第十八章 暗室の局中人
暗門の向こうにあったのは、想像していたような陰湿で湿った拷問部屋ではなかった。
そこにあったのは、古風な装飾が施され、異香の漂う広々とした茶室だった。
茶室の中央には、一枚の墨玉を丸ごと削り出して作られた棋盤が置かれている。
その上には、黒と白の棋子が整然と、しかし複雑に配置されていた。
棋盤の前に一人の若い女が座っている。
素白の長衣をまとい、整った顔立ち。
だが、その両目には一本の黒い絹帯が巻かれていた。
女は細く長い指で黒石を一つ摘まみ、まるで極めて複雑な局面を一人で読み解いているかのように、盤上を見つめていた。
足音が聞こえても、女は顔を上げなかった。
その声だけが、玉石を打ち合わせたような冷たさで響く。
「青面老鬼に例外を認めさせ、しかも天剣宗の命魂の残印を通行証代わりに使う……」
女の指先が、黒石をゆっくりと弄ぶ。
「北境でそんなことができる人間は、上宗連盟をひっくり返した『引子』以外には、そう何人もいないでしょうね」
晏清の目が鋭くなる。
彼女は反射的に重剣へ手を伸ばし、体内の真元を密かに巡らせた。
「お前は何者だ?」
その声には警戒が滲む。
「どうして私たちの素性を知っている?」
「天枢城に秘密はない」
盲目の女は静かに言った。
「あるのは――ただの、駆け引きの材料だけ」
そう言って、手にした黒石を盤上へ落とす。
――パチン。
乾いた音が茶室に響いた。
女はわずかに顔を傾ける。
両目は黒い絹帯で覆われている。
それでも、人の心を見透かすような鋭い気配には、少しの衰えもなかった。
「自己紹介をしておきましょうか」
「私は、ここで地下の情報を売っている者よ」
「みんなからは――『聞風者』と呼ばれているわ」
聞風者。
その名を口にした瞬間、茶室の空気がわずかに重くなった。
「あなたたちのことを知っている理由?」
彼女は淡々と続けた。
「簡単よ」
「この周囲百里以内には、上宗連盟が送り込んだ『因果監察使』が、すでに天枢城の外周を隙間なく取り囲んでいるから」
終夜の表情は変わらなかった。
相手に素性を見抜かれたことに、驚く様子もない。
彼はそのまま棋盤の反対側へ腰を下ろした。
そして、途中で止まっている盤面を一瞥する。
「監察使がすでに網を張っているのに――」
終夜は淡々と言った。
「それでも、お前は俺たちをこの暗室へ招き入れた」
指先が盤上の棋子を一つ撫でる。
「なら、お前が持っている切り札は、上宗連盟と駆け引きできるほど大きいってことだ」
終夜は顔を上げた。
「言ってみろ」
「俺たちから、何が欲しい?」
聞風者の口元に、意味ありげな笑みが浮かんだ。
彼女は指を引き、傍らに置かれていた一枚の羊皮紙を取り上げる。
そこには、古代の禁制特有の波動が漂っていた。
それを、終夜の前へゆっくりと滑らせる。
「私が欲しいものは、単純よ」
先ほどまでの笑みが消える。
その声に、わずかな重みが加わった。
「北境を上宗連盟が支配している根本は、単純な武力じゃない」
「天枢城の地下に鎮座している――『遠古神枢』」
聞風者はその名を口にした。
「それこそが、彼らがこの衆生を飼い、因果を刈り取るための根源よ」
終夜の視線が、羊皮紙へ落ちる。
「今回、監察使が来た目的も、あなたたちを殺すことだけじゃない」
聞風者は続けた。
「神枢の――次なる血祭りを始めるためよ」
彼女は顔を上げた。
目は見えない。
それでも、その圧迫感だけは真っ直ぐに人の心へ突き刺さってくる。
「あなたたちは、この網を壊したい」
「私は――生き残りたい」
羊皮紙を指先で軽く叩く。
「この地図には、天枢城防御大陣の核心にある盲区と、監察使の布陣に存在する隙が記されている」
短い沈黙。
「協力しない?」
「終夜さん」
終夜は机の上の地図を見つめた。
それから、向かいに座るこの底知れない盲目の情報屋へ視線を移す。
すぐには答えなかった。
細く長い指を伸ばし、机を軽く叩く。
――コツ。
――コツ。
――コツ。
一定の間隔で響く小さな音。
茶室は、奇妙な静寂に包まれた。
聞こえるのはただ、窓の外で風雪が窓枠を叩く音だけだった。
長い沈黙のあと。
終夜はようやく顔を上げた。
口元に、冷たい笑みが浮かぶ。
「協力するのは構わない」
その声は静かだった。
だが、次の言葉には明確な殺気が滲んでいた。
「ただし、その前に――」
終夜は暗室の外へ視線を向ける。
「外で気長に待っているあの狩人に……」
わずかに目を細める。
「噛みつかれる側の気分を、味わってもらおうじゃないか」




