第3話 中村
エントリー用紙は紙だった。
この時代に、PDFをダウンロードして印刷して手書きで郵送しろという。大井が「主催、じいさんなんじゃね」と言いながら、コンビニでコピーしてきた紙をスタジオの床に広げた。
バンド名。連絡先。出演時間の希望。ここまでは順調だった。
止まったのは、いちばん下だった。
出演者氏名(本名でご記入ください)
俺はボールペンを持ったまま、三十秒くらい動けなかった。
「ゴブソン、どんな漢字書くの」
大井が、何も考えずに聞いた。何も考えていないから聞けたのだと思う。
フルフェイスは黙っていた。当たり前だ。こいつに漢字はない。俺は自分の手が勝手に動いて、余白に「ゴブ村」と書きかけて、途中で止めた。
だめだ。
ゴブ村。ゴブリンです、と書いているのと同じだ。というか、これを郵送したら、届いた先の誰かが読む。読んで、笑って、たぶんそのあと少し考える。
俺はペンの尻を噛んだ。
ゴブ。ごぶ。五分。
五分――五分五分。互角。どっちつかず。真ん中。
中。
「……中村」
書いた。中村。
書いてみると、驚くほど何でもない名前だった。クラスに二人はいる。名簿の中で誰の目にも止まらない。むしろ、こんなに何の情報も持っていない名前が世の中に存在していることのほうが、少し不思議なくらいだった。
「なーる」
大井が言った。
「なるほどって何が」
「え、だってゴブソン、中村だからゴブソンなんだろ。ゴ、ブ、ムラ、で、五分の中村」
合っている。順番は逆だが、合っている。
「本名、中村なんだ」
宮田が、床に転がったまま言った。心底どうでもよさそうな声だった。
「そうそう」と大井。「いいなあ、俺らもそういうあだ名ほしい」
「大井はオーイでいいだろ」
「それただの呼びかけじゃん」
「じゃあ市川はレオンな。レオンくん」
「やめろ」
市川レオン。十七年前に親が決めた。由来は一度だけ聞いたことがあるが、たぶん向こうももう覚えていない。
同じ紙のいちばん上に、自分でそう書いてある。三行下に中村がある。並べてみると、嘘くさいのは明らかに上のほうだった。
俺は用紙から目を上げなかった。上げたら顔に出る自信があった。
フルフェイスは、床に置かれた紙をずっと見ていた。
シールドは下りている。だから、どこを見ているかなんて本当は分からない。分からないのに、俺には、こいつが自分の名前の書かれた場所だけを見ているのが分かった。
「なあ」
「なに」
「それ、どういう意味」
「意味」
「中村の、意味」
俺は考えた。真ん中の村です、とは言えた。五分五分から取りました、とも言えた。どっちも本当で、どっちも、たぶん今こいつが聞きたいことではなかった。
「……特にない」
「ない?」
「ないよ。みんなそう。意味なんかない名前を、書類に書いて生きてんの」
ゴブソンは、しばらく紙を見ていた。
「そうか」
それだけ言って、ギターを取った。
その日の練習は、たぶんそれまででいちばん良かった。宮田が途中で笑ったので、一回止まった。
封筒に入れて、駅前のポストに入れたのは夜だった。投函口の蓋が閉まる音が、思ったより大きかった。
その紙が、この街のどこかで、ファイルに綴じられる。名簿になる。出演者の一覧に印字される。誰も気に留めない三文字として、中村という人間が、この夏、たしかに存在することになった。
俺はそのとき、それが自分のした最初の嘘だとは、まったく思っていなかった。




