第二章 三息の約束、破陣の刃
雨が、ついに降り始めた。
細い雨脚が無数の糸となって空から降り注ぎ、冷たい寒気を伴いながら、乾ききってひび割れた青石鎮の大地を濡らしていく。
広場は、針一本落ちても聞こえそうなほど静まり返っていた。
誰もが泥の上に伏せ、呼吸さえ意図的に押し殺している。
高台の上。
紫色の長衣を纏った上宗の長老が、眼下を見下ろしていた。
その口元には、まるで猫が鼠を弄ぶかのような残忍な笑みが浮かんでいる。
手にした招魂幡が、ゆらり、ゆらりと揺れた。
そこから溢れ出す黒い怨気が、柱に縛りつけられた数人の凡人へ、蛇のように絡みついていく。
「時間だ」
長老が冷たく言った。
「愚かにも抗い続ける蟻どもよ――」
「お前たちの希望もろとも、灰になれ」
低く吐き捨てると、長老の体内から真元が一気に膨れ上がった。
法器を完全に発動させ、目の前の命を刈り取ろうとした――
その時だった。
「……おい、爺さん」
場違いな笑い声が、突然、静寂を切り裂いた。
「……?」
長老の眉が動く。
広場の暗がり。
石柱の陰から、終夜がゆっくりと歩み出てきた。
片手は長衣の袖袋に入れたまま。
雨に濡れた髪が額へ張りついている。
それでも、その目に浮かぶ気怠げな嘲笑は、少しも消えていなかった。
「反抗することすらできない家畜を何匹か殺しただけで、自分を神様だと思っているのか?」
終夜は小さく首を傾けた。
「修仙者になるための敷居ってのは――ずいぶん低いんだな」
一瞬。
広場中の視線が、終夜へ集中した。
上宗の長老は眉をひそめた。
神識を放ち、終夜の身体を探る。
だが――
感じ取れたのは、散修特有の雑多な霊力の波動だけだった。
名門宗門の強者どころか、どこにでもいる散修と大差ない。
それを確認した長老は、鼻で笑った。
「どこから湧いて出た野修だ」
「身の程も知らぬ愚か者め」
「そこまで死に急ぐというのなら――」
長老の目が冷たく細められた。
「この俺が、先にあの世へ送ってやろう!」
言葉が落ちると同時に、長老が袖を払った。
シュッ――!
数本の鋭い青い剣気が、長い虹のように空を走った。
空気を引き裂くような轟音を響かせながら、一直線に終夜の顔面へと迫る。
しかし――
「第一歩――」
終夜は、まぶたすら動かさなかった。
「契約の履行だ」
剣気が身体へ届く、その瞬間。
終夜の身体が、まるで幻影のように横へ滑った。
手にした鉄剣は――
抜かれてすらいない。
ただ、極限まで研ぎ澄まされた身のこなしと、相手の真元の軌道を一瞬で読み取る判断力だけで、密集した剣気の網をすり抜ける。
無数の剣気が交差する中に――
肉眼でもはっきりと分かる、一筋の隙間が生まれた。
終夜はそこへ身体を滑り込ませる。
「轟ッ!」
直後。
彼の背後にあった石柱へ、剣気が直撃した。
石片が爆ぜ、雨の中を飛び散っていく。
だが、終夜はすでにそこにはいなかった。
爆発の反動を利用し、身体を横へ滑らせる。
その姿はまるで幽鬼。
数十丈もの距離を一瞬で駆け抜け――
広場の端にある、護宗大陣の陣眼へ一直線に向かっていく。
「止めろ!」
長老の顔色が変わった。
「奴は陣基を狙っている!」
声が響く。
次の瞬間、上宗の精鋭弟子たちが一斉に剣を抜いた。
数本の法宝が放つ光が交差し、巨大な光の網を作り上げる。
終夜の進路を、完全に塞いだ。
「――三息」
終夜が足を止めた。
そして、ゆっくりと振り返る。
その視線が向かった先。
少し離れた暗がりに、あの血まみれの少年が立っていた。
少年は、終夜から渡された鈍い鉄剣を両手で握り締めている。
身体は、激しく震えていた。
終夜は少年を見た。
「俺がお前のために、こいつらを三息だけ引き受ける」
「大陣の防御結界も――俺が破ってやる」
その声は決して大きくなかった。
それでも雨音を突き抜け、少年の耳へはっきりと届いた。
「生き残れるかどうかは――」
終夜は、鉄剣を握る少年の手へ視線を落とした。
「お前の刀が、こいつらより速いかどうかだ」
その言葉が終わった瞬間。
終夜が動いた。
派手な大技などない。
天地を揺るがすような威圧もない。
ただ、身体の中に残された僅かな霊力が、一気に燃え上がった。
そして――
手にした刃のない鉄剣が、まるで巨大な鉄槌へと変わったかのように振り抜かれる。
真正面から、数人の上宗弟子による連携攻撃を迎え撃った。
「ガァン――ッ!」
金属と金属が激突する轟音が、広場中に響き渡った。
終夜の虎口が一瞬で裂けた。
鮮血が柄を伝い、鉄剣を赤く染めていく。
その顔色も、わずかに白くなった。
――当然だ。
終夜は無敵ではない。
数人を相手に真正面から受け止めれば、その一撃一撃が確実に身体を削っていく。
だが。
終夜は歯を食いしばった。
退かない。
血の滲む肉体と、常識外れなほど巧妙な立ち回りだけを頼りに――
数人の上宗修士を、その場へ釘付けにしていく。
一息。
二息。
そして――
三息。
「――今だ!」
終夜が低く叫んだ。
全身に残った力を、一本の鉄剣へ叩き込む。
そして――
護宗大陣の陣眼。
その最も脆い一点へ向けて、鉄剣を叩きつけた。
「――バキィッ!」
乾いた破砕音が響いた。
次の瞬間。
青石鎮全体を覆い、そこにいるすべての者の呼吸を押し潰していた護宗大陣の光幕が――
大きく裂けた。
「……!」
巨大な亀裂が走る。
狂暴な霊気の奔流が、そこから一気に吹き荒れた。
終夜は反動でよろめき、半歩後ろへ下がった。
口元から流れた血を、手の甲で拭う。
それから、少し離れた場所にいる少年へ顎をしゃくった。
「道は開けた」
「――行け、小僧」
少年は、終夜の背中を見つめていた。
自分のために。
この男は、自ら傷を負いながら、生き残るための道をこじ開けた。
その背中を見つめているうちに――
少年の目から、ついに涙が溢れ出した。
恐怖。
絶望。
憎しみ。
それらすべてが、一つの冷たく、そして熱いものへと変わっていく。
少年はもう、神に祈らなかった。
救世主を待つこともしなかった。
両手で、あの鈍い鉄剣を強く握り締める。
足に力を込めた。
そして――
「うああああああああッ!」
獣のような咆哮を上げた。
血と泥にまみれた身体で――
少年は、刑台の上に立つ「あの男」へ向かって走り出した。
自分の両親を奪った、あの高みにいる仇へ。
その手にあるのは――
ただ一本の、刃すらついていない鈍い鉄剣だった。




