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第10話 同じニオイ

 八月十七日。開場十八時。


 楽屋と呼んでいるのは、実際にはただの物置だ。段ボールとモップと、去年の対バンのフライヤーが積んである。その隅で、ゴブソンがずっと扉のほうを見ていた。


「来てない」


「まだ開場したばっかだって」


「来てない」


 あいつは、五分おきに同じことを言った。


* * *


 三番目。十九時十分。


 二曲目のイントロで、俺は客席を見た。


 客席は、五十人くらい入っていた。前のバンドの客が半分残っていて、うちの客が三十人くらい。大井の妹と、その友達が固まって前にいる。


 その後ろ、右の壁ぎわ。


 朝倉千秋が立っていた。


 俺は、そこでコードを間違えなかった。今でもそれだけは自分を褒めていいと思う。間違えなかったのは、たぶん指が勝手に動いていたからで、頭のほうは完全に停止していた。


 どうやって入った。


 誰が売った。


 その二つが同時に頭の中に来て、そして三つ目に、いちばん嫌なやつが来た。『聞いちゃダメだ』。


 聞けば、俺が売らなかった理由の話になる。


 朝倉はこっちを見ていた。目が合った。


 彼女は、笑わなかった。手も振らなかった。ただ見ていた。


 俺は、それを「気を遣ってくれている」と解釈した。ステージの上だから、邪魔しないようにしているのだと。


 ――違った。


 MCで大井が喋っているあいだ、ゴブソンが俺の耳元に来た。ヘルメット越しなので、こもった声が首筋に当たる感じがする。


「あいつ、血のニオイがするぞ」


「知ってる。そういう仕事だから」


「そうじゃなくて」


 そこで大井のMCが終わって、次の曲が始まった。


 あいつはその続きを言わなかった。『言えなかったんだと思う』。あいつは推理なんてできない。何かを感じ取るだけで、それが何を意味するのかを組み立てるのに、人間の何倍も時間がかかる。


 残り四曲。


 俺は歌って、弾いて、笑って、二十五分をやり過ごした。


 最後の曲のあいだ、ゴブソンは何度も客席の後ろを見ていた。約束のサインを探していた。手のひらを開いて、目の高さで、こっちに向ける合図。


 最後まで、それは上がらなかった。


 終演後、朝倉は物販のところで待っていて、俺を見つけると「よかった」と言った。


「来てくれたんだ」


「うん」


「チケット、どこで」


 俺は聞いてしまった。聞かないと決めていたのに、口が動いた。


 朝倉は、少しだけ黙った。


「拾った」


「拾った?」


「うん」


 俺はそれを冗談だと思って、笑った。


 朝倉も笑った。それから「明日、講習で」と言って、帰っていった。


* * *


 撤収は二十一時を過ぎた。


 もぎりのチケットは、半券をまとめて主催に返す。数を数えるのは俺の仕事だ。段ボールの上で束をひっくり返して、輪ゴムを外した。


 ゴブソンが横に来た。


 最初は、俺は何とも思わなかった。あいつはよく、意味もなく人の手元を覗く。


 半券を三十枚ほど数えたところで、あいつの手が伸びてきた。


 束の中ほどから、一枚を抜いた。


 角が茶色く汚れていた。


 ゴブソンは、それをヘルメットの前まで持ち上げた。何秒か、動かなかった。


 それから、もう一度、鼻の位置に近づけた。


「……あいつのニオイだ」


「え」


「これ。あの女の。さっきの」


 俺は、そのとき、まだ何も分かっていなかった。


 ゴブソンは、その半券を持ったまま、床を見た。


 長かった。


 あとで大井が「二分くらい固まってた」と言っていた。俺の体感ではもっと長かった。あいつの中で、ピースが一つずつ拾い上げられていくのが、外から見て分かった。血のニオイ。あの女。この半券。渡した一枚。上がらなかった手。来なかった連れ。


 全部そこに揃っていて、それでも、繋がるまでに二分かかった。


 仲間が死ぬのは、あいつにとって日常だ。ダンジョンでは毎日誰かが死ぬ。そういうものだと知っている。


『この一体が死ぬことだけを、想定していなかった』。


 ゴブソンが動いた。


 物置の壁に立てかけてあったギターケースに手を伸ばして、その横の、俺が一度も中を見たことのない黒い袋を掴んだ。


 中身は分からない。俺は掴みかかった。止まらなかった。あいつの腕は、俺が両手で引いても平気で前に出た。


「離せ」


「待て、待てって」


「離せ」


 背中から大井が飛びついた。宮田がケーブルの束で腕を絡めた。


 三人がかりで、床に押さえつけた。


 俺は、そのときになって初めて気づいた。


 大井も宮田も、一秒も驚いていなかった。


 二人とも、迷いなく飛びついていた。何が起きているのかを聞き返しもしなかった。


 黒い袋を宮田が蹴って遠ざけた。中で金属の音がした。


 「返せ」


 「返さない」と宮田が言った。「今日は返さない」


 その夜は、それきりだった。誰も打ち上げの話をしなかった。ゴブソンは無言で機材を運んで、無言で高架下を反対方向に歩いていった。


* * *


 朝倉から連絡が来たのは、日付が変わる少し前だった。


 「まだ起きてる?」


 俺は自転車で駅前まで出た。ロータリーのベンチに、彼女は制服でも装備でもない服で座っていた。


「気づいてた」


 最初にそう言われた。


「なにが」


「ヘルメットの人。ゴブリンでしょ」


 俺は何も言えなかった。


「今日、入る前に鑑定を使った。血のついたチケットだったから、いちおう」


「……いつから見てた」


「最初から。最後まで」


 俺の頭の中で、ステージから見た彼女の顔がもう一度再生された。笑わなかった。手も振らなかった。ただ、最後まで、立っていた。


 彼女は、今日自分が殺したものと同じ種類のものが弾く音を、二十五分間、最後まで聴いていた。


 そして「よかった」と言った。


「なんで、何もしなかったんだよ」


「相手が何もしなかった」


 朝倉はそれだけ言って、立ち上がった。


 それから、こっちを見ないで言った。


「あのギターに言っておいて」


「え」


「ゴブリンじゃ、百体束になっても私には勝てないって」


 謝らなかった。


 言い訳もしなかった。


 彼女は事実だけを言って、自転車置き場のほうへ歩いていった。


 俺がそれを伝言だと理解したのは、家に着いてからだった。

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