第十章 逆流する因果、大陣を裂く亀裂
鉱洞の奥深く。
湿った冷気が肌にまとわりつき、空気には鼻を刺すような硫黄の匂いと、長年積もった鉱滓の臭気が漂っていた。
暗闇の中では、崩れかけた古代の符文が淡い青い光を放っている。
それはまるで、地底に潜む無数の脈絡のようだった。
終夜は石壁の前に立っていた。
その手に握られた刃のない鉄剣が、かすかに震えている。
低い唸り声のような音。
まるで、何か古い呼び声に応えているかのようだった。
晏清はわずかに眉を寄せた。
周囲に複雑に走る石壁の紋様へ視線を巡らせ、低い声で尋ねる。
「さっき言っていたわね。ここが護宗大陣の『盲区』だって」
「天剣宗は数百年も続いている。護宗大陣だって、代々の長老が自ら補強してきたはずでしょう」
「どうして外部の人間が利用できるような回路が残っているの?」
「奴らが修めているのは、『天に従う道』だからだ」
終夜は振り返らなかった。
その声には、何の波もない。
「求めているのは、『高みに立つこと』だ」
細長い指を伸ばす。
指先に微かな霊力を集めると、石壁の一ヶ所。
凹んだ符文へ、そっと触れた。
「いわゆる護宗大陣っていうのは、この周囲百里にある霊気を無理やり奪い取って、自分たちの山と水に集めているだけだ」
「奴らは、それを神迹だと思っている」
終夜の指先が、わずかに動く。
「だが、陣を理解している人間から見れば――」
「ただの、欲深い血の網だ」
その瞬間。
終夜が触れた符文が、突然、強い青い光を放った。
カチッ。
カチッ。
乾いた音が、暗い鉱洞の中へ響き渡る。
次の瞬間だった。
鉱洞全体が、ゆっくりと震え始めた。
天井から細かな石屑が、ぱらぱらと落ちてくる。
そして。
二人の目の前に広がる虚空へ、突如として巨大な陣図が浮かび上がった。
無数の金色の光糸が複雑に絡み合い、巨大な網のように空間を覆っている。
それは――
天剣宗の護宗大陣。
その底層に存在する核心構造の投影だった。
晏清の瞳が大きく見開かれる。
彼女は陣法を専門とする修士ではない。
それでも、目の前の投影が雲嵐山脈全体の霊気の枢軸と繋がっていることくらいは分かった。
ここで、ほんの少し手を加えるだけで――
護宗大陣全体の運行に致命的な狂いが生じる。
「……どうするつもり?」
晏清は重剣を握り直した。
同時に、外の気配を警戒する。
「直接、壊すの?」
「壊す?」
終夜の口元に、冷たい笑みが浮かんだ。
瞳の奥には、ぞっとするほど鋭い光が宿っている。
「それじゃ、奴らにとって都合がよすぎる」
「俺たちがやるのは――」
終夜は目の前の巨大な陣図を見つめた。
「自分たちがやってきたことを、そのまま返してやることだ」
「天剣宗は、護宗大陣の威圧で衆生を押さえつけるのが好きだろう?」
「低階の修士も、凡人も、全部草芥のように扱ってきた」
終夜の声が、静かに響く。
「なら今夜は――」
「この大陣そのものに、霊気を逆流させてもらう」
言葉が落ちる。
終夜は、もう迷わなかった。
身体に残されたわずかな真元が、一気に石壁の陣眼へ流れ込んでいく。
同時に、手にした鉄剣が激しい悲鳴を上げた。
ギィィィィ――!
「轟――!」
鉱洞の奥で、地面を揺るがすような轟音が響き渡った。
その瞬間。
数里離れた場所。
雲を突き抜けるほど高くそびえ立つ、天剣宗の主峰で――
それまで山脈全体を覆っていた金色の護宗大陣が、突然、大きく震え始めた。
――――
同じ頃。
天剣宗・主殿。
長い間、閉関していた数名の長老たちが、大殿の中央に座していた。
突然。
激しい震動によって、全員が一斉に目を開いた。
「何事だ!?」
「なぜ護宗大陣が、何の前触れもなく異常を起こしている!」
先頭に座る大長老が目を見開いた。
その老いた顔には、隠しきれない驚愕が浮かんでいる。
だが。
その言葉が終わるより早く――
「大長老!」
血まみれになった一人の執法弟子が、よろめきながら大殿へ駆け込んできた。
顔には、明らかな恐怖が浮かんでいる。
「大変です!」
「山門の下……坊市の霊気大陣が……!」
「大陣の各節点が、全部めちゃくちゃになっています!」
「それだけではありません!」
弟子は息を切らしながら叫んだ。
「何か得体の知れない力が、宗門の聚霊陣へ逆流しています!」
「多くの低階弟子が、逆流した霊気に経脈を耐えきれず……」
「すでに、身体が内側から弾けて死んでいます!」
「何だと!?」
大長老の顔色が、一瞬で変わった。
次の瞬間。
恐ろしい元嬰期の威圧が、大殿全体へ爆発的に広がった。
ドンッ――!
周囲の机や椅子が、その余波だけで吹き飛ばされる。
「一体、何者の仕業だ!」
大長老が怒号を上げる。
「調べろ!」
「雲嵐山脈を隅から隅までひっくり返してでも構わん!」
「――あの二人の狂徒を必ず見つけ出せ!」
だが。
どれほど天剣宗の上層部が怒鳴り、命令を下そうとも。
すでに始まった大陣の逆流を、止めることはできなかった。
その頃。
廃棄された鉱洞の中。
終夜は、ゆっくりと手を引いた。
顔色は青白い。
その表情には、わずかな疲労が浮かんでいる。
それでも、その瞳だけは――
異様なほど明るかった。
終夜は隣に立つ晏清へ視線を向ける。
その顔には、未だに隠しきれない驚愕が残っていた。
「行くぞ」
終夜は淡々と言った。
「最初の大芝居、その幕はもう上がった」
そして、崩れかけた古代符文の光を背に、鉱洞の奥へ視線を向ける。
「これからは――」
「この高みに立つ仙人たちにも、少しばかり味わってもらおう」
「自分たちが足元へ踏みつけてきた蟻に――」
「噛み返される、その味をな」




