25話「限界」side箕面
伊原への個別指導を開始してから一週間が経った頃。
何度か走り方を指導するうちにわかったんだが、伊原はとにかく指示の理解が早い。
理解するだけじゃない。俺が教えた内容を翌日以降の動きにも取り入れているあたり、記憶力も良いらしい。
ただ、「正しいフォーム」というものを意識しすぎるきらいがある。そのせいか、彼の動きにはまだぎこちなさが残っており、改善の余地は多そうだ。
学校のグラウンドで、俺は伊原と並走しながら声をかけた。
「そろそろ休むかー」
そう促してみても、彼は走ったまま首を横に振る。
「っ大丈夫……まだ……」
激しく息を切らしながら答える伊原。それは強がりというより、本気でまだいけると思っている様子だった。
改めて伊原の走る姿を観察する。
確かに、息切れの割にフォームの崩れは少ない。加えてペースもあまり落ちていない。
……本人が「大丈夫」と言っているんだし、もう少し走らせてみるか。
しかし、伊原が突然ふらりと体勢を崩した。
「はあ……!」
「うおっ」
俺は咄嗟によろめく伊原の体を支えた。その上半身を抱き込むようにして、ゆっくりと足を止める。
「ほら! やっぱ無理してたじゃん」
「っはあ……うるさい」
なるほど。ギリギリになるまで平然としているのがこいつの特徴か……。覚えておこう。
あと、こんな場面を高月に見られたら理不尽に怒られそうだな。俺は思わず周囲を見回してしまう。よし、いないな。
「いったん休憩な」
そう言い渡すと、伊原はそっぽを向いたまま頷いた。
■
「お前、結構負けず嫌い?」
ベンチにて。ガシガシとタオルで自分の首元を拭いながら、俺は尋ねてみた。
「別に」
そう言いつつ、不服そうな顔で麦茶をあおる伊原に笑いそうになる。
「なんでもいいけどさー。自分の限界はちゃんと知っておいたほうがいいぞ」
月並みな忠告だとはわかっているが、こう言わずにはいられない。
伊原は麦茶を飲み干して一息つく。俺の話は聞いていたようで、一瞬こちらに視線をよこした。だけど、すぐにまた前を向いてしまう。
「……さっきのあれ、限界だったのかな」
そうポツリと零す伊原に、俺は思わず断言した。
「絶対そうだよ。自分で限界がわからないの、結構危ないぞ。周りが気付けたらいいけど、毎回そうもいかないし」
つい強めに言ってしまい、俺は「伊原の機嫌を損ねたか」と一瞬心配になる。しかし、彼の雰囲気は変わらず、どこかしおらしいままだ。
「当面の俺の課題だね」
伊原はそう言って自嘲気味に笑う。やがて捨てるつもりなのか、空のペットボトルを片手に立ち上がった。
「あのさ、伊原」
「何」
俺の声に伊原が振り返る。そこで俺は、前々から温めていた案を切り出してみることにした。
「今度さ。河川敷、一緒に走らねえ?」
この平坦なグラウンド以外での走り方も見てみたい。そんな思いで提案したものの、正直断られると踏んでいた。
だが、彼は。
「いいよ」
意外にも。
即答でOKしてくれた。
■
■
その週の金曜日。
俺は部活を終え、伊原と二人で河川敷沿いを歩いていた。夕焼けに染まるこの時間帯は、やけに自分達の影が目につく。
俺は隣を歩く伊原に話しかけた。
「俺さ、こうやって誰かと足並みそろえんの久しぶりなんだよな」
俺の言葉に反応したのか、伊原の視線がこちらを向く。聞いてくれていることを確信した俺は、そのまま話を続けた。
「個人競技なのもあって、走るときは周りの連中なんて見てなかった。だから他のヤツらがどれだけ必死に頑張ってるかとか、いちいち考えてなくてさ」
「……」
「でも頑張るヤツの隣で走るってのも、良いもんだなーって! ははは」
そう笑うと、伊原もつられたように口角を上げた。
「変な感想だね」
「そうかあ?」
夕焼けも相まってか、普段よりずっと軽やかな表情を見せる伊原に、俺は嬉しくなった。
……普段は誰かの顔色なんていちいち窺わない俺だけど、伊原の表情は見てて楽しいもんだな。高月が喜ぶのもわかる。……って言っても、俺のこの気持ちと高月のソレとはだいぶ性質が違うけど。
「じゃあ、あそこのコンビニ辺りまで走ってみるか!」
前方を指差して誘ってみると、伊原が「うん」と言って乗ってくれた。そして揃って駆け出す俺達。
気持ちがいいもんだ。
■
コンビニの手前まで走ったあと、「ついでにどうだ」と伊原を買い物に誘った。どうやら彼も買いたいものがあったようで、一緒に店へ入ることに。
店内に足を踏み入れた途端、冷気が一気に全身を包む。涼しさに俺は思わず目を細めた。ここがエデンか。
「湿布あるかな」
伊原は探し物をするように商品棚を見渡していた。
「筋肉痛か?」
「うん」
なるほど。まだ筋肉痛が続いているのか。
……本当、無理しがちだなあ。ちゃんと言ってくれりゃ全然フォローできるんだが……。まあ、言えたら苦労しないってわけで。
俺は俺で飲み物コーナーへ向かうことにする。だがその時、お茶売り場の前に見覚えのある後ろ姿を見つけた。
あれは……。
「高月!」
「あれ、箕面じゃん」
俺の声に振り返る高月。こんなところで出くわすのが珍しいからか、不思議そうに俺の顔をジロジロ見てくる。
「ジム帰りかー?」
「まあな。お前はなんでここにいるんだよ」
そう尋ねながら、高月は目当てのペットボトル茶を一本手に取る。
そして、俺が口を開く前に、湿布を見つけたらしい伊原が声をかけてきた。
「そっちは買うもの決まったの。箕面……あ」
驚いたのか、高月の姿を捉えた伊原が言葉を止める。
「いっ伊原?」
妙に上擦った声を出して、高月も伊原の方へ顔を向けた。……一応、ちゃんと説明しておくか。
「学校以外の所でも走り方見てやろうと思ってさ、ここまで一緒に来たんだよ。買い物はついで」
「へえ、よくやってんな」
高月はそれだけ言って、湿布を持つ伊原のそばまで歩み寄った。
「湿布買ったんだな。無茶してないだろうなー?」
わずかに高いトーンで話しかける高月。……案の定というか、急に元気になったな。
「別にしてない、と思う」
いやに歯切れの悪い口調で返す伊原。彼はチラリとこちらに視線をやって、「だよね?」と言わんばかりに目で同調を促してきた。
だけど、高月がその口振りに突っ込まないはずがなく。
「本当か? だってお前、限界になってもなかなか言わなそうじゃん」
「いや言うけど」
「でも……」
「いいって、大丈夫だから」
間髪入れずに伊原が言葉を遮った。その語気の強さから、うざったく感じているのが伝わる。これにはさすがの高月も食い下がることはせず、「いや、ならいい」と言ってレジへ向かった。
残った伊原に、俺が明るく声をかける。
「はは、高月って心配性だよなー」
「……まったく」
そう言って俺達は顔を見合わせる。やれやれといった風に俺が首を振ると、伊原も同じ仕草をした。
さて、俺もさっさと買い物を済ますか。
■
「高月が通うジムってこの近くだったんだなあ」
「あれ、言ってなかったっけ」
「おう、初耳だ」
狙ったわけじゃないが、あれから三人揃ってコンビニを出た。
駐輪場にて、高月が自転車の前カゴにバッグを詰め込み、出発の支度をしている。そんな中、俺達が立ち話をしていると、伊原が口を開いた。
「あんたが通うジムの雰囲気、見たいな」
「えぇ!?」
高月がひときわ大きな声を上げる。伊原の発言には俺も驚いたけど。
「そ、そんなに見たいか? 俺の……」
急にもじもじし出す高月。ものすごく嬉しそうだなー。
「嫌ならいいけど」
「いやいや! 見せます! 開示します!」
慌ててそう言い放つ高月に、伊原が「よかった」と満足げな笑みを浮かべていた。またこのコントかあ、とあくびが出るよ……。
「まあ見学だけならいいんじゃないか。いろんな競技に触れてみろ、伊原!」
そう言って俺は伊原の背中を叩いてしまった。
「いた……急に触んないで」
「わわ、すまん!」
そのやり取りを間近で見ていた高月が、怒った顔で噛み付いてきた。ですよねー。
「箕面。伊原は全身が敏感なんだからあんまり強く触ってやるなよ。もっとこう……」
「おい高月、言い方よ!」
生々しいだろ、と突っ込むと、高月は「何が?」と言わんばかりに首を傾げる。
そばで聞いていた伊原は、顔を赤くして眉間にしわを寄せている。
「っもう帰るよ、箕面」
「え、ああ。そうだなっ帰るか!」
帰るモードに切り替えたらしい伊原に、俺も合わせることに。そして俺達は、高月の行く先とは反対方向へ歩き始めた。
「あっ伊原! ジム見学のことはライヌで、な!」
自分も帰らねばと、慌てて自転車にまたがる高月が伊原に言う。
すると伊原は高月の方へ振り返り、こう返した。
「うん、動いてるあんた見たいし、じゃあね」
「っえ!?」
自転車で走り出した高月が、目を見開いてこちらを振り向く。
おーい、前を見て運転しろー。




