第一章 契約と一本の鈍刀
今にも降り出しそうな大雨を前に、空気には硫黄と腐った土が混じったような、生臭い臭気が漂っていた。
青石鎮の路地は、ひどく静まり返っている。
人々は皆、低く狭い土壁の家へと身を隠し、戸も窓も固く閉ざしていた。誰もが息を潜め、外の気配を窺っている。
今日は――「上宗大人」が三年に一度行う、血祭りの徴税日だった。
弱肉強食。
修仙者が凡人を草木同然に扱うこの世界では、青石鎮の人々もとうの昔に慣れてしまっていた。
自分たちの命運を、形のない神々と、遥か高みにいる仙家の庇護に託すことに。
その頃。
鎮の中央にある広場には、黒山のように大勢の民が跪いていた。
額を冷たい泥に押しつけ、誰もが小さな声で何かを呟いている。
どうか仙師様のお慈悲がありますように。
どうか、今日だけは生き延びられますように。
そんな祈りばかりだった。
だが――
広場の端、建物の影に、一人だけその場に似つかわしくない男がいた。
終夜。
彼は斑の浮いた石柱に背を預け、気だるそうに立っていた。
身につけているのは、何度も洗われて色褪せ、ところどころ生地まで緩んだ散修の長衣。
その手には、古びた紋様の刻まれた一枚の銅貨があり、暇つぶしのように指先で弄ばれている。
黒髪は無造作に後ろで束ねられ、額には数本の前髪が垂れていた。
その奥にある瞳は、どこか気怠げでありながら――妙に澄んでいる。
どう見ても、こんな人間地獄に現れるような「大人物」には見えない。
むしろ、どこかの坊市の酒場で粗末な霊酒を飲み終え、
「さて、どこかで寝るか」
などと考えている、ろくでもない散修にしか見えなかった。
「……なあ。そこの黒い服の……」
足元から、かすかな声が聞こえた。
震えている。
それでも、その声には狂おしいほどの執念が滲んでいた。
終夜はゆっくりと視線を落とした。
そこには、全身を血で染めた少年がいた。
年は十四、五歳ほど。
両手は、地面に爪を立てるほど強く握り締めたせいで、すでに皮膚が裂け、血肉が露わになっている。
整っていたはずの顔には、絶望と――凄まじい憎悪が浮かんでいた。
少年の少し先。
刑台の上では、つい先ほどまで少年の両親が立っていた。
だが今は、もういない。
上宗から派遣された修仙者によって、生きる力そのものを奪われたのだ。
理由はただ一つ。
納めるべき下品霊石一枚を用意できなかった。
「……あんた……修士なんだろ?」
少年は終夜の衣の裾を、震える手で掴んだ。
「聞いたんだ……。何日か前、酒場で張家の測霊盤を……片手で叩き割ったって……」
少年は顔を上げた。
涙と血が混ざり合い、頬を伝って泥の中へ落ちていく。
その瞳には、もはや正気とも呼べない光が宿っていた。
「頼む……!」
「殺してくれ!」
「あいつらを……あの高みにいる修仙者たちを、全部殺してくれ!」
「俺の仇を討ってくれるなら……俺の命をやる!」
「俺の持っているもの、全部……全部あんたにやるから!」
周囲で跪いていた人々が、その声を聞いて一斉に振り返った。
そして――
恐ろしいものでも見たかのように、少年から距離を取っていく。
中には、小さな声で少年を罵る者までいた。
「馬鹿なことを……」
「死にたいのか……」
「あいつを巻き込むな……俺たちまで殺されるぞ……」
終夜は動かなかった。
話の中に出てくる聖人のように、慈悲深い顔をして少年を助け起こすこともしなかった。
かといって、冷酷な悪人のように蹴り飛ばすこともしない。
ただ、弄んでいた銅貨を止めた。
そして、少年を見下ろした。
その声は、市場で一つの商談でもしているかのように平坦だった。
「お前の両親を救うことも、上宗の修仙者を殺すことも――俺の仕事じゃない」
少年の瞳が、大きく見開かれた。
そこにあった光が、音もなく砕けていく。
「……どうして……?」
「どうしてだよ……!」
「こんなに強いんだろ……?」
「修士っていうのは、みんな人助けをするんじゃないのかよ!」
「どうして……俺たちを助けてくれないんだ!」
「人助け……?」
終夜は小さく鼻で笑った。
そして銅貨を懐へしまい、身体をゆっくり起こした。
「小僧。二つ、勘違いしている」
「一つ目。」
「俺は救世主じゃない」
「お前たちのために暇を持て余している菩薩様でもない」
「俺はただの――通りすがりの契約者だ」
そして――
「二つ目だ」
終夜はわずかに身を屈めた。
細く長い指が少年の襟首を掴む。
そのまま、無理やり少年を引き上げた。
先ほどまで気怠げだった瞳に――
一瞬だけ、刃のような冷たい光が走った。
少年は息を呑んだ。
「俺に頼みたいなら、それでも構わない」
「ただし――契約を結ぶ」
終夜の声は低かった。
「俺がお前のために、あの宗門を守る護宗大陣の防御結界を破る」
「そして、お前が中へ入るための三息の時間だけ、あの邪魔な連中を俺が引き受ける」
「それが、俺の支払う代価だ」
少年は呆然と終夜を見つめた。
「そして――」
終夜は腰へ手を伸ばした。
次の瞬間。
一本の鉄剣が抜き放たれた。
まだ刃を入れていない。
むしろ、刃物と呼ぶにはあまりにも鈍い、どこにでもある普通の鉄剣だった。
終夜はそれを、血にまみれた少年の手へ無理やり押し込んだ。
「――お前が支払う報酬は、これだ」
「この刀を貸してやる」
「仇を討ちたいなら、自分でやれ」
「生きたいなら――」
「誰かが空から降ってきて、お前を救ってくれるなんて期待するな」
終夜は少年の目をまっすぐ見つめた。
「これを握れ」
「そして、自分の手で――」
「その刃を、仇の胸に突き立てろ」
少年の身体が激しく震えた。
手の中にある鉄剣は、ひどく重かった。
少年はゆっくりとそれを見下ろす。
それから、目の前の男を見上げた。
冷たい目。
冷たい言葉。
それなのに――
その男は、少年に一つの道を示していた。
誰かに救ってもらう道ではない。
自分自身の手で、生き残るための道を。
遠く。
刑台の上では、上宗の修仙者が嗤っていた。
その手に握られた法器が、ゆっくりと持ち上げられる。
次の凡人の命を刈り取るために。
広場は、完全な静寂に包まれていた。
誰もが目を閉じた。
見たくない。
聞きたくない。
そして――
自分の番が来ないことだけを祈っていた。
終夜は少年の襟首から手を離した。
そして一歩、後ろへ下がる。
再び、建物の影へと身を沈めた。
その口元には、ごく薄い笑みが浮かんでいた。
「――契約成立だ」
終夜は静かに言った。
「小僧」
「見せてみろ」
「お前に――」
「自分自身の救世主になる資格があるのかどうかをな」




