23 一番大事な事
ミノタウロスの胸元からはおびただしい量の血が流れている。
俺達の全力は奴の命に触れていた――だが、届かなかった。
最後の一押しが足りなかった。
全身の痛みは先ほど地面を転がっただけではない。
融合状態の俺がその程度でこれほどダメージを負うはずがない。
つまりこれは、蛍火が感じている苦痛。
至近であの爆発を浴びた彼女は……ダメだ。もう戦えない。
魔法融合は解除され、バックドラフトも今の衝撃で消し飛んだ。
虫の息。
他のモンスターならば召喚解除して暫く回復に専念させるような大ダメージ。
そのおかげと言って良いのか。
ミノタウロスはもう蛍火に興味がないらしい。
ビルの壁に食い込んで俯いている彼女に一瞥を向けると、重々しく歩き始める。
向かう先は……俺。
圧倒的な存在感が一歩ずつ近づいてきている。
たった一人の人間を殺すために。
それがそのまま死刑へのカウントダウンに等しい。
「こ、金剛身!」
回らない舌でどうにかスペルを唱える。
数秒間動きを止めるはずの金剛身。
だがミノタウロスは一瞬動きが鈍くなっただけで殆ど効いていないように見える。
(まさか、固まりそうになる身体を強引に動かしてる?)
フィジカルのごり押し。
スペル自体にもランクがあり、最低ランクとはいえ殆ど効果がないなんて。
ハンドアックスが振り上げられる。
今から走って、奴の間合いの外に出られるだろうか?
(……無理だ)
融合によってモンスターの身体能力の一部を得ていたとしても、このミノタウロスは次元が違う。
あの腕力だけで生み出された破滅的な一撃を避けられるとは思えなかった。
ミノタウロスのハンドアックスがスローモーションで振り下ろされてくる。
こういう時、走馬灯の一つでも見る物だと思ったけど……そうでもないんだなと。場違いな思考が頭を過って。
そうして俺は鉄塊から滴り落ちる血と肉片の一部に――。
変えられる寸前。
横合いから決死のタックルを仕掛けたジャイアントビートルによって斧の軌道が逸れる。
生まれた僅かな安全地帯に、必死で飛び込んで俺は九死に一生を得た。
本来、ジャイアントビートルはもう戦えるレベル帯ではない。
緊急事態で他の手持ちが居ないからここまで無理して使ってきたが……ミノタウロスとのステータスの差はきっと絶望的なほど。
モンスターだってその事は分かっているハズなのに。
召喚主を助けるために自らの命を投げ出した。
命を救ってくれたモンスターの名前を叫ぶよりも先に。
ミノタウロスがジャイアントビートルを己の手で掴み取る。
ぐっと、力を込められただけで頑丈だったはずの甲殻が罅割れて砕け散っていく。
「召喚解除!」
間一髪。完全に握りつぶされる前に召喚石へと戻っていく。
だがこれで、俺の手持ちのモンスターはほぼ全滅だ。
もう戦闘能力を維持している奴はいない。
手持ちのスペルも大半使い切ってしまった。
残っているのはスパイダーウェブとサンドストームの二つだけ。
スパイダーウェブは恐らく意味がない。
あの力強さを止めるにはあまりに頼りない。
ならばあとは。
「サンドストーム!」
命の危機にただただ生き残ろうと本能が働く。
砂嵐に紛れて、逃げる。
他に手がない。
だと言うのに。
振り向いたらまだ、逃げ惑う人たちが視界にいる。
俺が稼げた時間は僅か70秒程度。
蛍火なら兎も角……そんな時間じゃまだ、誰もシェルターに辿り着けてすらいない。
ボロボロのアイシクルタイガーが緋鞠をピックアップしてシェルターへと駆け込もうとする――が、それだって遅い。
今ここで俺が逃げたら次に起きるのはなんだ?
逃げ惑う避難民が踏みつぶされて、最後にアイシクルタイガーが緋鞠諸共切り伏せられる。
その未来は予想でも何でもなく、確定した未来と言ってもいい。
思考が空転する。
本能は逃げるべきだと言っている。
だけど、感情は逃げてはダメだと言っている。
その二律背反。
(そもそも逃げなかったとして俺に出来ることはもう――)
何もない。
そう思った瞬間に一つの言葉が頭に蘇った。
『どうして、分離しているの?』
逃げようとしていた足が止まる。
視線が蛍火の方へと向く。
融合した意識でその視線を、俺の思考を感じ取った蛍火が首を横に振る。
(ダメ、です)
否定の意思。
(それだけは絶対にダメです)
視線の背後に向ける。
砂嵐のヴェールの向こう側で。
緋鞠が何か叫んでいる。
「逃げて!」
その言葉で逆に腹が決まった。
砂嵐に紛れて、俺は蛍火の方へと走る。
ミノタウロスの足元を抜けて、ビルの壁に埋め込まれた彼女の元へ。
「最後の賭けだ、蛍火」
ジェーンは言った。
本来俺達は一つだったと。
……本来の姿というのが、どんなものかは分からない。
それによってあのミノタウロスを倒せるような力が得られるのかも分からない。そもそも強くなるのかどうかさえ不明。
何が起こるか分からない。
そんな分の悪過ぎるギャンブル。
そこに一人賭けて破滅するなら自業自得だけど……俺はその破滅にもう一人付き合わせようとしている。
きっと。あの世があったとしても俺は地獄行きだろう。
「やめて、ください主様」
苦しそうな蛍火に、一瞬決心が鈍る。
どれだけ謝罪してもし足りない。
これからやろうとしている事は、もしかしたら彼女の死かもしれないのだから。
「すまない。こんな無茶に付き合わせて。だけど、あいつを倒すには、緋鞠を助けるには他に手がない」
「違いますっ」
血を吐くような表情で――事実唇から鮮血を零しながら蛍火は叫ぶ。
「主様が、居なくなってしまう……!」
「お前はっ……」
こんな状況でも主である俺の事を気遣っていた。
口汚く罵っても、おかしくないのに。
「それでも自分よりも優先すべきは緋鞠だ」
蛍火が己より俺を気にかけるように。
俺は何よりも緋鞠を守りたい。
「……ああそうか」
おかしくなってつい笑ってしまった。
こんな状況で漸く思い出した。
「俺は、自分の手で守りたかったのか」
何で探索者を選んだのか。
……三年前のあの日、自分の目の前で傷ついた緋鞠を見て。
ただ見ているだけだった自分が許せなくて。
もしも次があったら。
今度こそ自分の手で緋鞠を守れるようにと。
そんなあまりにシンプルで、根本的過ぎて目に入っていなかった。
「それに、融合したらお終いってのも想像だ。上手く行ったら何事もなく元に戻れるかもしれない」
強がりだと自分でも分かっている言葉を吐く。
数秒先の未来を考えれば足が震える。
自分が、数瞬先にはいなくなるかもしれないという事への恐怖はもちろんある。
「だから……頼むよ蛍火。俺を、生き地獄に叩き落さないでくれ」
それでも、緋鞠が死んで俺だけが生き残るという最低最悪の未来よりは余程マシだと。
俺はそう確信している。
俺の懇願に、蛍火が手を握り返してくる。
「……分かりました」
融合の深度を上げていく。
より深く。より密に。
概念的な所だけではなく物理的にも。
「私の全てを捧げて、主様を、お二人をお守りいたします」
彼女の誓いを受けて俺は。
「完全融合」
最後の一線を越えた。




