第5話 ウェアラブルウルフ
スタジオを出たのが九時十分で、駅までは徒歩十二分だ。
高架沿いの道は、街灯が二本切れたままになっている。区役所に言えば直るらしいが、誰も言わないので直らない。俺は背中のギターケースの重さで肩を回しながら、ゴブソンの新しいリフを頭の中で三回鳴らして、四回目で分からなくなった。あいつの指は速すぎて、目で追っても記憶に残らない。
角を曲がったところに、着ぐるみが立っていた。
白っぽい、丸い、犬か熊か分からないやつ。頭が大きくて、目がボタンみたいで、胸から下に大きな板を提げている。
色の褪せた文字と、カラフルな遊園地の絵。
矢印と、このさき、と読めた。矢印の先には何もない。手には紐を何本か握っていて、その先で、兎の形をした風船が三つ、ふわふわ揺れていた。
俺は普通に、あ、バイト帰りか、と思った。
「おつかれさまでーす」
と、たぶん言った。言った気がする。夜のこの道で人に会うことがあまりないので、何か言わないと気まずかった。
着ぐるみは動かなかった。
それから、首を傾けた。
傾けかたが、四十五度を越えて、そのまま六十度くらいまで行った。着ぐるみの中に人が入っていたら、首はそこまで曲がらない。曲がらないというか、曲げる理由がない。
板の縁から、細いものが何本か垂れていた。飾りの房だと思っていた。それが、内側に向かって、ゆっくり縮んだ。
においが来た。
夏の生ごみのにおいと、獣くさいにおいと、たぶん血のにおいが混ざっていた。着ぐるみの首と胴の継ぎ目から、濃い緑色の触手がはみ出していた。
俺は、そこでようやく理解した。理解したというより、体のほうが先に後ずさりした。
着ぐるみが跳んだ。
俺は、自分がその瞬間に何をしたかを、あとで何度も思い出した。逃げなかった。叫ばなかった。背中のギターケースを、抱え込もうとした。
肩紐が引っかかって、うまく回らなかった。そのまま倒れた。アスファルトに肘をついて、腕がしびれて、目の前に丸い頭があって、ボタンの目の下、口のところの縫い目が裂けて、そこから本物の歯が出ているのが見えた。
白い光が横切った。
音は、思っていたのと違った。ばしゃ、でも、ぐしゃ、でもない。布を裂く音がして、そのあとに何も鳴らなかった。
着ぐるみは、倒れたのではなかった。立っている形をやめた。中身が何も入っていなくて、毛皮がそのままアスファルトに広がって、玄関の敷物みたいになった。
その裏から、灰色の平たいものが這い出してきた。腕くらいの長さの触手が何本か生えていて、路面の上で伸びたり縮んだりしていた。看板の下に潜り込もうとして、二度動いて、止まった。
紐が、毛皮の手だったところから抜けた。
兎が三つ、まっすぐ上がっていった。俺は、それが高架の高さを越えるまで、なんとなく目で追った。
剣を持った朝倉千秋が、その向こうに立っていた。
制服ではなかった。膝上までの黒いパンツと、たぶん防具なんだと思う上着。髪をうしろで一つにまとめていて、教室で見るのと輪郭が違って見えた。
朝倉は、こっちを見た。
このときの目を、俺は今でもうまく言葉にできない。俺を見ていなかった、というのがいちばん近い。『まだ次を探している目だった』。倒れているものが完全に止まったことと、周囲にもう一体いないことを確認するまでの、二秒くらい。その二秒のあいだ、俺は自分が生き物として数えられていないのが分かった。
それから、朝倉の目がふつうに戻った。
「市川くん」
「……朝倉」
「怪我は」
「ない、と思う」
「立てる?」
立てた。膝が笑っていたが、立てた。
朝倉は剣を振った。血はついていなかった。毛と、糸くずみたいなものが落ちた。それから毛皮の脇にしゃがんで、何かを拾い上げた。灰色の、小さい石みたいなもの。それをポーチに入れて、スマホで写真を撮って、どこかに送信した。
「ギルドに報告。あとは回収の人が来る」
「そんな、事務的な」
「事務だから」
朝倉は立ち上がって、広がった毛皮を見下ろした。
「ウェアラブルウルフ。毛皮を縫い合わせたのに、悪いのが入って動くの。中身は最初からいない」
「……最初から」
「うん。これは死んでない。もともと生きてない」
朝倉は、毛皮から出てきた平たいものを剣の先でつついた。動かなかった。
「こっちは生きてた。もともと看板に住んでるやつ」
「……さっきの風船は」
「バルーンラビット。放っといてもいいやつ」
「モンスターじゃないの」
「モンスター。でも弱いから。電線に絡まって、夜中きゅーきゅー鳴いてうるさいくらい」
俺は、そこで初めて息を大きく吐いた。
そして、自分でも意外なことに、口から出たのは礼ではなかった。
「すげえ」
朝倉が、こっちを見た。
「一撃だった。今の、めちゃくちゃ速かった」
俺は本当にそう思っていた。怖かったのは襲われた瞬間までで、そこから先は、『一方的にかっこよかった』。目の前で何かが殺されたのに、俺の中には何も残らなかった。路面の上のそれは、さっきまで動いていたし、こっちへ来ようとしていた。それでも、俺の頭にあったのは、剣が横に走ったときの速さのことだけだった。
――俺はこの夜、たしかに拍手をしていた。
そのことを俺が思い知るのは、もっとあとの話になる。
「そう」
朝倉はそれだけ言った。褒められたのに、嬉しそうではなかった。
「ギター、無事だった」
俺はケースを開けて確認した。無事だった。ネックも折れていない。しゃがんで蓋を閉じていたら、頭の上で、朝倉が小さく笑った。
「命の心配は?」
「した。したけど、これ、来週フェスのデモ録るやつだから」
「ふうん」
その「ふうん」の言い方が、この前俺が言ったやつに似ていて、俺は少しだけ、しまった、と思った。
駅までは、二人で歩いた。
朝倉は回収班が来るまで残らなくていいらしい。俺はまだ膝が変で、たぶん歩き方がおかしかった。改札の手前で、俺は立ち止まった。
言うなら今しかない、と思ったわけではない。順番としては逆で、口が先に動いた。
「あの、さ。夏期講習以外でも、会える?」
朝倉は、少しのあいだ黙っていた。
「それは、どういう意味」
「……えーと」
「ごめん。ちゃんと聞きたいだけ」
まるで事務のように、事実を確認しにきていた。俺はそこで初めて、自分が何を言おうとしていたのかを自分で理解した。
「付き合ってほしい、ってこと」
「いいよ」
早かった。剣より早かったんじゃないかと思う。
「……いいの」
「うん」
朝倉は改札を通って、振り返らずに手だけ上げて、階段を下りていった。
俺は、自分のギターケースを背負い直して、逆方向のホームへ歩いた。
肘が擦りむけて血が出ていた。それに気づいたのは、家に帰ってからだった。




