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第16話 壊れなかったの

 配信を閉じた。


 朝倉千秋は立ち上がって、装備の埃を払った。イヤホンを外して、ポーチに入れた。


「終わったか」


 柏木さんが聞いた。


「終わりました」


「何を見てたんだ」


「ライブです」


 柏木さんは、それ以上聞かなかった。聞かないでくれたのだと思う。


 千秋はコアの前に立った。


 直径二メートルの球体が、紫と白の筋を流している。この中から魔力が供給されて、この街の地下四十七階分の生態が回っている。四百件の接触も、五年ぶりに畑に出られなかったじいさんも、夜道で着ぐるみに声をかけて襲われた誰かも、全部ここから出ている。


 あの音楽も、そうだ。


 ここから出ているものの一つ。


 けれど止めることに、ためらいはない。


 剣を抜いた。


 両手で構えて、切っ先をコアに向けた。


 コアは動かない。


 あのギターが向けた手のひらが、まだ目の裏にあった。


 あの動きが命乞いでなければ、一体なんなのか。十四日前、彼女に向けられた手のひらは、あの言葉は、なんだったのか。


 記録なら、先週見た。


 装備のカメラは回っていた。音声も入っていた。あの個体が最後に言った音は、ちゃんと残っていた。しゃがんでポーチの奥に紙を入れる自分も、一緒に映っていた。


 それでも、意味は分からなかった。ゴブリン語は誰も習わない。習う必要がない、というのが公式の見解だ。


 答えを持っているのは、さっき画面の中で手を上げた、あのギターだけだった。


 あれに聞ければよかった。手のひらを開いて、目の高さに上げる。あれはどういう意味かと。


 あれは、彼女を殺したがっている。


 もし二体だけの合図なら、これから振り下ろした時点で、答えはなくなる。永遠に。


 息を吸った。


 そして、思い切り、振り下ろした。


 当たらなかった。


 切っ先が、コアの表面まであと数ミリというところで、止まった。


 止まった、という言い方は正しくない。『止められた』。


 千秋の腕は、まだ振り下ろす途中の姿勢を保っていた。破壊するだけの速度と力を備えているのに、刃と球体のあいだに、透明な数ミリが残ったまま、それ以上どうしても詰まらなかった。指の骨まで痺れが上がってきた。


 コアの光が、強くなった。


 紫と白の筋が速く回り始めて、部屋の影が壁を走った。柏木さんが「離れろ」と叫んだ。


 次の瞬間、剣が跳ね返された。


 磁石の同じ極どうしを押しつけたときの、あの反発に似ていた。桁が違う。千秋は柄を握ったまま後ろへ飛ばされて、背中から床を滑って、壁の手前で止まった。


 剣は手から離れなかった。それだけが、彼女の三年だった。


 光が、ゆっくり元に戻っていく。


 球体は、傷ひとつなかった。


 千秋は、床に座り込んだまま、それを見上げていた。


 柏木さんも同じ顔をしていた。三年見てきて、初めて見る顔だった。目を見開いて、口が半分開いていて、何が起きたのか分かっていない顔。


 千秋も、まったく同じだった。


 何が起きたのか分からなかった。規定どおり、全力で振った。手加減はしていない。誓って、していない。


 なのに、壊れなかった。


 彼女は自分の頬に触れた。


 口の端が、上がっていた。


 笑っている。


 自分でも、理由が分からなかった。


* * *


 報告書を出したのは、その夜だった。


 二十分の遅延について、理由の欄には「装備確認」と書いた。


 この夏、彼女が書いた唯一の嘘だった。


* * *


 九月三日。


 俺は、三日ぶりに人の顔をまともに見た。


 三十一日の夜、俺は一睡もしなかった。スマホを握って、ニュースアプリを更新し続けて、朝が来た。とくに何も出なかった。九月一日も出なかった。


 二日の昼、ゴブソンが練習に来た。


 時間どおりだった。


 俺は、防音室の扉が開いて、あのフルフェイスが入ってきたとき、たぶん間抜けな声を出した。あいつは「なんだよ」と言って、いつもどおりシールドを挿した。


 その日の練習で、俺は三回もコードを間違えた。


 そして三日の朝、ニュースが出た。


『――東京第三ダンジョンのコアについて、攻略部隊による物理攻撃が行われましたが、『破壊は確認されませんでした』。』


 会見の映像だった。ギルドの人と、役所の人が並んで座っている。


 解説の人が言っていた。地方で成功した事例との条件の違い、階層の深さ、コアの規模。仮説がいくつも出てきて、どれも「今後の検証が必要」で終わっていた。


 どうやら『人間の力では、コアを壊せなかった』らしい。


 俺は、テレビの前で、しばらく動けなかった。


 嬉しいのか、怖いのか、自分でも分からなかった。


 あいつは死ななかった。同時に、ダンジョンは終わらなかった。四百件は来年も四百件のままだ。畑のじいさんの側は、何も救われていない。


 俺が心の底から安心していることが、そのまま誰かにとっての最悪の報せである、という状態を、俺はこの日初めてまともに理解した。


* * *


 問題が発覚したのは、その週末だった。


 ゴブソンが、金を借りていた。


 ほうぼうに。


 楽器屋のローンが二本。大井の兄貴から三万。ラーメン屋のツケ。中古のエフェクターを分割で買っていて、機材車のレンタル代を立て替えてもらっていて、しかも二か月分溜めていた。


「どうすんだよこれ」


「どうせ死ぬと思ってたから」


 あいつは平然と言った。


「最後の夏だろ。楽しまなきゃ損じゃん」


「損じゃんじゃねえよ」


 総額を計算した宮田が、電卓を置いて天井を見た。


「……二十八万」


 大井が「うわ」と言った。


 こうしてゴブソンは、消滅を免れたかわりに、九月から必死でアルバイトを始めることになった。


* * *


 朝倉が来たのは、九月七日だった。


 スタジオの前で待っていた。制服だった。二学期が始まっている。


「入っていい?」


「……いいけど」


 俺が扉を開けた瞬間、ゴブソンが振り返った。


 そして、ヘルメットのまま、つかつかと歩いてきた。


「てめー」


「なに」


「あんだけ期待させといて、コア壊せなかったとかウソだろ! ふざけんな!」


 俺は頭を抱えた。


 こいつは、自分が生き延びたことについて、感謝ではなく苦情を言っている。しかも本気で怒っている。二十八万の借金は、あいつの中では完全にこの女のせいになっている。


 朝倉は、こっちを見なかった。


「壊れなかったの」


「絶対わざとだろ!」


「壊れなかったの」


「配信で見てただろ! 全部見てたんだろ! 泣いてたんじゃねえのか!」


「泣いてない」


「じゃあなんで壊さなかった!」


「壊れなかったの」


 同じ言葉が、三回返された。


 声の高さも、間の取り方も、一回目とまったく同じだった。


 俺は、そのとき、あの夜の駅前を思い出していた。


 チケットをどこで手に入れたのか、俺は一度だけ聞いた。この人は「拾った」と答えた。


 それ以上は、今日まで一度も話していない。


 聞こうとしたことは何度かある。そのたびに、この人は同じ場所に線を引いた。仕事の話は、仕事の外に持ち出さない。悩みがあるなら柏木さんがいる。あなたに聞かせるものじゃない。


 俺も、たぶん同じことをしている。ゴブソンが何を抱えてギターを弾いているのかを、俺はこの人に一度も説明していない。説明したら、この人はそれを鑑定の対象として聞かなきゃいけなくなる。


 俺たちは付き合っているのに、お互いの夏の中身を、半分ずつ知らないままでいる。


 たぶん、これからもそうだ。


 この人は、嘘をつかない。


 正しいことだけを並べて、自分がどうしたかったのかは、絶対に言わない。


「……本当は」


 俺は言った。


「本当は、壊さないでくれたんだろ」


 朝倉は、ようやくこっちを見た。


 二秒くらいだった。


「壊れなかったの」


 それきりだった。


 彼女はそのあと、パイプ椅子に座って、練習が終わるまで何も言わなかった。ゴブソンは終始不機嫌で、演奏の音がいつもより大きかった。


* * *


 帰り際だった。


 朝倉がドアの手前で立ち止まって、振り返った。ゴブソンはケースにギターをしまっている途中で、こっちを見ていなかった。


「ひとつ、聞いていい」


「あ?」


 朝倉は、口の中で一度だけ動かしてから、言った。


「――ムーシャ・ゲ・ネンプ」


 ゴブソンの手が止まった。


「なんだそれ」


「ゴブリン語。どういう意味か知りたくて」


 あいつは少し黙って、それから、心底どうでもよさそうに言った。


「メロンパンだ。それがなんだよ?」


 朝倉は答えなかった。


「そう」


 しばらく考えて、それから言った。


「食べる?」


「もっといいもん持ってこいよ。俺、甘い物苦手」


「そう」


 それだけ言って、ドアを開けて、出ていった。


* * *


 帰り道、宮田が小さい声で俺に言った。


「あの人、絶対わざとだよ」


「かもな」


「でも、言わないでしょ」


「言わないだろうな」


「めんどくさい人だね」


 俺は笑った。笑ってから、少しだけ泣きそうになった。


 言わないままでいてくれるということは、あの人が、これからも四十七階に潜り続けるということだ。壊れなかったことになっている以上、次の攻略はまた組まれる。彼女はまた装備を着て、モンスターの数を減らして、地上に上がってくる。


 何も終わっていない。


 ゴブソンは生きていて、借金があって、朝倉は明日も潜って、俺は二学期の教科書を買っていない。


 それだけが、俺たちの夏の結末だった。

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