第11話 昼練
翌日の練習は、十一時から二時間で取ってあった。
朝、大井から連絡が来た。
「今日は休もう」
俺は「わかった」と返して、スタジオに行った。行かないという選択肢が、なぜか一度も浮かばなかった。
十一時ちょうどに、ゴブソンが来た。
時間どおりだった。この二か月、あいつは一度も遅刻していない。昨日、床に押さえつけられて、武器を取り上げられて、仲間が死んだことを知ったその翌日に、時間どおりに来た。
ギターを背負っていた。
「大井は」
「休み」
「宮田は」
「休み」
「そうか」
ゴブソンはケースを下ろした。それから、下ろした手をそのままにして、言った。
「あの女、どこにいる」
「言わない」
「学校だろ」
「言わない」
「同じ学校なんだろ」
「言わない」
三回目で、あいつが動いた。
俺は殴られたことがない。中学のとき一度だけ小突かれたことがあるが、あれは殴られたうちに入らない。
最初の一発で、俺は防音室の壁まで飛んだ。ゴブリンは人間より力が強い。知識としては知っていた。知識としては。
それでも俺は立って、殴り返した。
拳が顔に当たらなかった。ヘルメットだった。俺は自分の指の骨が鳴ったのを聞いた。
「馬鹿かお前」
「うるさい」
俺はヘルメットを掴んで引っ張った。脱げなかった。あいつが俺の襟を掴んで、二人でもつれて、譜面台が倒れて、シールドケーブルの束を踏んで、床に転がった。
武器はなかった。あの黒い袋は宮田が持って帰った。だから俺たちは、手だけで殴り合った。
「俺の好きな女を殺すな!」
叫んだ。
言ってから、自分がとんでもないことを言ったのが分かった。分かったが、取り消す気は一ミリもなかった。
「俺の仲間を殺したんだぞ!」
ゴブソンが叫び返した。
こもった声だった。ヘルメットの中で反響して、二重になって聞こえた。人間の声ではなかった。
俺は、そこで「ああ、そうだよな」と言わなかった。
言えなかった。言えば楽になるのは知っていた。お前が怒るのは当たり前だ、俺が悪かった、と言えば、この場は収まったかもしれない。
言わなかった。
だって、あいつが殺しに行こうとしているのは朝倉だ。
俺が四時間前まで隣に座っていた人間で、俺を助けた人間で、俺が好きな人間だ。それを「仕方ない」と認めることだけは、どうしてもできなかった。
あいつも譲らなかった。
あいつにとって、死んだのは二か月ずっとライブに誘っていた相手で、チケットを胸ポケットに二回押さえて入れた相手だ。
どっちも正しくて、どっちも一歩も引かなかった。
だから、何も解決しなかった。
最後は二人とも息が上がって、床に転がって、天井の吸音材を見ていた。俺は唇が切れていて、鉄の味がした。ゴブソンのヘルメットには俺の血がついていた。あいつはたぶん無傷だった。
防音室は、外の音が入ってこない。
だから、時間が分からない。
俺はスマホを見た。
十二時二分。
「……あいつって」
俺は、天井を見たまま聞いた。
「あの連れって、お前の何だったんだよ」
ゴブソンは答えなかった。
俺はそのとき、自分が持っていない言葉の多さに気づいた。あいつには名前がない。俺が勝手につけた名前しか持っていない。だとしたら、死んだあれのことを、俺はどう呼べばいいのかも分からない。友達なのか、家族なのか、それ以上なのか。聞く手がかりが一つもない。
「連れだよ」
それだけだった。
俺はもう一度聞いた。
「大事だったのか」
「大事だよ」
あいつは、あっさりそう言った。それ以上の説明をする気がまったくなかった。
俺の頭の中では、それは説明されるべきことだった。どのくらい大事だったのか、いつからの付き合いなのか、それを説明してもらえば、俺は「そりゃそうだよな」と言える。言って、少しは楽になれる。
あいつは説明しない。
説明したところで、殺したいことも、大事だったことも、何ひとつ変わらないからだ。
むくり、と、ゴブソンが起き上がった。
スマホを見たわけでもないのに、あいつは言った。
「昼練の時間だ」
俺は、床から見上げた。
「……今それやるのかよ」
「やる」
「話、終わってないだろ」
「終わってない」
あいつはケースを開けて、シールドを挿した。
「終わってないけど、ギターを弾いてる間は、全部忘れられる」
俺は起き上がれなかった。
「……それでいいのかよ」
口から勝手に出た。
言ってから、これはまずいと思った。俺が言っていいことじゃない。俺は殺した側の恋人で、こいつを止めた側で、こいつの連れを何と呼べばいいかも知らない人間だ。
ゴブソンは、こっちを見なかった。
「よくない」
「じゃあ、」
「よくないままやるんだよ」
あいつはアンプのつまみを回した。
「忘れなかったら、今から殺しに行く。武器はないけど、行く。行ったら死ぬのは俺だ。それは知ってる。それでも行く」
だから弾く、と、あいつは言った。
俺はそこでようやく、自分がずっと勘違いしていたことに気づいた。
こいつは折り合いをつけていない。整理もしていない。恨みも、殺意も、明日も練習に来ることも、全部を同じ大きさのまま同時に持っている。人間なら、どれかを小さくしないと持てない。だから俺たちは「仕方ない」と言ったり、「そういうものだ」と言ったりして、片方を薄めてから抱える。
こいつはそれをしない。
ただ、持ったまま両手が塞がったので、手を空けるためにギターを持つ。
それは慰めでも、赦しでもなかった。もっと乱暴で、もっと単純で、たぶん俺には一生できない持ち方だった。
俺は起き上がって、ギターを取った。同じ重さだとは思えなかった。指が痛かった。
チューニングを始めた。昨日のライブでネックが少しずれていて、二弦が下がっていた。
合わせ終わって、顔を上げた。
向かい合ってギターを持っていた。俺は鼻血が乾いたまま、唇が切れたまま、たぶんひどい顔をしていたと思う。
言うなら今しかない気がした。
「そういえば、伝言」
「あ?」
「あいつが言ってた。お前じゃ、百体束になっても敵わないって」
ゴブソンは、ピックを持ち直した。
「知ってるよ」
あっさりしていた。
「何年、雑魚モンスターやってると思ってるんだ」
俺は、返す言葉が出てこなかった。
あいつは弦を一本、はじいた。
「勝てるなら、昨日のうちに行ってる」
それだけだった。
俺が丸一日かけて、伝えるか伝えないかを悩んだものは、あいつの中ではとっくに済んでいた。俺だけが、自分が何か重たいものを預かっているつもりでいた。
なんで行こうとしたんだ、とは聞かなかった。
聞くまでもない。勝てないなら行かない、というのは俺の側の数え方だ。こいつはさっき、行けば死ぬと知った上で行くと言ったばかりで、そこに勝ち負けの話は最初から入っていない。
止めることも、送り出すことも、俺にはできなかった。
俺にできるのは、こいつがギターを持っている時間を、少しでも長くすることだけだった。
「頭から」
俺はそう言って、カウントを出した。
一時間、弾いた。
その一時間だけ、俺たちは同じ場所にいた。仲直りしたからではない。何も解決していないのに手が塞がっていて、それを塞ぐためにギターを持っている人間が、この部屋に二人いたというだけのことだった。
俺はこの夏、初めてそれを自分の理由として理解した。
新曲のBメロは、その日も完成しなかった。ゴブソンは同じところを七回やり直して、七回とも気に入らないと言った。そのあいだ、あいつは一度も朝倉の話をしなかった。俺も、しなかった。
十三時になって、次の予約の高校生たちが扉の外で待っていた。
機材を片付けて、階段を降りた。外は死ぬほど暑かった。
高架下で、ゴブソンが立ち止まった。
「明日も来る」
「うん」
「あの女のことは、終わってないからな」
「うん」
それだけ言って、あいつは反対方向に歩いていった。
俺は高架下に残って、自分の手を見た。指の関節が腫れていた。今日ここで殴ったものも、伝えたものも、何ひとつ形にならなかった。
それでも、明日も練習がある。
この夏で初めて、俺はそれを、何かの代わりではなく、それ自体として受け止めていた。




