第十一章 大陣の反噬、宗門を揺るがす
雲嵐山脈の上空。
それまで穏やかにたなびいていた金色の雲海が、この瞬間、完全に沸き返っていた。
数百年もの間、天剣宗を守り続けてきた護宗大陣。
その大陣は、もはやかつてのような、万物を見下ろす威厳を放ってはいなかった。
代わりに響き渡ったのは、背筋が凍るような轟音だった。
金色の陣紋が蜘蛛の巣のように虚空へと猛烈な勢いで広がっていく。
そして――
次の瞬間。
それらは一寸、一寸と、逆向きに回転し始めた。
無数の暴れ狂う霊気の奔流へと姿を変え、天を覆うほどの勢いで主峰へと逆流していく。
「ゴロゴロゴロ――!」
天剣宗の主峰にある広場。
巡回していた数名の内門弟子たちは、突然、胸の奥で気血が激しく逆巻くのを感じた。
何が起きたのか理解する間もない。
周囲に満ちていた濃密な霊気が、強引に毛穴から体内へと流れ込み、経脈へ殺到した。
「まずい! 霊気が逆流している! 抑えきれない――ああっ!」
若い弟子の一人が、悲鳴を上げた。
両目を大きく見開く。
体内の真元が、一瞬で制御を失った。
ドンッ、と重い音が響く。
暴れ狂う霊気が経脈を内側から叩き潰し、一本、また一本と寸断していく。
弟子はその場に倒れ込み、口から鮮血を吐き出した。
もう、身動きすら取れない。
同じ光景が、天剣宗のあちこちで次々と繰り返されていた。
普段ならば、彼らが高貴な修炼資源として扱っている聚霊陣。
それが今や、命を奪う炉と化していた。
無数の低階弟子たちが、この反噬の力に耐えきれず、苦痛に呻きながら地面へ倒れていく。
宗門全体が、瞬く間に大混乱へと陥った。
警鐘がけたたましく鳴り響く。
無数の光が、それぞれの洞府から次々と空へ舞い上がった。
……
同じ頃。
廃鉱洞の中。
終夜は静かに石壁の前へ立っていた。
遠くから響いてくる轟音と悲鳴を聞きながら、その表情には一片の揺らぎもない。
袖口についた灰を軽く払う。
そして振り返り、晏清を見た。
「行くぞ」
終夜の声は、静かだった。
だが、その言葉には一切の迷いがない。
「大陣の逆流が続くのは、せいぜい一炷香ほどだ。あいつらが自分たちのことで手一杯になっている今のうちに――」
終夜はわずかに目を細めた。
「少しばかり、あの高みから見下ろしている大長老に会いに行こう」
晏清は深く息を吸い込んだ。
胸の内に渦巻いていた驚きを、ゆっくりと押し込める。
そして、手にした重剣を強く握り直した。
終夜を見るその目には、もはや最初に抱いていた疑念の色はなかった。
そこにあったのは――
揺るぎない信頼だった。
弱肉強食。
弱者はただ首を差し出し、強者に殺されるのを待つしかない。
そんな修仙界において。
目の前にいる、この一見すると平静な青年は。
たった一本の刃のない鉄剣と、数枚の銅銭だけで。
高みに君臨していた天剣宗に、巨大な風穴をこじ開けてみせた。
「分かった」
晏清は重く頷いた。
「先に立って」
二人は、もはや躊躇しなかった。
鉱洞の奥へと続く、錯綜した秘密の地下道を抜けていく。
二人の姿は、まるで闇を這う二つの鬼火のようだった。
そのまま、天剣宗の核心禁地へ向かって進んでいく。
だが――
二人が鉱洞の出口へ足を踏み出した、その瞬間。
目の前に広がっていたのは、静かな山道ではなかった。
凍てつくような、凄まじい元嬰期の威圧。
「――!」
突如として狂風が吹き荒れる。
虚空が幾重にも波打った。
その中心から、一人の老人の姿がゆっくりと浮かび上がる。
金色の長衣。
陰鬱な顔。
その姿を見ただけで、周囲の空気さえ凍りつくようだった。
天剣宗――大長老。
その目は真っ赤に充血していた。
全身から溢れ出す殺意は、ほとんど実体を持つほど濃密だった。
老人は終夜と晏清を睨みつける。
その声は、まるで九幽地獄の底から絞り出されたかのように低く、冷たかった。
「よくもまあ、ここまで先を読んだ狂徒がいたものだ!」
「我が坊市を壊し、我が大陣を乱した!」
「今日、この老夫がお前たちを抽魂錬魄し、永世にわたって鎮めずして――」
老人の殺意が、一気に膨れ上がる。
「天剣宗の面子が、立つと思うか!」
元嬰期の大能が放つ、雷霆のごとき怒り。
だが――
終夜は眉一つ動かさなかった。
ゆっくりと腰の鉄剣を抜く。
幾度もの戦いで血に濡れた、あの鉄剣。
終夜はそれを静かに構え、わずかに目を上げた。
口元に、冷たい笑みが浮かぶ。
「面子?」
終夜の声は低かった。
「お前たちに踏み潰され、泥にされた凡人や散修の目から見れば――」
鉄剣の切っ先が、ゆっくりと大長老へ向けられる。
「天剣宗なんて……」
「とっくに、犬以下だ」




