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29 私の物

 口から壊れたように吐かれていた哄笑が止まる。

 そんな吾を見て、再びその人間の少女は言った。

 

「拓郎」


 拓郎。

 そうだ。自分の名前の筈だ。

 

 それを呼ぶのは。

 親愛の情を込めてそう呼ぶのは。

 

「ひま、り」


 辛うじてその名前を記憶から掬い上げる。

 そうしなければ名前を思い出せなかったことに愕然とする。

 

 吾は――俺はさっきまで何を考えていた?

 

 辛うじて正気を取り戻せた。そんな考えが頭に浮かぶ。

 

「っ……!」


 思考が安定しない。

 私は今どうなっている?

 

 そうです。

 もう一人。

 藤島拓郎じゃないもう一人がいたはず。

 

 わたしは本来二人。

 だというのに今私おれの中には一人しか感じられない。

 

「ぐっ……頭が……」


 跪き頭を抱える。

 分からない分からない分からない。

 

 今私おれはどうなっているんですか?

 あの白い力に全部押し流されて。

 大事なことを沢山取りこぼしている気がします。

 

 同時に。

 今が正しいのだと。その直感もある。

 そう考えた途端にまた、頭の中が真っ白に。

 

「拓郎。こっちを見て」


 気が付けば。

 緋鞠はわたしの眼前にいた。

 

 蹲って頭を抱えるおれの前に恐れることなく立っています。

 割れた面に手を当てて。

 真っすぐに晒された瞳を見つめて。

 

「私をちゃんと見て」

「何で、わたしだって」


 確実にサイズからして違うし、声だって少年なのか少女なのか分からない重なった様な声音。

 

 緋鞠の瞳に映った今の容姿。

 そこには人間であった藤島拓郎との共通点なんて数えられる程もあるかどうか。

 

「勘」


 ちょっと怒った様な顔で緋鞠はそう言い切る。

 まるでそれは姿が変わった程度で私が分からなくなると思うのかと主張している様で。

 

 思わず口から苦笑交じりの声が漏れた。

 

「バカだろ」


 危険なモンスターだったらどうするつもりだとか。

 色々と言いたいことはあった。

 

 だけどそれ以上に嬉しかった。

 自分でも自分が分からなくなっているのに。

 

 緋鞠は俺を見つけてくれた。

 

「それで拓郎は何で急にこんな大きくなったの。成長期?」


 そんな普段めいた会話はあまりに場違い。

 だけど。

 それが普段だと分かる程度には落ち着いてきた。

 

「違う俺は」


 そうだ。何で忘れていたんだろう。

 

「蛍火と融合して……」


 忘れていたわけではない。

 完全に同一化しているのか。わたしおれの境界線が分からない。


「完全に一つになってる。戻れない」

「他にも色々と話していない事あるみたいね」


 隠し事の多い奴めと、緋鞠は指先を弾いて俺の鼻を叩く。

 サイズ差からすれば全然何も感じないはずなのに。

 

 何故だか身体の芯に響いた。

 

「今日という今日は洗いざらい吐いてもらおうかな。そう決めてたんだから」

「なんだ、お前もか」


 兄妹揃って、誕生日に大事な話をしようなんて。

 そんな考えまで似なくても良いのに。

 だけどずっと一緒に過ごしてきてたんだから考えも似通うんだろうな。


「だから、帰ろう拓郎」

「帰、る……」


 ああ。

 そうできたらいい。

 

 いつもそうしているあまりに簡単な事。

 

 それが今はとてつもなく難しいのだと。そう言わざるを得ない。

 

「ダメだ。俺はもう帰れない」


 蛍火との融合解除はいつもお互いの輪郭を意識していた。

 溶け合った境界線を引き直して、不定形に揺れた輪郭を描き直して。

 

 そうして別々の個として成立させていた。

 

 それが今はない。

 どこにも境界線が無い。不安定な輪郭が無い。

 

 遡った記憶の中で言っていた。

 

 体内で分割すると。

 その処置を施す前の状態にわたしは戻ってしまった。

 

 本来の姿に。

 人とモンスターの狭間にいる存在に。

 

 そしてそうなったことで生まれついて縛られている契約も履行しないといけない。

 

『早くあいつを私のところに連れて来て』


 あの悍ましい声。

 絶対に、碌な事にならないと確信できるあの気配。

 だというのにその願いを叶えなくてはいけないと。

 

 浸り浸りと脳に染み込ませるように。

 思考が汚染されているのを感じる。

 

「もう帰れないんだ」


 いいや、帰っちゃいけない。

 きっと今の自分は害になる。

 この力に完全に飲み込まれたらおれは。

 

 あのミノタウロスと同じように八番目の――。

 

「なら私も着いて行こうかな」


 そんな。あまりにふざけた言葉が聞こえて来て。

 

「それはダメだ!」

「だったら拓郎が帰らないのもダメだよ」


 全くふざけていない真剣そのものの表情で。

 

「ねえ。言ったよね。私たちはずっと一緒。覚えてる?」


 その言葉は。

 

「……忘れたよ」


 勿論覚えている。

 両親が再婚して距離感を測りかねていた時に。俺を救ってくれた言葉。

 

 だけど突き放さなくては。

 もう一緒にいられないなら、そんな言葉忘れなくては。

 

「嘘つき」


 そんな俺の心を見透かしたように緋鞠は笑う。

 

「まあ拓郎が忘れていても良いよ。私はずっと覚えてるから。うん、きっと死ぬ時まで忘れない」


 目を閉じて懐かしむように。

 

「私と拓郎は二人で一つなんだから。拓郎が帰らないなら私も帰らない。当たり前でしょ?」


 ああ。なるほど。

 緋鞠が涙を流すわけだ。

 

「やめて、くれ」


 自分の頬に涙が伝っているのが分かる。

 

「そんなことを、して欲しいわけじゃない」


 己のせいで、相手の未来を閉ざしてしまう。

 選択肢を狭めてしまう。

 そんな不本意、悔しくないはずがない。

 

「だったら諦めないで。拓郎が帰ってくれば全部解決するんだから」

「だけど分からない……どこからどこまでがわたしで、どこからがおれなんでしょうか」

 

 んーと緋鞠はしばし考えた後。

 面が割れて素顔が露出しているところに抱き着いてきた。

 

「私の半分は拓郎で、拓郎の半分は私でしょ?」


 どこか子供をあやす様な柔らかな口調。

 

「だったら拓郎の中の私を探して。私の中の拓郎を見つけ出して」


 その言葉に素直に従う。

 自分という存在の中から。緋鞠を見つけ出す。

 

 彼女の姿を。

 声を。

 記憶を。

 そして想いを。

 

「そう、か」


 あまりに明確だった。

 一番大事にしている物。

 

 そこを核に俺は自分を広げていく。

 同時に、私は別の核を見つける。

 

 私にとって何よりも大事なのは――主様だ。

 

 一番大事にしている物は違う。

 その当たり前すら分からなくなるくらいに溶け合っていたけど。

 

 一度認識してしまえば余りに明瞭でした。

 

「それから、拓郎と融合しているっていうあの子に伝えておくけど」


 何でしょう?

 

「彼は私の物。勝手に持っていくのは、許さない」


 その宣言に身震いする誰かの存在を間近に感じて。

 

 気が付いたら俺は緋鞠に抱きしめられていて。

 横で蛍火が鳥肌を立ててプルプルと震えていた。

 

 戻って、これた?

 

 イマイチ現実感が無い。目を白黒させている俺に。

 

 胸の中で緋鞠が顔をあげてにんまりと笑った。

 

「ほら、帰ってこれたでしょ?」

「ああ、そうだな」


 溜息の様にそう呟いて。

 

「ただいま緋鞠」

「おかえり拓郎」


 人間、藤島拓郎に戻ってこれた事に安堵の息を吐いた。

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