第4話 夏期講習
朝倉千秋の一日は、地下四十階から始まる。
午前四時、パーティは撤収を決めた。第三層の安全地帯まで戻って、そこから転移石で地上へ上がる。石は一人一個、使い捨てで、支給品だ。無くすと始末書を書かされる。命を落とすより先に、書類の心配をするようになる。それが慣れるということなのかもしれなかった。
地上のゲートを出ると、外はもう薄明るかった。ビルの隙間が白い。コンビニの前で、これから始発で出勤する人が煙草を吸っている。その人の横を、返り血のついた装備で通り過ぎる。誰も見ない。この街の人間は、もう冒険者を見ない。
ギルドの精算所で、今日の分を出した。
小型ドロップ、十七。うち十一がゴブリン系。
係員が機械的に数える。千秋は、その数字が自分の手で終わらせた数と一致していることを、いつも一瞬だけ考えて、それから考えるのをやめる。
「朝倉」
先輩の柏木が、缶コーヒーを二本持って立っていた。一本を放ってくる。
「顔、まだ固いぞ」
「そうですか」
「昨日の、気にしてんの」
気にしていた。第三十九階で、一体だけ、逃げ遅れたのがいた。柏木の炎で片脚をやられて、動けなくなっていた。それを千秋が処理した。処理という言い方を、ここでは全員がする。
その個体は、最後に何か言った。ゴブリン語なので意味は分からない。分からないほうがいいと、みんなが言う。
「じきに慣れる」
柏木は悪い人ではない。むしろ、この業界ではかなりまともなほうだ。だからこそ、その言葉は本当のこととして言われている。慣れる。柏木は慣れた。柏木の先輩も慣れた。慣れなかった人は、もうこの仕事をしていない。
千秋は中学のころから潜っている。高校に入ってから始めた同期は、この夏でもう半分が残っていない。三年続けている同年代は、この部隊にいない。
だから処理は、いつも彼女に回ってくる。速いほうが向いている、という理屈は、たぶんそのあとに付いたものだ。
「はい」
千秋はそう答えた。『事実として正しいことだけを言う』。自分がどう思っているかは言わない。この夏で覚えた話し方だった。
シャワーを浴びて、ロッカーの制服に着替える。爪の間の汚れが落ちない。左手の甲に、昨日の擦り傷。ファンデーションで隠す。
電車に乗る。冷房が効いている。制服を着て吊り革を持っていると、自分が本当にただの高校二年生に見える。見えるだけだ。
七月三十日、午前九時。夏期講習、数学ⅡB、二〇三教室。
千秋がドアを開けたとき、いちばん後ろの窓際の席で、市川が寝ていた。
* * *
俺は寝ていた。
起きたのは、隣の椅子が引かれる音がしたからだった。目を開けたら、朝倉千秋が座るところだった。
朝倉は、うちの学校で名前だけは全員が知っているやつだ。一年のときに一度、朝礼で表彰されている。あとは、たまに誰かのスマホの画面に映っているのを、後ろから通りすがりに見るくらい。俺とは、入学してから二回くらいしか喋ったことがない。
あと、夏休みはダンジョンに潜っているらしい。
らしい、というのは、俺がダンジョン配信も見ないし、そのへんの話題に入っていかないので、又聞きの又聞きしか知らないからだ。攻略組だ、とかいうやつらしい。すごいことなんだと思う。たぶん。
「おはよ」
「……おす」
「席、ここしか空いてなかった」
本当だった。この教室は前のほうから埋まる。俺みたいな理由でいちばん後ろに座るやつは少ない。
授業が始まって、三十分くらいで、俺のシャーペンの芯が切れた。
カチカチやっていたら、横から一本、机の上に転がってきた。0.5のB。俺は会釈して、使った。
休憩時間になって、朝倉が言った。
「市川くん、なんでそんな眠いの」
「昨日、練習してて」
「なんの」
「バンド」
「へえ」
それだけだった。俺はそれで会話が終わったと思って、また突っ伏そうとした。
「何時までやってんの」
「九時。スタジオ出るのが。そのあと、たまに公園でアンプなしで弾いてる」
「怒られない?」
「怒られたら帰る」
朝倉は笑った。思っていたのと少し違う笑い方だと思ったが、俺は元からこの人について何も思っていなかったので、気のせいかもしれない。
「そっちは、なんかやってんの」
俺は一応そう聞いた。聞いてから、しまった、と思った。ダンジョンの話だ。俺はそれについて、何も気の利いたことが言えない。すごいねとか、危なくないのとか、そういうのしか出てこない。
「んー」
朝倉は、シャーペンのノックを二回した。
「バイトみたいなもん」
「ふうん」
俺は本当に「ふうん」としか思わなかった。だってバイトの話だ。俺のバイトは週二のスーパーの品出しで、それについて誰かに深く聞かれたことは一度もない。
「ふうん、って」
「え」
「ううん。いい」
朝倉はそれから、机の上のプリントをまっすぐに直して、次の授業の準備を始めた。
俺は、あとになって何度もこの日のことを思い出すことになるのだが、このときは本当に何も気づいていなかった。俺が「ふうん」と言った瞬間に、隣の席の人間が、この夏で初めて、誰にも自分のやったことを評価されない時間に入ったということに。
二限が始まる。
もう少し寝て居よう。数学の教室で、誰か死ぬわけでもない。




