第6話 アンダーパス
バンド名はアンダーパスという。
一年のときに大井が決めた。由来を聞いたら「高架下でよく待ち合わせしてたから」と言われて、それ以上の意味はなかった。意味のない名前を書類に書いて生きていくというのは、たぶん本当にそういうことなのだと思う。
デモは一日で録った。
場所は大井の兄貴の部屋で、兄貴は大学のサークルで似たようなことをやっていて、機材を貸してくれるかわりに二千円取られた。冷房のよく効かない六畳間に四人と機材が入ると、もう誰も動けない。
「じゃあ、ドラムから」
「ドラム、ここで叩けるわけないだろ」
「打ち込みでいいって兄貴が」
「よくねえよ」
大井は文句を言いながら、結局その日いちばん熱心にパソコンをいじっていた。
俺がギターとボーカル、宮田がベース、ゴブソンがリードギター。三曲録って、フェスに出すのは一曲。
問題が起きたのは、二曲目のときだった。
「ゴブソン、コーラス入れて」
「入れない」
「サビだけでいいから」
「入れない」
声を録られたくないんだろうな、と俺は思った。思ったが、それを言うわけにはいかないので黙っていた。すると宮田が、マイクスタンドを引き寄せながら言った。
「入れなくていいよ。歌へタそうだし」
「へタじゃない」
「じゃあ入れなよ」
「入れない」
「へタじゃん」
ゴブソンが黙り込んだ。二十秒くらい。それから、フルフェイスのまま、マイクに近づいた。
録れた音は、人間の声じゃなかった。
巨大な岩が転がり落ちるような、床からせり上がってくる唸り。宮田が固まって、大井が「うわ」と言って、それから二人ともスピーカーに顔を寄せた。
「めちゃくちゃいいじゃん」
「デスボかよ。どうやってんのそれ」
「……ふつうに歌ってる」
デスボイスかと思ったが、ゴブソンは本当にふつうに歌っていた。
結局そのテイクが本採用になった。今もそのままフェスの主催に送ってある。
昼飯は近所の中華で買ってきた。
ゴブソンはヘルメットを脱がない。脱がないまま、顎の下の隙間から餃子を突っ込む。最初のころは俺も見ないふりをしていたのだが、そのうち誰も気にしなくなった。宮田なんかは「口の位置ずれてるよ」と指で示してやっている。
こういうのを、たぶん、慣れると言う。
俺は当時、それを良いことだと思っていた。
「なあ市川」
「ん」
「フェスの前に、対バンもう一本入れられないのか」
「入れたいけど、金がな」
「連れが聴きたがってんだよ」
俺は餃子を落としかけた。
「……連れ?」
「連れ」
「そっちの?」
「そっちってなんだよ」
言い方が悪かった。ゴブソンは怒っている感じでもなかったが、俺はそれ以上突っ込めなかった。大井と宮田が同じ部屋にいる。
「まあ、チケット余ったら渡すよ。助っ人はチケットノルマがないから」
「おう」
それで終わりだった。三十秒もかかっていない会話だった。俺はそのあと、三曲目のイントロのテンポの話をして、それきり忘れた。
あの三十秒のことを、俺は八月の終わりに何百回も思い返すことになる。
夕方、スマホが震えた。
朝倉からだった。「今日おわった」とだけ書いてある。ここ数日、彼女からのメッセージはいつもこれだ。何が終わったのかは書かない。書けないんだと思う。俺は「おつかれ」と返して、少し考えて、「明日講習ある?」と足した。
顔を上げたら、宮田がこっちを見ていた。
「にやけてる」
「にやけてない」
「彼女できたでしょ」
「……」
「うわマジか。誰」
俺は答えなかった。
いま思えば、ここが最後の分かれ道だった。ここで俺が名前を言っていれば、大井か宮田のどちらかが確実に「え、待って」と言った。あの二人は俺と違って、武器屋のタペストリーも、チャンネル登録四十七万も、ちゃんと知っている側の人間だ。
でも俺は言わなかった。
理由は本当にくだらなくて、『恥ずかしかったからだ』。あの朝倉千秋と付き合っていると自分の口で言うのが、なんというか、身の丈に合わない気がした。それだけだ。危険だとか、隠さなきゃとか、そんな高級なことは一ミリも考えていない。
「言わない」
「けち」
「言わない」
宮田は「ふーん」と言って、ベースのチューニングに戻った。ゴブソンはヘルメットの向きすら変えなかった。
この日、俺たちのバンドには規則がひとつもなかった。
遅刻するなとか、機材を大事にしろとか、そういう当たり前のことは言い合っていたけれど、明文化されたものは何もない。誰かの秘密を守るための決まりも、誰を呼んではいけないという取り決めも、まだひとつもなかった。
夜、送信ボタンを押した。デモ音源三曲、バンド名アンダーパス、出演者四名。
「送った」
「よし」
「通ったら八月末な」
「通る」
ゴブソンはそう言い切った。根拠はない。ないのに、この男が言うと本当にそうなる気がした。
帰り道、高架下で三人と別れた。大井と宮田は駅へ、ゴブソンは反対方向へ歩いていく。あいつがどこに住んでいるのか、俺はこのときまだ聞いたことがなかった。聞いてはいけない気もしていたし、聞くほどのことでもない気もしていた。
街灯の下を、フルフェイスの後ろ姿が遠ざかっていく。ギターを背負っている。
俺の目には、それは完全に、ただのバンドメンバーだった。
三日後、選考通過のメールが届いた。八月三十一日、出演枠は夕方の四番目。
俺はその日、朝倉に会いに行った。
そして、余計なことを言った。




