第三章 鈍刀が肉を裂くとき、執念の代償
雨水に混じった真っ赤な血が、青石鎮の崩れかけた広場に細い川となって流れていた。
剣を握った少年は、両目を真っ赤に染めていた。
まるで狂人だった。
その手にある鉄剣には、刃がない。
もともと斬ることすら難しいほど不格好な鈍器に近い代物だった。
それでも――
極限まで膨れ上がった憎しみと絶望が、その一振りに凄まじい力を与えていた。
「――グチャッ!」
骨が砕ける音。
肉が引き裂かれる音。
その直後。
上宗の長老は、信じられないものを見るように目を見開いた。
ゆっくりと視線を下げる。
胸元から――
一本の鈍い鉄剣が突き出していた。
「……な、ぜ……」
長老には理解できなかった。
自分は高みに立つ修仙者だ。
一介の凡人など、指一本で殺せる存在のはずだった。
それなのに。
霊脈すら目覚めていない、ただの少年に。
一本の鈍器同然の鉄剣で――
自分は、刑台に縫い付けられていた。
「ぐ……っ!」
長老の体内で、真元が暴走する。
次の瞬間。
「ドォンッ!」
凄まじい余波が周囲へと弾け飛んだ。
少年の身体が数丈も吹き飛ばされる。
地面へ激しく叩きつけられた少年は、何度も血を吐いた。
手から鉄剣が離れ、泥の中へ転がっていく。
それでも――
少年は泣かなかった。
顔についた血を拭うことすらしない。
ただ、倒れた長老を見つめていた。
そして――
「……く、くく……」
死にかけた獣のような、掠れた笑い声を漏らした。
その笑い声が、雨の中に不気味に響いた。
広場に跪いていた凡人たちも、ようやく顔を上げた。
血の海に沈んだ上宗の長老。
その姿を見ても――
彼らの目に喜びはなかった。
そこにあったのは、
ただ、
「災いが来る」
という茫然とした恐怖だけだった。
「こ、殺した……」
「上宗の人間を殺した……!」
「どうするんだ……!」
「上宗が俺たちを許すはずがない!」
「狂ってる……!」
「この狂人が仙師様を殺したんだ!」
恐怖は、疫病のように人々の間へ広がっていった。
ある者は少年から離れるように後ずさりし、
ある者は少年を指差して罵声を浴びせた。
まるで――
少年とは無関係だと示しさえすれば、上宗の刃が自分たちに向けられることはないとでもいうように。
広場の隅。
終夜は、崩れかけた石柱に寄りかかったまま、その光景を冷静に眺めていた。
少年のもとへ駆け寄ることもしない。
傷だらけの身体を支えてやることもしない。
怯えている町の人々を慰めることもしない。
ただ、ゆっくりと腰を屈めた。
泥の上に落ちていた一本の鉄剣を拾い上げる。
血にまみれ、刃先が完全に潰れてしまった鉄剣。
終夜はそれを眺めると、衣の裾で適当に血を拭った。
そして、そのまま腰へ差し戻す。
「……もう十分だろ?」
終夜は振り返らなかった。
声にも、感情らしい感情はなかった。
「これがお前の選んだ復讐だ」
「今この瞬間から――」
「お前はもう、地面に跪いて死を待つだけの臆病者じゃない」
終夜は淡々と言葉を続けた。
「だが、俺がお前を連れて逃げてやるとは思うな」
「これから生きるのか、死ぬのか」
「お前たちが他の連中を連れて山奥へ逃げ込むのか」
「それとも、知らせを聞きつけてやって来る上宗の修仙者たちに捕まって、皮を剥がされ、骨を抜かれるのか――」
終夜は、わずかに間を置いた。
「それは、お前自身の問題だ」
少年は泥の上で身体を起こそうとした。
両手を地面につき、何度も震えながら身体を支える。
そして――
遠ざかっていく終夜の背中を見つめた。
その背中は、決然としていた。
孤独だった。
少年の唇が震える。
何かを言おうとして、何度も言葉に詰まる。
やがて――
少年は、血と泥にまみれた地面へ額を叩きつけた。
「……ありがとう」
掠れた声だった。
「先生……」
「……刀を授けてくれた恩、決して忘れません!」
終夜は足を止めなかった。
そのまま青石鎮を後にする。
血の臭いが充満した、この辺境の町を。
……
三日後。
青石鎮が上宗によって大規模に血で洗われたという知らせは、静かな湖へ巨大な石を投げ込んだかのように、瞬く間に広がった。
その噂は、周囲千里にまで広がり、大きな波紋を呼んだ。
だが――
その騒ぎの発端となった男は。
すでに、荒涼とした茶屋の一席に座っていた。
茶屋はひどく粗末だった。
周囲には、ただ果てしない荒野が広がっている。
終夜は乾いた布で鉄剣を拭きながら、わずかに眉をひそめていた。
上宗の長老を殺したことで生じた因果は、すでに彼の身へ絡みつき始めている。
終夜には分かっていた。
どこかで――
何者かが秘術を使い、自分の動向を監視している。
そして、それ以上に厄介なのが――
連続した霊力の酷使と負傷によって、体内の経脈が鈍く痛み始めていることだった。
この、人が人を喰らう修仙界で。
たった一人。
一本の剣だけを頼りに。
世界の果てまで歩き、あの偽りに満ちた天幕を引き裂こうとする。
それは、あまりにも無謀だった。
蟻が大樹を揺さぶろうとするようなものだ。
「……仲間は、必要?」
その時だった。
茶屋の隣から、冷たい氷のような声が聞こえた。
だが、その声にはわずかな掠れも混じっていた。
終夜はゆっくりと目を上げた。
斑な陽射しが差し込む茶屋の前。
そこに、一人の若い女修士が立っていた。
身にまとっているのは、重厚な鎧。
細身で背は高い。
だが、その姿にはどこか疲弊した様子があった。
精巧な重甲には、目を背けたくなるほど無数の剣痕が刻まれ、ところどころ大きくひび割れている。
つい先ほどまで、凄惨な宗門滅亡の戦いを経験してきたのだろう。
女の手には、一本の重い長剣が握られていた。
剣先は斜めに地面を指している。
その瞳に、恐怖はなかった。
あるのは――
ほとんど執念と呼べるほどの、冷たく揺るがない意志だけだった。
「……お前は誰だ?」
終夜は眉を上げた。
突然現れた女を、興味深そうに眺める。
女は表情を変えなかった。
「晏清」
短く名乗る。
「青石鎮のことは聞いた」
「あなたが何をしようとしているのかも知っている」
「そして――」
晏清は終夜を真っ直ぐ見つめた。
「あなたには、正面から致命傷を引き受けられる盾が一人足りない」
ズンッ――。
晏清は手にした重剣を地面へ突き立てた。
その衝撃で、周囲の砂埃が円を描くように舞い上がる。
「私はあなたの同情など必要ない」
「あなたに救世主になってほしいわけでもない」
彼女の声には、一切の迷いがなかった。
「私が欲しいのは――」
「復讐する機会」
そして――
「この、人を喰らう世界で、せめて人間として生き抜ける場所」
晏清は剣から手を離さない。
「だから――」
「契約を結びましょう」
終夜は、しばらく彼女を見つめていた。
やがて――
ふっと笑った。
その笑みには、温度がなかった。
ただ、盤上に新しい駒が置かれたことを楽しむような、わずかな愉悦だけがあった。
「いいだろう」
終夜は立ち上がった。
腰に掛けていた鉄剣を、もう一度確かめるように手で押さえる。
そして――
「第一歩は、生き残ることだ」
晏清を見る。
「俺についてこい」
終夜の口元に、薄い笑みが浮かんだ。
「――この先は、人が死ぬぞ」




