23話「邪心」side高月
はやる気持ちを抑え、俺は「その本」を抱えて彼の姿を探して回った。
とはいえ、店内は広くないから、しばらく歩けばすぐにその姿は見つかる。
……何やら分厚い洋書のようなものを持って、立ち読みしているようだ。読書家なんだろうけど、よくそんな難しそうなものが読めるな、なんて感想を抱いた。
俺は立ち読みにふける彼のところへ歩み寄る。
集中しているのか、こちらにはまだ気づいていないようだった。そんな彼の横顔に、俺はなぜか不満を覚えた。
本より、こっちを見ろよ。
「なあ」
そう声をかけ、俺は彼の視界に入るように顔を覗き込んだ。
「……っ」
予想通り。
彼は俺の顔に驚いたのか、小さく声を上げて一歩後ずさる。だけど、すぐに俺だと認識したようで、安心した様子でふうっと息を吐いた。
だが。
「!!」
彼の表情が固まった。
俺が胸元に抱えている本に気づいたのか、一瞬で頬が赤く染まる。そして、目をぎゅっと閉じて、持っていた洋書で顔を隠してしまった。
当時の俺にもわかる、あまりに初々しすぎる反応。
……俺は、その姿に胸を掻きむしられるような衝動を覚えた。さっき手を繋いだときに感じた「それ」とは少し違う、もっと苦しい衝動。
なんだこれ。苦しい。
……でも楽しい。
俺は、手元の本をわざと見えやすいように、彼の真正面に掲げる。口角が上がるのを止められない。
「へへ、すげえだろこれ」
「……っ」
彼は本で顔を覆ったまま、今度は体ごと背ける。
そのとき見えた耳元は、やっぱり赤くて。
なんだかおいしそうだ。
触ったら怒るかな。
……なんて考えていた、そのとき。
「こらこら、子供はそんなの見たらいかんよ」
その声に俺は振り返った。
いつの間にか背後に、男性店員が立っていた。ここで初めて姿を見た気がするな。ふくよかな白髪のおっちゃん、という印象だ。
「あ、すみませんっ」
声をかけられ、さっきまでの高ぶりが一気に鎮まるのを感じた俺。まるで脳が冷却されるようで、思考もクリアになってきた。
こんなもんで遊んでる場合じゃない!
早く棚に戻さないと……。
手元の本をどうすべきかとオロオロしていると、店員が手を差し出した。
「戻しておくから」
そう言って店員は俺から本を取り上げ、奥の方へ戻っていった。
■
気まずくて居づらくなったのか、その後、彼は手早く洋書を棚に押し込んで、さっさと店を出ていってしまった。俺も慌ててその背中についていく。
しまった!
居心地悪くさせてしまった!
……自分の行いを悔やみながら、俺は早足で歩く彼に追いつく。
「なあ、ごめん。嫌だったか……?」
「……」
彼は俺の声に反応することもなく、前を向いて道を進むだけ。顔を見れば、まだ熱が残っているようで、耳から頬にかけて赤みがあるのがわかる。
表情は怒っているのか困っているのかわからないけど、いい気分でいないことは明らかだ。
ばつの悪い気持ちでいっぱいになる俺。どうにか彼の機嫌を取りたいと、しばし思案する。
■
考え込んでいたらいつの間にか、商店街を抜けて駅前のバスロータリーまで来ていた。
複数のバスが時間差で出入りする光景を横目に、俺達は道の端っこで立ち止まった。
「……」
彼がそばの自販機を見ている。その様子はなんだか物欲しそうだ。
そうだ。
……機嫌を取るにはこれしかない!
「あっ、何か飲みたいなら俺がおごるよ!」
俺はすかさずそう言って、ポケットから財布を取り出す。
すると、彼は焦ったように片手を「いらない」と言わんばかりに左右に振る。
でも、本屋で居心地の悪い思いをさせた償いとして、これぐらいはさせてほしい。
「いや、さっき悪かったし」
そんな気持ちで彼を見つめると、彼は申し訳なさそうに小さく頷いた。申し訳ないのはこっちなんだよ……。
「何飲みたいか、指さして」
声が出にくいことを踏まえて、そう提案する。
すると、彼はおずおずと自販機のそばへ来て、「レモンジュース」を指さした。
「おっけい」
彼に頼られるのが嬉しい。
そんな充足感に浸りながら、俺は自販機のレモンジュースのボタンを押した。
ガコン、と排出される音がして、俺はしゃがみ込む。
そして、取り出したレモンジュースを素早く後ろにいる彼に差し出した。
「ほい」
「……」
彼は一瞬、ためらうように動きを止める。だけど、根気強くジュースを差し出したままでいると、ゆっくりと受け取ってくれた。
……嬉しそうだな。
「そこ、座ろうぜ」
そう言って俺は歩道脇にあるベンチを指さした。
彼は賛成してくれたようで、首を縦に振った。
■
「おいしい?」
「……」
彼は缶に口をつけたまま頷く。
「マジ。よかった」
飲むのを邪魔したら悪いと思いつつ、話しかけてしまう。そんな自分に呆れながらも、やめられなかった。
こうして静かに並んで座っていると、二人きりの時間というものを強く意識させられる気がした。
やがて飲み終わったのか、彼は空の缶を片手にキョロキョロし始める。ああ、捨てる場所か。
「貸して、俺が捨てる」
俺は立ち上がって、その空き缶に触れた。
彼は一瞬、空き缶を引っ込めようとしたが、俺の有無を言わせない様子が伝わったのか、少ししてから手渡してきた。
■
缶を捨て終えた俺は、再び彼の隣へ腰掛ける。
彼はようやく力が抜けたのか、ぼうっと空を見上げている。一休みといったところだ。
俺も同じように空を見てみる。
雲も多く、快晴とまではいかないが太陽は見えているな。……と、淡白な感想しか浮かばない。感想どころか、事実でしかないのだけど。
俺はもう一度、隣の彼に目を向ける。何やらスマホを両手でいじっている。その動きはどこかぎこちなく、端末の操作に不慣れなのがわかる。
何を見ているんだろう、と俺はその画面を覗き込む。
すると意外にも彼は嫌がらず、画面を見せるようにスマホをこちらへ向けた。
映っていたのは、たった今入力したと思われる文字だった。
【さっきはありがとうございました】
【僕は外では言葉が出にくいから、なかなか言えずにいました】
「あ……」
……それは、とても律儀で健気な内容だった。
ありがとう、なんて言葉はもういらないと思っていたのに。彼はそれを伝えていなかったことを、ずっと気にしていたのだ。
感謝のタイミングは遅めだったけど、俺にとっては、今までのどの「ありがとう」よりも心に響いた。
「お前さ、すげえ真面目というか、礼儀正しいな……」
くすぐったい気持ちになりながら、俺は微笑んで褒めた。
すると、また彼は頬を紅潮させて俯く。すぐ赤くなるあたり、褒められ慣れていないんだろうな、と推測してみる。
ふと。俺はその頬が近くにあることに気づいた。
「……」
ゾクリ、と背中がざわつく。
まただ。
……なんだろう、この気分。
すごくソワソワする。
内側から湧き上がる得体の知れない衝動が、手足を勝手に動かそうとする。
俺はその衝動に耐えきれず、彼の頬に……。
触れてみた。
「!!」
突然の接触に、彼はビクッと体を震わせ、反対側へ身を反らした。
困惑の色が、たちまち彼の瞳に宿る。
その瞳を見て俺は、また自分がしくじったのだと痛感した。
何をしているんだろう、俺は。
何がしたいんだろう。
……ああ、そうだ。また笑顔が見たいんだ。
どうか笑ってくれないだろうか。
その一心で、俺はまた彼の頬に触れる。
「っ?」
だけど彼は先ほどのように避けようとはせず、触れられたまま、じっと俺の様子をうかがっていた。
戸惑いと、わずかな怯えが顔に出ている。
笑わせたい。
けど……困らせたい。
相反する感情が頭をもたげてくるのを感じた俺は、その葛藤を紛らわすように……。
軽く頬をつねった。
「いっ」
嫌がるように顔を歪める彼。
……その顔を見て、俺は自分の呼吸が荒くなるのを感じた。
面白い、楽しい、たまらない。
ゾクゾクと黒い愉悦が背中を駆け巡る。
我慢できず、もう片方の手も彼の反対側の頬に伸ばす。
しかし、それはさすがに触れすぎだったようで、ぱしっと手ではたかれてしまった。
だけど、めげずに今度は力強く肩を掴んでやる。同時に、頬をつねっている方の手にも力が入った。
「っい、っう」
彼は痛みから逃れるためか、必死に顔を背けようとする。
ああ、さすがに可哀想だな。やめておくか。
俺は無言で頬をつねる手を離した。
……だけど、不完全燃焼なのか、まだ落ち着かない。
つねっていた手で、今度は肩を掴む。
これで俺は、彼の両肩を引っ掴む形になっている。
「……っ」
その感触に、また彼はビクつく。怯えのせいか、口元がわなないている。
ああ。
なんかお前、いい匂いがしそう。
おいしそう。
酩酊したような思考のまま。
俺は自分の顔を。
彼の顔へ、近づけ――
「いやだっ!」
彼の声とともに、パシン! と乾いた音が耳元で響いた。
瞬間。頬に鋭い熱が走る。
俺、今。ビンタされ……。
「あ、れ?」
反射的に、俺は自分の頬に手を当てた。
彼の方は、呆然と自分の右手を見つめている。
……それは、俺の頬を張った方の手だ。
「っ……!」
事態を受け入れられないのか、信じられないといった様子で俺と右手を交互に見ている彼。
ほら。俺!
こういうとき、何か言うことあるだろ!
「あ、あの――」
俺が言葉を発したのと同時に、彼は勢いよく立ち上がる。
そして一瞬、彼は息を詰まらせたような吐息を漏らして……。
こちらを見向きもせずに、ロータリーの方へ走っていった。
……。
俺は何も言えないまま、そこに一人座っていた。
張られた頬にもう一度触れてみると、なんだか濡れていることに気づいた。
「……っく、う」
俺が泣くんじゃねえよ!
泣きたかったのはあいつの方じゃん!
なんで俺は、あいつにあんなこと!
さっきの意地悪連中と同じじゃないか!
それに、俺は……。
謝ってすらいなかった!
こんな俺にはきっと、ヒーロー……いや、ヒーローごっこをする資格すらないんだろうな。
ああ、涙が止まらない。
俺は何もできず、じっとしたまま心の中で謝った。心の中じゃ意味がないんだろうけど、とにかく動けなかった。
遠くでカラスの鳴き声がした。馬鹿にされているように聞こえたけど、反論する気力はすでになかった。
■
■
あれから重い足取りのまま家に戻った。家といっても祖母の家だけど。
親や祖母は、帰宅した俺の顔を見るなり「何があったの!」と心配して駆け寄ってきた。あのキョウカですら、俺に気を遣っている様子だった。
だけど、それすら煩わしいと思うくらいに、そのときの俺は傷心していた……加害者なのに。
そして、話しかけてくるみんなを「なんでもない」とかわしつつ、俺用にあてがわれた部屋にしばらくこもることにした。
……しばらくどうか、休ませてほしい。
ちゃんと考えをまとめるから。
そんな重たい決意を胸に、俺は敷いてある布団に潜り込んだ。




