第二十一章 棋盤の反転、狩りの刻
天枢城の夜空が、異様な幽金色に引き裂かれた。
地下深くに眠る「遠古神枢」が強引に逆流を起こしたことで、巨大な都市そのものが、苦痛に呻いているかのように震えている。
太古の巨獣の骸骨の上に築かれた街。
その至るところで、異変が起きていた。
街道の両側に設置されていた巨大な霊晶灯が、一瞬にして次々と爆ぜる。
無数の散修や各勢力の密偵たちが、恐怖に駆られて建物から飛び出してきた。
彼らは空を見上げる。
そこには、無秩序に絡み合う霊気の乱流が渦巻いていた。
「何が起きている!?」
「護城禁制が暴走したぞ!」
「逃げろ! 神枢が爆発する!」
恐慌は疫病のように天枢城全体へ広がっていった。
だが。
嵐の中心にある地下暗室だけは、異様なほど静まり返っていた。
聞風者は足元から伝わってくる激しい振動を感じ取っていた。
外の景色を見ることはできない。
それでも、空気中を走る因果の法則が激しく歪んでいる。
その歪みを通して――
彼女には、はっきりと「聞こえていた」。
城外で韓無咎が反噬を受け、苦痛に叫ぶ声が。
聞風者はわずかに唇を開いた。
そして終夜を見る。
その瞳を覆う黒い絹帯の向こうにある視線からは、初めて――
深い畏敬の色が滲んでいた。
「あなた……」
聞風者はゆっくりと息を吸う。
「神枢全体の因果の流れを、監察使の本命羅盤へ強引に繋ぎ替えたのね……」
彼女の声には、隠しきれない驚きがあった。
「今の韓無咎は、単に反噬を受けただけじゃない」
「上宗連盟が北境全体に張り巡らせていた因果の網そのものが――」
「この一度の逆流によって、完全な死結になった」
終夜は、霊力の汗に濡れた指先をゆっくりと引いた。
最後の一枚の銅銭を袖の中へ収める。
顔色は少し青白くなっていた。
だが、その目はむしろ鋭く輝いていた。
「網が砕けて初めて――」
終夜は静かに言った。
「狩人は、暗闇から出てくる」
彼は振り返る。
その視線が、すでに戦いの準備を整えている晏清へ向いた。
「行くぞ」
終夜の声は静かだった。
「外の『狩人』は、今頃それどころじゃない」
わずかに口元を上げる。
「そろそろ、あの高みから見下ろしている監察使様に――会いに行こう」
晏清は重剣を強く握った。
その瞳に、冷たい戦意が宿る。
「分かった」
そして、短く言った。
「今度は――私たちが網を引く番だ」
……
同じ頃。
天枢城から数里離れた、荒廃した祭壇。
韓無咎は、裂けるような痛みに襲われる識海を両手で押さえていた。
顔色は紙のように白い。
上宗連盟の威厳を象徴していた暗金色の長袍も、今では見る影もなく破れ果てている。
手にしていた因果羅盤は――
完全に壊れていた。
そこに残っているのは、ただの鉄屑だけだった。
「大人!」
数人の副官がようやく我に返り、慌てて駆け寄る。
「お怪我は――」
「失せろ!」
韓無咎は部下の手を乱暴に振り払った。
充血した両目が、風雪の向こうにある城門を睨みつける。
歯を食いしばる。
驚愕と怒りが、すでに限界まで達していた。
まさか。
自分が長い時間をかけて組み上げた局面が――
たった一人の築基修士。
あの「システムの漏洞」によって。
これほど理解不能な方法で、完全に逆転させられるとは。
「いいだろう……」
韓無咎の声が低く震える。
「さすがは『引子』だ……」
「見事な因果逆流というわけか!」
彼は振り返った。
「命令を下せ!」
「金丹期以上の護法は、全員俺について来い!」
「今日、この天枢城を地面から消し飛ばすことになろうとも――」
韓無咎の目に殺意が宿る。
「俺はあの二人の狂徒を、必ず八つ裂きにしてやる!」
「その機会は――」
風雪の中から、静かな声が響いた。
「もうないと思うぞ」
韓無咎が、勢いよく振り返る。
祭壇の端。
風雪に包まれた暗がりから、二つの人影がゆっくりと歩いてくる。
先頭にいるのは、粗布の長衣をまとった青年。
その手には――
刃を入れていない鉄剣。
その隣には、重甲をまとった女修。
全身から、凍てつくような殺意を漂わせている。
「……終夜!」
韓無咎は目を見開いた。
次の瞬間、顔に歪んだ笑みが浮かぶ。
体内の傷を無理やり押さえ込み、元嬰初期の恐ろしい威圧を一気に解き放った。
「天国への道があるというのに、お前は進まず――」
「地獄に入口がないというのに、自分から飛び込んできたか!」
韓無咎の声が荒野に響き渡る。
「自分から俺の前へ来た以上――」
「今日ここで、まとめて始末してやる!」
轟ッ――!
凶暴な真元が韓無咎の掌へ集まり始める。
やがてそれは、一振りの黄金の戦槍へと変わった。
戦槍が振るわれる。
その先端から放たれた力が、吹雪そのものを引き裂いていく。
だが。
金丹巔峰。
そして、元嬰の境界にすら触れかけた殺招を前にしても――
終夜は眉一つ動かさなかった。
ただ、ゆっくりと目を上げる。
その声は冷たく淡々としていた。
まるで、すでに死刑の宣告を終えた者のように。
「お前が因果羅盤を天枢城へ向けた、その瞬間から――」
終夜の目が、韓無咎を捉える。
「この棋盤の勝敗は、もう決まっていた」
言葉が落ちるより早く――
「――ッ!」
晏清の身体が弾け飛んだ。
まるで砲弾のように、一瞬で距離を詰める。
重剣が轟音を上げた。
その一撃には、山を砕き、大地を裂くほどの力が込められている。
正面から――
韓無咎の黄金の戦槍へと、激突した。




