第15話 見てたか
八月三十一日は、予報どおり晴れた。
河川敷の特設ステージは、思っていたより小さかった。鉄パイプと足場板でできていて、後ろに川が流れている。客席という区画はなく、みんな芝生に座ったり立ったりしている。焼きそばの屋台が二つ出ていた。
十三時集合。ゴブソンは十二時に来ていた。
道が分からなかったら困る、という、いつものこいつの習慣だった。
高校生バンド枠は六組。うちは四番目、十六時二十分。
待ち時間のあいだ、大井が何度もセットリストを見直していた。宮田は日陰でずっと寝ていた。ゴブソンは、テントの隙間から客のほうを見ていた。
誰かを探しているのは、俺には分かった。
二週間前のライブで上がらなかった手を、こいつはまだ探している。
* * *
十六時二十分。
名前を呼ばれて、ステージに上がった。
夕方に近づいて、日差しが少し斜めになっていた。川からの風が生ぬるい。前のバンドの客が半分残っていて、うちの客が三十人くらい。大井の妹と、その友達が前で手を振っている。
一曲目。
鳴った瞬間に、俺は分かった。今日は、いい。
二曲目でゴブソンのコーラスが入る。ヘルメットの中から出てくる、あの人間の声じゃないやつだ。喉の奥で石を挽くみたいな唸り。最前列の知らない客が「うおっ」と言うのが聞こえた。
三曲目、四曲目。
残り一曲になったとき、俺はマイクの前で言った。
「新曲やります。昨日できました」
誰も知らない曲だ。当たり前だ。昨日の深夜二時にできたばかりで、聴いたことがあるのは、この地球上で四人しかいない。
Aメロ。
Bメロ。
あいつが七回やり直して、八回目に見つけたやつ。
俺はそこで、少しだけ客席を見た。
誰も、この曲がこいつの最後だとは思っていなかった。夏の終わりの河川敷で、高校生のバンドが新曲をやっている。それだけの光景だった。
サビが終わって、最後のフレーズが伸びて、消えた。
拍手が起きた。屋台の音と、川の音と、拍手。
* * *
そこで、ゴブソンが動いた。
ギターを肩から下ろして、ヘルメットに手をかけた。
俺は止めようとした。手が届かなかった。
あいつは、両手で持ち上げて、外した。
夕方の光の下に、緑色の顔が出た。
低い鼻と、横に大きい口と、外に出た二本の下の歯。黄色い目。汗をかいた頭から、湯気みたいなものが上がっていた。二か月で初めて見る、あいつの、外の顔だった。
客席がざわついた。
それから、笑い声が起きた。
「うわ、すげえ」
「特殊メイク?」
「やば、めっちゃ完成度高い」
誰も、悲鳴を上げなかった。
誰も、通報しなかった。
この街では、モンスターはもう珍しくない。テレビの向こうにいて、ニュースの中で処理されて、捨てられた着ぐるみが夜中に立ち上がることもある。だから、河川敷のステージの上にいるゴブリンは、『よくできたコスプレ』にしか見えない。
夕方の四番目の高校生バンドを、この時間、冒険者が見ているわけもない。
あいつは、そのざわめきの中に立っていた。
汗が顎から落ちていた。息が上がっていた。それでも、客席のほうは見ていなかった。
顔を上げた。
空を見ていた。
そして、右手を上げた。
手のひらを開いて、目の高さで、まっすぐ前に。
俺は、それが何なのかを知っている、たった一人の人間だった。
客席から送るはずだったサイン。上がらなかった手。二週間前の夜、半券の束の中から見つかった、血のついた一枚。
あいつは、それを空に送った。
言葉は、なかった。
でも俺には聞こえた。
『見てたか?』
* * *
同じ時刻、地下四十七階。
朝倉千秋は、コアの前に立っていた。
直径二メートルほどの、光る球体だった。表面を紫と白の筋が流れている。三年潜って、初めて見た。
規定では、コアは発見しだい破壊する。到達報告と同時に、上へ連絡が飛んでいる。
柏木さんが振り返った。
「朝倉。やれるか」
千秋は、時計を見た。
十六時二十分。
「……あと、二十分」
「は?」
「二十分だけ、待ってください」
「何言ってんだ」
「お願いします」
柏木さんは何か言いかけて、やめた。三年、この後輩が規定から外れたことを一度も見ていない人の顔だった。
千秋は壁際に座って、スマホを出した。
攻略部隊の中継器は、深層まで電波を引いている。彼女の配信のために引かれたようなものだ。
配信に流れるのは、選別されたシーンだけだ。何を出すかは、こちら側で決める。それでも、いつもは流す側だった。
今日は、受け取る側だった。
河川敷フェスの公式配信。画質は荒い。音は、イヤホンから小さく漏れるくらいの音量にした。
四番目のバンドが映っていた。
市川がマイクの前で何か言っていた。聞こえなかった。
演奏が始まった。
千秋は、コアの光を背中に受けたまま、それを最後まで見た。
知らない曲だった。あの日、防音室で聴いたどれとも違った。
最後の音が消えて、拍手が入って、画面の中で、ヘルメットの人がそれを外した。
客席が笑っていた。
千秋は笑わなかった。
画面の中のゴブリンが、空を見上げて、右手を上げた。
手のひらを開いて、目の高さで、まっすぐ前に。
千秋の指が、スマホを落としかけた。
十四日前、ダンジョンの行き止まりで、壁にもたれた一体が、同じ手を上げた。
彼女はそれを、降参だと思った。
両手が上がらないから片手なんだな、と思った。
違った。
あれは、降参ではなかった。
あれは、『約束の合図だった』。




