剣宗がこの一帯を支配してきた長い歴史の中でも、前代未聞の出来事だった。
「聞いたか? あの小さな町は、もう天剣宗の執法隊に囲まれてるらしい」
「町中の人間が一人残らず調べられてるって話だ……」
「はぁ……なんてことをしちまったんだ」
「上宗に逆らったんだ。あの凡人たちは、たとえ誰一人手を出していなくても……もう助からないだろうな」
その話を聞いた晏清は、茶杯を握る手にわずかに力を込めた。
そして、終夜を見る。
終夜はというと、興味深そうな顔で、茶寮の外を眺めていた。
そこでは、ぼろぼろの衣服をまとった一人の薬草採りの少年が、坊市の護衛たちに追い払われていた。
「……あの子を見てるの?」
晏清が尋ねる。
終夜はしばらく少年を見つめたまま、答えた。
「俺が見てるのは、あの子じゃない」
やがて視線を戻し、粗末な茶杯を持ち上げる。
一口、質の悪い茶を飲む。
「この世界の『秩序』だ」
淡々とした声だった。
「上宗が高いところに立っていられるのは、奴らが慈悲深いからじゃない」
終夜はゆっくりと目を細めた。
「絶対的な力で網を編んで、誰もが生まれた時からこう思うようにしているだけだ」
茶杯を置く。
「――仙人に跪くのは当然だ」
「――搾取されるのも、当然だ」
終夜の視線が、遠くへ向けられる。
雲と霧の向こう。
そこには、天剣宗へ続く長い石段があった。
「だがな」
その声が、わずかに低くなる。
「一ヶ所でも破ればいい」
「たとえそれが、一本の鈍い鉄剣でつけた、ほんの小さな傷でもな」
終夜は遠くの山門を見つめた。
「いつも見上げることに慣れていた連中は、そこで初めて気づく」
「――仙人だって、血を流す」
「――そして、死ぬんだとな」
その言葉が落ちた、直後だった。
茶寮の外から、突然、慌ただしい蹄の音が響き渡った。
同時に、強烈な霊圧が坊市全体へ押し寄せる。
数名の天剣宗の執法弟子たちが、金の縁取りが施された白衣をまとい、妖獣に跨って通りを駆け抜けていた。
先頭を走る男は鋭い眼差しで坊市の人間を一人ずつ睨みつける。
そして、怒鳴り声を響かせた。
「最近、山門周辺は厳戒態勢に入っている!」
「外から来た散修は、全員ただちに霊石を差し出し、神識による検査を受けろ!」
「逆らう者は――斬り捨てる!」
轟――!
恐ろしい築基期の威圧が、一気に茶寮の中へ叩き込まれた。
そこにいた散修たちは、一瞬で顔面から血の気を失った。
身体を震わせながら立ち上がり、検査を受ける準備を始める。
だが。
終夜だけは、座ったままだった。
姿勢すら変えていない。
ただ、ほんの少しだけ横を向く。
隣に座る晏清へ視線を送った。
彼女はすでに耐えきれなくなったのか、片手を剣の柄へ添えている。
終夜はそれを見て、目を細めた。
「焦るな」
口元に、冷たい笑みが浮かぶ。
「――向こうから、隙を見せに来てくれたんだ」




