056縮まる距離
魔王エイユははっきり人相が変わった。獰猛な獣のごとく牙をむき出し、よだれを垂らして肘かけを掴みしめる。ポニーテールの髪の毛は逆立って、結っていた紐がプツリと切れると、黒い長髪が波打った。
女神シンセの名を知っているのは俺と広院の2人だけのはず。それを口にできたということは、こいつは今、魔神ワルイが表出してきているということになる。
これが倒すべき敵の首魁だというのに、今の俺には何をなす術もなかった。『音撃』は猿ぐつわで使えないし、両腕は背後できつく縛られている。せいぜい逃げようとして立ち上がったぐらいだ。だがそれも骸骨の召使いたちに阻まれ、すぐ断念せざるを得なくなる。俺は焦りに焦った。
ソーキンもただ、異常な雰囲気と赤い瞳を発現した主人の姿に呆然としている。彼も魔神ワルイが魔王に取り憑いているなどとは分からないらしい。
「魔王様。いかがなされましたか?」
恐々近づいた彼は、魔王の振るった腕に殴り飛ばされた。え? あのソーキンに、勇者2人の攻撃を軽々とかわしていたあいつに、打撃を当てた?
ソーキンは吹っ飛び、何体かの骸骨を巻き添えにしながら壁に叩きつけられた。苦痛に満ちた声を発する。
「ま、魔王様……?」
魔神ワルイはゆっくりと俺の元に近づいてくる。絶体絶命だ。どうすればいい? だが何も思いつかない。心臓がバクバクと動いて血行が詰まりそうだった。やばい。殺される……!
と、そのときだった。
壁の一角がぶち破られ、大小の岩とたいまつが宙を乱舞したのは。
「ヒロ!」
現れたのは、カイザ王子と勇者カレイドだった。彼らの背後から輝かしい東の日の光が差し込んでくる。それは不快な空気を一掃し、俺に活力を、敵たちに打撃を与えるようだった。
魔神が腕で目元をかばう。心底嫌そうに吠えた。
「おのれっ……」
ソーキン――幾星霜も昔に不老の薬を飲んだ、元魔王なのだろう――も、太陽光を嫌う。覇気のなくなる魔王に近づいて抱き寄せると、奥の扉から逃れ出た。
「おのれ、ソーキン!」
カイザが剣を振るう。衝撃波が何体もの骸骨たちをいっぺんに粉々とし、扉を直撃したが、すんでのところで捉えられなかったようだ。
「大丈夫だったかい、お嬢ちゃん」
カレイドが俺の猿ぐつわを外してくれた。両手首を縛っていた紐も切断してくれる。
「あ、ありがとう、カレイド様」
「ケルは?」
「牢に連れていかれました」
「よし、俺と取り戻しに行こうぜ。おうい、カイザ王子殿下! ここは深追いせず、まずは骸骨の魔物どもを全滅させちまってください」
「了解した」
俺は壁のたいまつを取ると、女武闘家ケルが連れ去られた入り口に走った。骸骨たちはこの城の従者兼護衛といった感じだが、動きは鈍く重たい。すぐに連行されるケルの元へ追いついた。
「ヒロ、カレイド!」
後ろ向きに引っ張られていたケルが、俺たちの姿を見て歓喜した。何事かと振り返る骸たちに、俺は今までためにためていた『音撃』を叩きつける。頭蓋骨が粉砕され、敵はバラバラに転がった。
カレイドがケルの拘束を解く。彼女は痛んでいたのか、両手首をさすりつつ頭を下げた。
「助けてくれて、ありがとう! あたい、嬉しい」
俺たちが広間に戻ると、カイザ王子はあらかた掃除していた。勇者が開けた大穴から外がのぞけている。朝日が昇ったということで、外に魔物の姿はなかった。断崖絶壁を掘り抜いて作られた城らしく、目の前は谷底まで続くささくれ立った岩壁だ。
俺は目の前に綱が二本ぶらさがっているのに気がついた。おっかなびっくり首だけ外に出して上を向く。綱は10メートルほど真上の崖っぷちから伸ばされたものだ。勇者2人はこれを伝うという危険を冒しながら、俺とケルを救出しに来てくれたのだ。まさに危機一髪だった。
しかし、どうして俺たちがここにいると分かったのだろう?
勇者2人は俺とケルそれぞれを自分にしがみつかせて、また綱を上っていった。頂は平らで、そこには仲間たちの姿があった。俺たちの帰還にイナーズやウーザイ、広院やシトメールたちが歓声を上げた。
そのとき俺は、走ってきた1人の冒険者にしがみつかれた。アクジョである。
「馬鹿、馬鹿馬鹿っ!」
彼女の勢いで、危うく俺は谷底に転落してしまうところだった。怒鳴りつけようかと一瞬思ったが、目の前のアクジョの顔を見てやめておいた。彼女は泣いていたのだ――それも号泣である。
「あなたがさらわれたと聞いて、私がどれだけ心配したか……! 『対等の従者』とか気取るなら、私をこんな気持ちにさせないでよ! うええぇんっ!」
俺に抱きつき、肩にあごを載せた。俺は彼女の後頭部を撫でながら、自分の心が温まるのを感じていた。最初はあれだけ遠かった2人の距離が、今や急速に縮まっている。
俺も腕を回し、アクジョを力強く抱き締めた。彼女は慟哭し続ける。抱擁はしばらくの間、アクジョが落ち着くまで続行した。
勇者カレイドの話では、カイザ王子は――ケルはともかく――俺がさらわれたことにひどく憤慨したという。邪魔な魔物たちを掃討し尽くすと、生き残ったメンバーたちと共に、ソーキンと俺の後を追ったらしい。まだ夜も明けていないというのに……
そうしてたどり着いたのがこの断崖絶壁の城だった。広院は予知能力があったらしく、魔王とソーキンが真下の空間にいると断言したそうだ。それでロープを張って、剣で壁を砕いてみたところ、ドンピシャだったというわけだ。




