第9話 拾いもの
あの日のことは、順番どおりに思い出せる。
地下四十一階の掃討は、二時間で終わるはずだった。
実際には四時間かかった。想定より個体数が多かったのと、途中で照明弾が湿気ていて三本連続で不発だったせいだ。装備の管理は私の担当ではない。誰の担当でもないから、こういうことが起きる。
終わって、撤退にかかった。四時間かけて下りてきた道を、そのまま戻る。
上りの通路の脇に、行き止まりがあった。
そこに一体いた。掃討のときに逃げたのだと思う。柏木さんの炎で肩をやられて、壁にもたれていた。血が黒い。ゴブリンの血は、光の下だとどうしても黒く見える。
「朝倉、頼む」
柏木さんはもう先を歩いていた。処理はいつも私だ。私がいちばん速いから。速いほうが向いている、という理屈で、この夏、私は何度もそう言われてきた。
剣を抜いて、近づいた。
その個体は、私を見上げた。
武器を持っていなかった。落としたのか、最初から持っていなかったのか分からない。傷のない側の手で、壁を掻いて、少しだけ後ろに下がろうとして、下がれなかった。
それから、その手を上げた。
手のひらを開いて、目の高さで、私のほうに向けた。
『降参』だと思った。
両手を上げる代わりに片手なんだな、と思った。片方はもう上がらないんだな、とも思った。そういうことを、剣を構えたまま、ほんの一秒くらいで考えた。
そいつは何か言った。
ゴブリン語だ。私は習っていない。この業界の誰も習っていない。習う必要がない、というのが公式の見解で、それはたぶん、習ってしまうと困るからだと思う。
意味は分からなかった。
分からなかったのに、『何を言っているのかは分かった』。
私は殺した。
一撃だった。私はいつも一撃だ。速いほうが向いている。
* * *
ドロップは三つ出た。
小型の魔石。皮の切れ端。そして、紙。
私はしゃがんで、それを拾った。
紙は二つ折りになっていて、片面がべったりと濡れていた。血だ。乾いていない。指に赤黒いものが移った。
開いた。
印刷は無事だった。血が回ったのは裏側だけで、表はほとんど汚れていない。
『8.17』
駅裏のライブハウスの名前。開場十八時。開演十八時半。前売り二千円。
出演四組。その三段目に、
『アンダーパス』
私は、そこにしゃがんだまま、しばらく動かなかった。
自分の心臓の音が装備の内側で反響しているのが分かった。四時間戦っていたときより、はっきり聞こえた。
「朝倉ー、行くぞー」
柏木さんの声が通路の向こうから響いた。
私は、そのチケットを、ポーチのいちばん奥に入れた。
考えて入れたわけではない。考える時間はなかった。あとから振り返っても、あの数秒に思考と呼べるものはひとつも通っていない。『手が勝手に隠した』。
「今行きます」
立ち上がって、剣を鞘に戻した。
後ろは見なかった。
* * *
地上に上がったのが午前二時。精算所は無人の夜間受付になっていて、機械にドロップを流し込むだけで済んだ。魔石が三十六。皮が十一。
紙は、申告しなかった。
シャワーを浴びた。爪の間の黒いものが落ちるまで、いつもより長くいた。
自分の部屋に戻って、電気をつけて、ポーチからそれを出して、机に置いた。
血は乾いて、茶色になっていた。
――なんで、これを持っていたんだろう。
その問いは、一度だけ頭に浮かんだ。
浮かんだ瞬間に、私は別のことを考え始めた。自分でも驚くくらい、なめらかに。
これはたぶん、拾ったものだ。地上で誰かが落としたのが、どこかから流れて、あの階層まで行った。ゴブリンは光るものや紙を集める習性がある。ある、と聞いたことがある。誰から聞いたかは思い出せない。
だとしたら、この持ち主は、今ごろ困っている。
落とし物として届けるべきだ。それが正しい。
でも、と私は考えた。
ライブチケットの購入に、領収書はあまり出ない。番号もない。名前も書いていない。届け出たとして、持ち主を証明できる人がいるだろうか。
いたとして、その人は十七日までに届け出を確認するだろうか。
確認したとして、開演に間に合うだろうか。
『全部、本当のことだった』。
嘘はひとつも使っていない。私は正しい理屈だけを並べて、その上を歩いて、ちゃんと向こう側に着いた。着いたところに、血のついたチケットが一枚あった。
私は、それを二回、指で撫でて伸ばした。
そして、そのとき本当に、こう思ったのだ。
――これはもう、神様がゴブリンに持たせて、私に拾わせたと考えるほうが、自然なのでは。
馬鹿げている。今ならそう思う。
でもあの夜の私は、人生でいちばん後ろめたい状態で、机の上の一枚を見ていた。四時間前に、手のひらを上げたものを殺した。意味は分からなかったが何を言っているかは分かった。柏木さんは何も言わなかった。誰も何も言わない。深層の記録は、事故がない限り誰も見ない。私はもう十七で、来年は進路を決めなきゃいけなくて、そういう全部が机の上に載っていた。
だから理屈が要った。
私を通してくれる理屈が、どうしても一つ要った。
因果が逆なことには、気づいていた。気づいていて、逆のままにしておいた。
* * *
行きたい理由は、本当はもっと単純だった。
あの日の防音室が、頭から離れなかった。
うるさくて、狭くて、麦茶が出てきて、一時間、何も死ななかった。市川は二回間違えて、誰も責めなかった。ヘルメットの人は上手すぎて少しおかしかった。
あそこにいる間、私は誰にも数を数えられなかった。
最近、市川は練習に呼んでくれない。忙しいのだと言っていた。それは本当のことだと思う。彼は嘘をつくのが下手だから、たぶん本当のことなんだろう。
落ち込んでいた。だから行きたかった。
元気が出るからだ。あの音を聴くと元気が出る。
それだけのことを、私は神様の話にまで膨らませて、机の上でやっと自分に許可を出した。
カレンダーを見た。
今日だった。
補給で地上にいられるのは、ぎりぎり今日の夜まで。
抜ける。そう決めた。決めたことを、誰にも言わなかった。
電気を消して、ベッドに入った。
目を閉じると、通路の行き止まりの、開かれた手のひらが見えた。
あれは、降参の意味だったはずだ。
そう思うことにして、私は眠った。




