第13話 最終日
夏期講習の最終日は、八月二十五日だった。
最後の日だと気づいたのは、前の週に配られたプリントの隅に「※本日で夏期日程は終了です」と印刷されているのを、その朝になって読んだからだ。
二〇三教室に入って、いちばん後ろの窓際に座った。
隣は空いていた。
一限が始まる三分前に、扉が開いた。
朝倉が入ってきて、こっちに歩いてきて、座った。
八日ぶりだった。
左の頬に、絆創膏より大きいガーゼが貼ってあった。首筋に、隠しきれていない痣があった。日に当たっていない肌が、教室の蛍光灯の下で紙みたいに見えた。
「おはよ」
「……おす」
「席、ここしか空いてなかった」
嘘だった。教室は半分も埋まっていなかった。
俺は、何から聞けばいいのか分からないまま、一限を丸ごと潰した。
* * *
休憩時間、周りには他の生徒がいる。前の席の男子はイヤホンをしているが、その隣の女子はしていない。
だから、小声になる。
「あのさ」
「うん」
「なんで、なんもしなかったんだ……ゴブリンを、見つけたのに」
朝倉はシャーペンを置いた。
「したよ」
「え」
「鑑定して、切らなかった。私がやったのはそれ」
言い方が事務的だった。何もしなかったのではなく、『切らないほうを選んだ』のだと、この人は言っている。
「あれ、たぶん、すごく珍しい」
「なにが」
「あなたとあの子。私、三年潜ってるけど、一件も見たことない」
朝倉は、プリントの余白にシャーペンで線を一本引いた。意味のない線だった。手を動かしていないと喋れないみたいだった。
「今年、うちの部隊が処理した接触、何件だと思う」
「……知らない」
「四百件くらい。都内だけで」
彼女は線をもう一本引いた。線と線が交わって、細い×になった。
「そのうち、人が死ななかったのが何件だと思う」
俺は答えられなかった。
「聞かなくていい。聞いても、いいことない」
前の席の女子が消しゴムを落とした。朝倉はそれを拾って渡してから、また小さい声に戻った。
「あなたたちみたいなのが尊いのは、知ってる」
「……」
「知ってるけど、増えないの」
そこで一度、言葉が切れた。
切れたまま、少し長かった。
俺は、この人がこの台詞を今作っているんじゃないことに気づいた。何回も、たぶん一人で、深いところの寝袋の中とかで、順番を並べ替えた文章だ。それでも詰まる。人に言うのは初めてだからだ。
「増えないまま、被害だけ増えてる。だから壊す人が要るの。私に与えられた力は、それ」
「なんとかならないのか。コアを壊さずに、街への被害だけを防ぐ方法は」
「ない」
考える間がなかった。俺が思いつく程度のことは、この人がとっくに通り過ぎている。
「三年、誰も見つけてない」
その答えが、いちばん効いた。
遮られたわけでもないのに、続きが出てこなかった。
俺には、この人に出せる数字が一つもない。四百件の話をされても、こっちが持っているのは、俺の女を殺したがっている一体の話だけだ。それを、いい話として差し出す方法はどこにもなかった。
言えるのは、壊さないで済む道がないか、ということだけだった。その筋道も、たった今なくなった。
「同じ力を与えられるなら、あなた達みたいな関係を築く力が欲しかった」
朝倉はシャーペンを置いた。
「でも、それは私の話。街の話じゃない」
彼女は自分の都合を、そう言ってきれいに切り離した。
俺は、何も言えなかった。
* * *
二限が終わって、三限までの休憩でようやく言えた。
「頼みがある」
「うん」
「八月三十一日に、ライブがあるんだ」
「フェス」
「知ってんの」
「チケット見た」
俺は少し笑って、それから真顔に戻した。
「あいつの、最後のライブになるかもしれない」
朝倉は、こっちを見なかった。
「せめて、それが終わるまで、待ってくれないか」
言ってから、自分がとんでもなく身勝手なことを言っているのが分かった。
あいつは友達じゃない。この人を殺しに行こうとして、その宣言をいまも取り下げていない。俺はそれを知っていて、それでも、あいつが弾いているのを終わらせないでくれと言っている。
この人は、五年ぶりに畑に出られると泣いていたじいさんの側にいる。街を回すために毎日潜っている。その仕事を、聴きたいから遅らせろと言っている。
朝倉は、それでも怒らなかった。
「私の一存では、決められない」
「……」
「コアは、見つけ次第、破壊するきまりになってる。部隊の規定。私が決めることじゃない」
感情の話ではなかった。職務の話として返してきた。
そして、それは嘘ではなかった。この人は嘘をつかない。正しいことだけを言って、自分がどうしたいかは一言も言わない。
俺は「そっか」と言った。
それしか言えなかった。
* * *
最後の授業が終わって、講師が「みなさん、二学期もがんばってください」と言った。
誰も拍手しなかった。夏期講習とはそういうものだ。
教室を出る生徒の流れの中で、俺は朝倉と並んで階段を降りた。並んで歩くのは、たぶん八月に入って初めてだった。
外は暑かった。
ここが、俺たちが同じ側にいられる最後の場所だった。ダンジョンにも音楽にも属さない、ただの二〇三教室。何も死なないし、何も生まれない。この人はたぶん、この教室に来るために、補給の日程をずらしていた。
明日から、それがない。
「じゃあ」
「うん」
俺は「また明日」と言いかけて、言葉を飲み込んだ。
明日はない。次に会うのは、いつだろう。たぶんフェスか、コアか、どちらか先に終わったころだ。
朝倉は、二歩進んでから振り返った。
「市川くん」
「ん」
「新曲、できた?」
「……Bメロが、まだ」
「そう」
彼女はうなずいて、駅のほうへ歩いていった。
通りの街路樹の、低いほうの枝に、しぼんだ風船が引っかかっていた。バルーンラビットだ。色が抜けて、ほとんど白かった。耳が二本、垂れていた。
朝倉はその下を通って、見上げなかった。
その背中に、俺は結局、何も言わなかった。




