第2話 ゴブソン
水曜まで、俺はずっと同じことを考えていた。
あいつは来ない。
来ないほうが正しい。ライブハウスの機材置き場で、名前もない相手に「水曜」とだけ言って別れた。連絡先も交換していない。というか、あいつが携帯を持っている絵が浮かばない。そもそも、来るということは、人間だらけの雑居ビルの三階まで階段で上がってくるということで、それは冷静に考えると、この街でいちばんやってはいけないことだった。
だから、スタジオの入口の脇に黒いフルフェイスが立っているのを見たとき、俺は正直、少し腹が立った。
「早いな」
「一時間前に来た」
「なんで」
「道が分からなかったら困る」
迷子になるのが心配で一時間前に来る。そういうやつだった。
問題はここからだった。
ドラムの大井とベースの宮田に、こいつをどう説明するか。俺は三日かけて考えて、結論として、何も考えないことにしていた。
「新しいギター」
「おお」と大井が言った。「え、なにその頭」
「事情があって脱げないらしい」
「事情」
「事情」
大井は三秒くらい黙って、それから「まあいっか」と言った。宮田は最初から興味がなさそうだった。この二人がこういう人間でよかったと、俺は心から思った。世の中には「事情って何?」と聞いてくる人間もいる。
そして、音を出した。
それで全部終わった。
一曲目のイントロで宮田が顔を上げて、二曲目の途中で大井のスネアが変わった。大井は普段、俺に合わせて叩く。俺が走ればついてくるし、俺がもたれれば待ってくれる。優しい男だ。その優しさが、この日の二曲目からなくなった。要らなくなったからだ。
いちばん驚いたのは、この天才ゴブリンが、ちゃんと下手だったことだ。
いや、演奏は化け物みたいにうまい。ただ、人と合わせるということを、たぶんほとんどやったことがない。一人で弾く分には完璧なのに、宮田が半拍ためると、置いていく。待たない。待つという発想がない。
三十分ほどして、宮田が「ねえ」と言った。
「今の、私が遅れたんじゃなくて、そういうふうに弾いてんの。分かる?」
フルフェイスがゆっくり宮田のほうを向いた。俺は一瞬、まずい、と思った。
「もう一回やって」
もう一回やった。今度は、ついてきた。一回で。
休憩に入って、自販機の前で大井が言った。
「あいつなんて呼べばいいの」
「名前ないって」
「ないことある?」
ないことある、とは言えないので、俺は黙っていた。壁に立てかけてあるレンタルのギターが目に入った。ヘッドに白い文字が入っている。
Gibson。
「……ゴブソン」
「は?」
「あいつの名前。ゴブソン」
ゴブって何、と大井が聞かなかったのは、たぶん本当にどうでもよかったからだと思う。宮田は「ダサ」と言った。
二人は先に部屋へ戻っていった。俺は「そういえば、あいつ何飲むんだろう」としばらく考えて、ゴブソンの分も缶コーヒーを持って戻った。
本人に伝えると、フルフェイスはしばらく動かなかった。
「ゴブソン」
「嫌ならいい」
「いや」
シールドの奥で、何かを飲み込むような音がした。
「名前つけたら、強くなるって聞いたことあるぞ」
真顔だった。たぶん。顔は見えなかったが、声が真顔だった。
「え」
「名前をもらったやつは強くなる。前にそういうやつがいたって、聞いたことがある」
「……転スラかな。俺、魔法とか使えないけど」
「知ってる」
二人でしばらく待った。何も起きなかった。スタジオの空調がうるさかった。
「起きないな」
「起きないね」
「じゃあいい」
ゴブソンはそう言って、またギターを構えた。俺はそのとき、こいつが少しだけがっかりしたのが分かって、それが面白くて、それから、こいつはずっと強くなりたかったのかもしれない、と一瞬だけ思った。一瞬だけだったので、すぐ忘れた。
その日の最後に、大井がスマホを見せてきた。
「これ、出さない?」
八月末の野外フェス。高校生バンド枠。エントリー締切は七月末で、デモ音源が要る。去年は出せなかった。ギターがいなかったからだ。
「出る」
声を上げたのは俺ではなかった。
「出なきゃ損だろ」
ゴブソンだった。理由がそれかよ、と思ったが、誰も反対しなかった。
帰り道、駅までの信号で、ゴブソンが立ち止まって、道の向こうを見ていた。俺もつられて見た。パトカーが一台、赤色灯を回さずに停まっているだけだった。
「あれ嫌い」
「うん」
「嫌いなものは嫌い」
それだけ言って、また歩き出した。
俺は少し遅れてついていきながら、来週の練習は月曜と木曜で、七月中にデモを録らなきゃいけなくて、フェスは八月末で、という、生まれて初めての種類の予定が、自分の夏休みに入っていくのを感じていた。
海には、たぶん行かない。




