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第8話 規則

 規則を言い出したのは、俺ではなかった。


 翌週の練習の前、まだ機材も出していない時間に、大井が椅子を回してこっちを向いた。


「決めよっか」


「なに」


「ライブの客。冒険者は呼ばない。チケットも売らない」


 言い方が事務的だった。この男がこういう声を出すのは、コンビニのバイトのシフトの話をするときだけだ。


「なんで」と宮田が聞いた。聞き方も事務的だった。二人とも、俺と目を合わせない。


「なんでも。決めごと」


「はいはい」


 それで終わりだった。三十秒もかかっていない。


 俺は、何も言わなかった。


 言う必要がなかった。この部屋で冒険者の知り合いがいるのは俺だけで、規則が名指ししているのは俺だけで、それを全員が分かっていて、誰もそう言わない。大井はわざわざ「バンド全体の決まりごと」の形にしてくれた。そういうやり方をする男だ。


 だから俺は、自分で自分の恋人を締め出す言葉を、一度も口にしないで済んだ。


 その楽さに、俺はちゃんと安心していた。それがいちばん、後から思い返してきつい。


「市川」


 宮田がベースを持ち上げながら言った。


「それでいいの」


「いいよ」


「ふーん」


 宮田は、それ以上は聞かなかった。この日から、宮田は俺に彼女の話を一度もしなくなった。


 ゴブソンは、その間ずっとチューニングをしていた。規則にも、俺の返事にも、何の反応も示さなかった。あいつにとっては、自分が殺されないための話ですらなかったんだと思う。バレたら殺す側に回るつもりでいるので、隠れることに関心がない。


* * *


 彼女に嘘をついたのは、その週の木曜だった。


 夏期講習の休憩時間、朝倉がノートを閉じながら言った。


「練習、今週いつ?」


 俺は、シャーペンの芯を出しすぎて折った。


「今週は……ちょっと、バタついてて」


「そうなんだ」


「フェス近いから、詰めなきゃいけないとこ多くて」


 本当のことだった。全部本当のことだった。フェスは近いし、詰める箇所は多いし、練習は週四に増えていた。『嘘をついていないのに、中身は嘘だった』。


 朝倉は「がんばって」と言った。


 それから彼女は、自分の話を始めなかった。彼女はいつもそうだ。何も聞かれなければ、何も言わない。だから俺は、彼女がその週から潜っている階層のことも、そこで何をしているのかも、何ひとつ知らなかった。


 彼女は忙しかった。八月に入って、攻略はいよいよ深層に入りつつあった。連絡が途切れる日も増えた。


 だから、俺が誘わなくなったことは、忙しさの中に自然に紛れた。『恨まれも、問い詰められもしなかった』。


 もし一度でも「なんで呼んでくれないの」と聞かれていたら、俺はたぶん、そこで全部話していたと思う。


 聞かれなかった。


 それだけのことで、俺の嘘は八月の終わりまで無傷で生き延びた。


* * *


 ゴブソンが言っていた対バンは、結局入った。


 八月十七日、駅裏の地下のライブハウス。四組の三番目。フェスの前に一本やっておいたほうがいい、というのが大井の言い分で、本当は大井がいちばんやりたがっていた。


 チケットは手売りだった。ノルマが一人十枚あって、売れ残りは自腹で買い取る。ゴブソンは助っ人なので免除された。刷り上がったのが八月十日で、大井は妹とその友達に五枚、宮田は姉と親戚に四枚さばいた。俺は八枚売って、二枚を財布に残していた。


 売る気がなかったからだ。


「市川」


 ゴブソンが手を出してきた。


「一枚くれ」


「余ってないよ」


「二枚持ってんだろ」


「……」


 俺は財布から一枚出して、渡した。


 一枚残った。あとになって、その一枚が財布の中で薄く曲がっていくのを、俺は毎日見ることになる。


 ゴブソンは、受け取ったチケットを両手で持って、しばらく眺めていた。ヘルメットを近づけて、印刷を読んでいる。日付。時間。会場。バンド名。


「アンダーパスって書いてある」


「書いてあるよ」


「三番目だな」


「そう」


 それから、あいつはそれを胸のポケットに入れた。丁寧に、二回、上から押さえた。


「連れに渡す」


「……この前言ってた」


「絶対来いって言っとく」


 俺は、そのとき何を考えていたか、正直に言うと、あまり覚えていない。危ないんじゃないか、とは思った気がする。思ったが、こいつが二か月ずっと平気で街を歩いているのを見ているので、そういうものかとも思った。


「サイン、決めてんだよ」


「サイン?」


「客席から送るやつ。前もそうしてた」


 ゴブソンは、手を上げた。


 手のひらを開いて、目の高さで、こっちに向ける。それだけ。


「これ。意味は、」


「意味は?」


「『見てたか』、って」


 俺は笑った。


「なんだそれ。演奏してるほうが聞くやつじゃないの」


「どっちでもいい。見てたやつが、見てたって言うんだよ」


 俺は真似をした。手のひらを開いて、目の高さに上げた。


 ゴブソンは何も言わなかった。何も言わないまま、こっちを見ていた。たぶん見ていた。それから、自分も手を上げた。


 防音室の中で、フルフェイスと俺が、向かい合って手のひらを見せ合っていた。


 大井が「なにその新興宗教」と言って、宮田が笑った。


* * *


 その夜、俺は財布を開けて、残った一枚を見た。


 八月十七日、十九時十分、アンダーパス。


 一番来てほしい人間が、一番来てはいけない人間になっていた。


 俺はチケットを財布に戻して、朝倉に「おつかれ」とだけ送った。既読はつかなかった。彼女はその日、地下三十八階にいた。

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