誓約
雲ひとつない蒼穹の光を照り返して輝く、白亜のローゼンベルク城。
旧王家が使用していた君主の城前広場に集められる市民たちの足取りは重かった。
この日は、新しい総督となった皇女の就任式だ。
後回しにされていた式典を今更行うというだけでも印象は良くない。
しかも、その皇女は明らかに獣人である自分たちを見下している。
王族の生き残りを捕まえて、イヌのように扱っている場面を見た者も少なくはなかった。
何度か襲撃されて命を狙われたようだが、皇女は今も涼しい顔で城を歩いているという。
本国では「虎姫」などと呼ばれているらしく、これからも劣悪な圧政が敷かれることは間違いない。
迫害の過去を乗り越えて生き抜いてきた自分たちの歴史が蹂躙される様を、このまま見続けなければならないのか。
せっかく大国から独立したというのに、また強大な権力に虐げられて、屈しなければならないのか。
そのことを思うと、誰もが明日を憂うしかなかった。
もうすぐ、バルコニーから皇女が現れる。民衆たちは黙って、されど、何も期待せずに、そのときを待った。
† † † † † † †
もうすぐ、露台に出て演説をしなければならない。
人前で話すのは初めてではない。
しかし、胡蝶は顔を強張らせながら、そのときを待った。
露台に続く出入り口から涼しい風が舞い込み、絹の衣装を揺らす。
黒墨のように流れる髪に、真紅の着物がよく映える。
あまり露出の高いものを選んだつもりはないが、瑞穂の着物よりも開いた胸元が少し寒く感じた。
足元は踵の高い靴で飾られ、首や耳も美しい装飾具で彩られていた。
どれも旧王家の姫が身に着けていたものらしい。
瑞穂でも異国文化が流行し、このような着物を着る公家の娘が増えているが、胡蝶には無縁だと思っていた。
こんなことになるとは、数ヶ月前の自分は予想もしていなかった。
「大丈夫ですか?」
隣に立ったジルに問われて、胡蝶は気丈に振舞おうと唇を結ぶ。
しかし、胴を締めつける装具のせいで上手く息が出来ず、ぎこちない表情を作ってしまった。
「エウルの貴婦人は息をしないのか?」
「慣れれば大丈夫ですよ。僕はつけたことないから、知りませんけれど」
ジルは無責任に笑いながら、自分の上衣を整えた。
みすぼらしい奴隷の服ではなく、エウル王族の装い。
鮮やかな青い上衣の下から覗く刺繍入りの胴着や、首に巻かれた襟飾りは趣味が良く、何処からどう見ても王子のように見えた。
奴隷として買われ、イヌの扱いを受けていた面影など、露ほども感じられない。
これから、胡蝶はエウルの統治を変える。
虐げて従わせるのではなく、ある程度の自治を与えた政治を行うのだ。
産業なども活性化させ、将来的に独立出来るよう、帝国の領地内での地位を向上させる。
いずれ、胡蝶の手腕が帝に評価されれば、エウルの扱いについて進言する権限も持てる。
影連は相変わらず文句を言っているが、胡蝶の望みが実現するように尽くしてくれていた。
楓雅も統治が軌道に乗るまで、本国に口を挟まれないよう計らってくれているようだ。もっとも、元々口を出す気はなかったようだが。
もう胡蝶は子供ではない。
今なら、守りたいものを守ることが出来る。
最初は受け入れられないかもしれないが、少しずつ、努力していくつもりだ。
それが十年前に守れなかった、胡蝶の正義に対する答えだ。
「そう言えば、昼食は摂りましたか?」
「いや、この着物があまりにも苦しくて、ほとんど食べられなかった」
「いけませんね。頑張らないといけないのに」
「後で摂るから平気だ」
とは言え、やはり、空腹を感じずにはいられなかった。
慣れない着物のせいで、いつも以上に疲れているのは確かだ。
「どうぞ」
思案していると、ジルが胡蝶の目の前に箱を差し出す。
開けると、中に茶色の粒のようなものが並んでいた。
「チョコレートですよ。一粒で元気が出ます」
「……そう言えば、昔、母上に用意してもらったな」
胡蝶は何気なく、チョコレートの粒を手に取ろうとする。
だが、白い手袋をしていたことに気づき、動きを止めてしまう。これでは、真っ白い手袋を汚すだろう。
すると、ジルは自分の手袋を外し、並んだチョコレートを一粒手に取る。
「こうすれば、汚さずに食べられますよ」
一粒、胡蝶の口の前へと差し出した。
「こ、子供相手みたいな真似をするなっ」
「そんなつもりはありませんよ。合理的な方法だと思いませんか?」
チョコレートを差し出して笑うジル。明らかに楽しんでいる様子だ。胡蝶は顔を背けた。
だが、目の前のチョコレートが放つ甘い香りと、腹を支配する空腹に苛まれてしまう。
「コチョウ様は、素直ではないですね。昔となにも変わらない。口移しの方がいいですか?」
「な、なにをッ。そんなことを頼んだ覚えはないぞ!」
からかうジルを睨むと、目の前にチョコレートを見せられてしまう。
まるで、餌付けではないか。そう思ったが、甘くて香ばしい芳醇な匂いが胡蝶を誘っている。
「覚えていろよ」
胡蝶は気まずく思いながら、周囲を見回す。誰もいないことを確認して、ジルの指に摘ままれたチョコレートを口にした。
舌先に甘い香りと味が溶け、空腹だけではなく、心まで満たしてくれる。
「よく出来ましたね」
「黙れ」
満足そうな胡蝶を見て、ジルは嬉しげに笑う。
彼は胡蝶の肩をつかむと、ゆっくりと顔を引き寄せた。
「この間の続きをしても良いですか?」
「な……ッ。い、今か!?」
「今のコチョウ様がとても可愛いらしく見えたので」
楓雅みたいなことを言いながら、ジルが笑って顔を寄せる。耳朶をかすめる吐息が熱く、甘い響きをはらんでいた。
胡蝶は逃げようとするが、靴のせいで足が絡まって、転倒しそうになった。
ジルは、そんな胡蝶の腰を支え、完全に捕まえてしまった。
「あまり可愛いことをしないでください……また犬になってしまいそうなんですから」
「獣人は嬉しくなると化けるのか?」
「嬉しいというか、興奮したときに変わってしまう人は、結構多いですよ。怒ったり、悲しかったり、緊張したり……僕はコチョウ様に触ったときくらいしか、変わりませんけれど」
涼しげに努めているが、ジルの尻尾はこれ以上ないくらい嬉しそうに振られていた。
恐らく、彼の言う通り、気を抜くとこのまま犬になってしまうのだろう。
式典で一緒に出ていかなければならないのに、それは困る。
「今、犬になられたら困るんだが?」
「はい。だから、手短に済ませましょ?」
どうして、そうなるっ!
叫ぼうとした瞬間に、ジルが胡蝶の黒い髪を撫でる。
そして、額に軽く唇を押し当てて笑った。
「そ、それだけでいいのか……?」
てっきり、唇に口づけられるものと思っていた。
そんな視線を向けると、ジルは悪戯な表情を浮かべて胡蝶の顔を覗き込む。
「足りませんか?」
意地の悪い質問をされて、胡蝶は頬を紅潮させた。
しかし、ジルはそんな胡蝶の顎に指を添えて、そっと視線を持ち上げさせる。
「ご不満なら、いつものように命令してください。僕はあなたのイヌなんだから。命じてくだされば、命だって捨てますよ」
言いながら、ジルは首に巻いた襟飾りを少しだけ緩めてみせる。
そこには、黒い鉄の首輪がつけられていた。
「まだつけていたのか。外せと言っただろ。だいたい、命などと……もう奴隷ではないと言ったはずだ」
「だって、あなたから頂いたものですから。耳飾りは失くしてしまいましたし」
「それは……ッ」
胡蝶は頬を朱に染めながらジルを睨む。
耳飾りのことを言われると、正直、なにも言い返せない。
母の暗示で記憶を失っていたとはいえ、あまり良い思いのする出来事ではなかった。
胡蝶は喉の奥で低く唸り、頭を抱える。
だが、やがて、開き直ったように鼻を鳴らした。
「私の飼ったイヌは、とんだ不良だったようだな。こんなに性悪だとは思わなかった」
「飼い主に似たんですよ」
ジルは笑いながら、首輪が見えないように襟飾りを巻きなおす。
胡蝶は腑に落ちないままジルを睨みつけていたが、やがて、ぎこちなく口を開く。
「口づけの許可を……してやっても、いいぞ」
「許可ではなく、命令をください」
「調子に乗るな」
「僕は命令して欲しいんです。奴隷ではないんだから、少しくらいワガママを言ってもいいのでしょう?」
挑発的な笑みを浮かべながら、ジルは胡蝶の顔の間近へと迫る。
吐息が唇に当たり、すぐにでも触れてしまいそうな距離だ。
じれったい視線と声に、急かされている気分だ。
「性悪な奴め……く、口づけ……口づけ、しろ」
ぎこちなく命じると、ジルが満面の笑みを浮かべた。
「もう少し弄ってみたいですが、仕方ないですね……僕の方が我慢できそうにない」
「なにをグダグダ言って――」
刹那、言葉を遮る感触が落ちる。
無防備で小さな唇を覆うように噛みつく唇は、少し乾いていたように思う。
しかし、長い口づけを続けるうちに湿った吐息が漏れ、徐々に潤っていく。
まだ残っていたチョコレートの甘さが呼び覚まされるように舌先で溶ける。
ジルも同じ感覚を味わっているのだろうか?
恥ずかしく思える半面、何故か嬉しかった。
思った以上に長い口づけを終えると、城に供えられた礼拝堂の鐘が鳴り響いた。
式典のはじまる時間だ。
「じゃあ、頑張ってください。コチョウ様」
「い、言われなくとも、わかっている」
顔を真っ赤にしたまま放心していた胡蝶に、ジルが笑う。
胡蝶は慌てて我に返り、首を横に振って気持ちを切り替えようと努めた。
そして、彼女を待つ民衆の前へと、足を踏み出す。
「一つ、言い忘れたことがある」
「なんでしょう?」
胡蝶は後ろをついて歩くジルを振り返らずに、はっきりとした声で言った。
「ずっと、私の傍にいろ……イヌなんだから、出来るだろう?」
露台に姿を現した皇女を見て、民衆の多くが驚きの声を上げる。
エウルの着物を着た胡蝶を、誰もが意外そうに、そして、不思議そうに見据えていた。
「はい、コチョウ様」
誰にも聞こえていない声で誓った言葉。
雲ひとつない蒼穹が、白亜の城を、侵略を受けた都を、属州となってしまった国を、支配する国を、広大な大陸を、武官の皇女を、獣人の王子を……全てを等しく包むように広がる。
城の屋根から純白の鳩が一羽、大空を目指して飛び立った。
まるで、あらゆるものの歩みを祝福するかのように――。
最後までお付き合いありがとうございます。
小説家になろうをはじめて、初投稿。
ということで、短すぎず、長すぎない作品で様子を見てみました。
昔に個人で持ってたサイトに比べて、アクセス数が多いのですね。これで底辺層と言うのだから、感動を隠しきれません。とても恵まれた環境だと思います。充分すぎますね。
本作は公募に出した際、「今回は低評価だけど、官能的な部分が良いと思う」という選評でした。官能的……官能的……? モフモフは、エッチ!(たぶん違う
最後まで読んでくださった方、本当にありがとうございます。
他にも、いろいろ投稿したいと思いますので、どうかよろしくお願いします。