第7話 人生でいちばん長い一時間
選考通過のメールを、俺は三回読んだ。
八月三十一日、出演枠十六時二十分。持ち時間二十五分。会場は河川敷の特設ステージ。
その日の夏期講習で、俺はたぶん一問も解いていない。休憩時間に、隣の席の朝倉に画面を見せた。
「通った」
「え」
「フェス。八月三十一日」
朝倉はスマホを覗き込んで、「すごい」と言った。この人が言う「すごい」は本物だ。事実として正しいことしか言わないので、社交辞令の在庫を持っていない。
俺は嬉しくて、たぶんそれで頭の血が全部そっちに行っていた。
「練習、見に来てよ」
言った。
言った瞬間の俺の頭の中には、ステージと、朝倉の顔と、この夏がちゃんと形になっていくことへの、単純な浮かれしかなかった。
「行っていいの」
「うん」
「じゃあ行く」
俺は、自分のバンドに何がいるのかを、このとき完全に忘れていた。
嘘ではない。本当に、一秒たりとも思い出さなかった。
* * *
水曜、午後六時。スタジオの入口で待ち合わせた。
私服の朝倉は、教室で見るのとも、あの夜見るのとも違って見えた。麦わら帽子をかぶっていた。似合っていた。俺は「似合ってる」と言えなくて、「暑いね」と言った。
三階まで階段を上がる。防音扉を開ける。
中には三人いた。
大井がスティックを落とした。
宮田がチューニングの手を止めて、口を半分開けたまま止まった。
朝倉が「おじゃまします」と言って会釈した。
「……あさ、」
大井の声が裏返った。
「朝倉千秋、じゃないですか?」
「はい」
「本物?」
「本物」
「うわ」
大井は本当に「うわ」と言った。宮田は無言でスマホを掴んで、それから思いとどまって置いた。
俺は、その反応が単純に誇らしかった。
「彼女なんだ」
言った瞬間、大井の顔から表情が抜けた。
宮田がゆっくり俺のほうを向いた。目の焦点が、俺の顔と、その少し後ろを行ったり来たりしている。
「……市川」
「なに」
「ちょっと来て」
部屋の隅に引っ張られた。大井もついてきた。二人とも汗をかいている。冷房は効いている。
「お前、あの人、攻略組だぞ」
「そうだよ」
「そうだよ、じゃなくて」
「なんで怒ってんの」
俺は本気で分からなかった。分からないまま二人の顔を見て、二人の目が同時に、俺の肩越しの一点を見ているのに気づいた。
振り返った。
部屋の反対側で、フルフェイスのヘルメットをかぶった男が、アンプの前でしゃがんでシールドを挿している。いつもどおりだ。三日前と同じ。一週間前と同じ。俺が二か月見てきた景色と、寸分たがわず同じだ。
同じ、なのに。
「――あーーーっ!」
俺の声で、朝倉がこっちを見た。
「どうしたの」
「なんでもない!」
なんでもなくはなかった。
このとき初めて、俺の目に、あのヘルメットが『隠しているもの』として映った。二か月間、俺はそれを「あいつの顔」だと思っていた。個性だと思っていた。今、その黒い球体は、部屋の真ん中に置かれた爆弾にしか見えなかった。
ゴブソンが立ち上がって、こっちに来た。
こっち来んな。
俺は廊下に引っ張り出した。
「お前、あのさ、」
「知ってる」
「知ってる?」
「血のニオイがする。ちょっとだけ」
ゴブソンはそう言って、首を傾げた。傾げかたが、少しだけ、あの着ぐるみに似ていた。
「殺す側のやつだろ、あれ」
「うん」
「別にいいだろ」
「よくない」
「バレたら殺すし」
「おい」
軽い言い方だった。ライブハウスで初めて会った日と、一音も変わらない軽さだった。
あのときの俺は、それを冗談だと思うことができた。判断する材料がなかったからだ。
でも俺は、もう見ている。実際の戦闘がどういうものかを。
剣が横に走って、布が裂ける音がして、そのあと何も鳴らなかった。『あれと同じことを、こいつがやるつもりでいる』。
「……やめてくれ」
「じゃあバレないようにする」
それで話は終わりだった。ゴブソンは部屋に戻っていった。
中断はできなかった。今日は帰ってくれとも言えなかった。理由を説明できないからだ。朝倉はもう椅子に座って、麦わら帽子を膝に置いて、わくわくしながらこっちを見て待っている。
だから、やるしかなかった。
一時間。人生でいちばん長い一時間だった。
俺はコードを二回間違えた。歌詞を一行飛ばした。ゴブソンのほうを見ないようにしながら、ゴブソンのほうしか気にしていなかった。
そしてあいつは、手を抜かなかった。
一ミリも抜かなかった。バレないようにすると言ったくせに、目立たず大人しくするとか、そういう発想がそもそもない。二曲目のソロで、俺は自分の演奏を止めそうになった。泣きそうになった。二か月で聴いたなかで、いちばん良かった。
最後の曲が終わって、朝倉が拍手した。
一人だけの拍手が、防音室の中でやけに大きく響いた。
* * *
その日のことを、朝倉千秋はしばらくのあいだ、この夏でいちばんいい日として覚えていた。
狭い部屋で、四人が音を出していた。うるさかった。ドラムの人はずっと笑っていたし、ベースの女の子は途中で弦を切って舌打ちしていた。市川は明らかに緊張していて、二回も間違えて、それを誰も責めなかった。
ヘルメットの人は、上手だった。上手すぎて、少しおかしかった。
一時間、何も死ななかった。
誰も彼女に「今日は何体だった」と聞かなかった。誰も「すごいですね」と言わなかった。大井という人は途中で麦茶をくれた。後はただ、心地よい音楽が響いていた。
帰り道、市川が「うるさかったでしょ」と言った。
「ううん」
千秋は少し考えて、正しいことだけを言った。
「また呼んで」
市川は「うん」と言った。
その約束が守られることは、二度となかった。




