22話「純粋」side高月
肩掛けカバンをぎゅうっと両手で握りしめる彼。
そして、まるで生まれたての子鹿のように、足ががくがくと震えている。
……いつまでこいつは震えているのだろう。
何も喋らないし、こちらを見ようともしない。
悪い奴らには怒ってやったし、もう意地悪してこないだろう。
なのに、「ありがとう」も言えない様子だ。
……まあ「ありがとう」は無理に言わなくていいけど。俺はヒーローだから、感謝を求めないんだ。
さてと。
こういうとき、どうすればいいのか俺にはわかる。
「呪文とおまじない」の効果を試す、いい機会じゃないか!
俺は、まったく新しい実験に臨むかのような意気込みで彼と向き合った。
「……?」
やる気に満ちた俺の姿に不気味さを感じたのか、彼は目を丸くして俺の顔を見上げてくる。こいつ、背が低いなあ……なんて関係ないことが頭に浮かぶ。
まず、俺はカバンを握る彼の両手を取ってやる。そして、両手をひとまとめにして彼の胸元へ持っていった。
「……っ」
何をするつもりだ、とでも言いたげに彼は俺の顔を不安そうに見つめた。
一瞬、両手を引っ込めようと力を入れたようだが、「まあまあ」と言って俺はその手を引き戻した。
そして、両手を固定したまま俺は唱えた。
「えーと、落ち着いて。大丈夫。……えと……お前はそのままでいい……なんだっけか」
やばい。呪文なんだっけ。
ちゃんと思い出せない自分に歯噛みする。
この前までは一言一句、自信を持って覚えていたというのに。
本番だからか、緊張してしまうのがいけないようだ。
「は、はは……なんだっけ?」
苦笑いしつつ、俺は目の前の彼に尋ねる。こいつに聞いてもわかるわけないだろうに。馬鹿か、俺は。
だけど。
目の前の彼の表情からは、さっきまでのこわばりが消えていた。
怯えた様子はなくなり、代わりにキョトンと首を傾げている。
「……」
相変わらず言葉は出ないようだけど、その顔は雄弁にツッコミを入れていた。
――何を言っているの?
という感じに。
俺はいたたまれなくなり、勢いよく自分の両手を背後へ隠した。
「ごめん、なんでもねー! ははは」
恥ずかしさで顔に熱が集まるのを感じつつ、俺は必死に作り笑いを浮かべた。ああ、穴があったら入りたい。
だけど、目の前の彼にはすでにある変化が起きていた。
「……」
あれ。
震え、止まってるじゃん!
俺は全身を確認するために一歩引いた。
ずっとすくませていた足も、丸まっていた肩も、力が抜けたのか自然な状態に戻っている。
いまだにキョトン顔なのが気になるけど、絶対にこの呪文とおまじないが良い方向に作用したのだと確信した。
すげえよ、これ!
「よっしゃ!」と言って、両拳を一度高く突き上げ、力強く振り下ろす俺。おまけにダンッと足も踏み鳴らす。
「あいてて、太もも殴りすぎた〜」
俺は痛む太ももを手のひらでさすった。
……我ながら、どこまでも締まらないな。
だけど、そんなとき。
思いもよらぬ「声」が聞こえた。
「……ふ」
それは、か細く消えてしまいそうなほどの笑い声。
「え……」
俺は太ももをさするのをやめ、顔を上げてみる。
「……っふふ」
彼は俺を見て笑っていた。
口元に手を当て、控えめな仕草で笑っていた。
なんと、おまじないには笑顔にする効果もあったのか。
効果が発揮されたことは素直に嬉しい。
だけど、それ以上に今、俺の胸を満たしていたのは……。
聞いたこともないほど大きな心臓の鼓動だった。
どくどくとうるさい。
こんな音、聞かれたらやだな。
「お前ってさ。笑うと、その、なんか……いいな!」
高鳴る胸をごまかすように、ついそんなことを口走ってしまう。
「……?」
笑顔を引っ込め、キョトン顔に戻ってしまった彼に、俺は慌てて補足した。
「あ、いや! からかってるとかじゃないから!」
両手をフル活用し、身振り手振りで無害アピールをする俺。
「笑えてよかったなーって……」
「……」
「実験が成功したんだよ! さっき俺がやったやつ。親の見て真似してみた!」
しまいには間を持たせるべく、呪文のことまでべらべら話す始末。格好がつかないヒーローだ。
■
先ほどの心臓の鼓動が落ち着いた頃。
俺が「とにかく移動しようぜ」と提案してみると、彼は何も言わず静かに道を歩き始めた。俺もその隣についていく。
「お前さ、学校へ行くところだったのか?」
俺の問いに、彼は黙って首を横に振る。
「じゃ、お出かけ?」
前を向いたまま、こくりと彼は頷く。
……イエスかノーかでしかコミュニケーションが取れないのだろうか。そのため、自分ばかりが喋る形になってしまう。
でも俺にとっては、とても充実した会話ができているように思えた。言葉がなくとも、表情や仕草が教えてくれるから。
「なあ、俺もついてっていい?」
頭の後ろで両手を組んで、顔を覗き込んでみる。
その動きに合わせて、彼はふいと顔を背けてしまった。
「あ、ダメ?」
「……」
どうしようか考えていたのか、しばらく彼は無言で歩いていた。
そして、俺の方へ顔を向け、小さく頷いた。
■
「俺さ、ここらへんあんま知らなくってさ」
「……」
彼は俺を横目に見て頷く。
「じーちゃんのお葬式で、ちょっと泊まってるところ」
「……」
彼は真顔のまま前を向く。
「でもじーちゃん、俺よく知らねえんだよな。だからあんまり泣けなかったよ、ははは」
「……」
彼はうっすらと笑みを浮かべる。
……という具合に、一人で語っては隣の顔を確認することの繰り返し。
だけど、決して馬鹿らしいとは思わない。むしろ、相手の気持ちを探るゲームを楽しんでいる感覚に近い。
そうこうしているうちに、俺達は駅前の商店街に足を踏み入れた。
行き先もわからないまま誰かと一緒に歩くことが、こんなに面白いとは思わなかった。
ただ、商店街は人でごった返していて、ちょっと目を離せば、人混みに流されてはぐれてしまいそうな雰囲気だ。
少し前を歩く彼の背中が、見えたり見えなくなったり。
名前も連絡先も知らないから、はぐれたらもう一巻の終わりじゃん。俺は地元に帰るし、絶対にもう会えないじゃん。
こいつを見失いたくないなあ……。
小さな焦りを覚えた俺は、その小さな背中に片手を伸ばした。
「おーい、待ってくれー」
そう呼んでみると、彼は顔だけ振り返ってくれた。突然立ち止まるようなことはせず、歩くペースを落として俺の横に来てくれた。
そして、差し出していた俺の手に触れる。
「あっ」
彼は、俺の手の半分ほどを優しく包むように握ってくれた。
すると、さっきまで落ち着いていた胸の鼓動がまたうるさくなる。
……だけど、ここは人が多いから音は聞かれなさそうだ。そう安心してみても、緊張はなくならず。
「あー、あはは。こうすりゃ、いいな……」
空いている手でわざとらしく頭を掻く俺。人混みのせいかな。
なんだか急に暑くなってきたな。彼の手に汗とかつけたらやだな。
……と、ぐるぐる思考が巡る中、隣の彼も顔が少し赤くなっていることに気づいた。
だよな! やっぱこの辺り暑いよな!?
こう感じているのは自分だけじゃなかったようだ。
■
「本屋かあ」
「……」
そうそう、とでも言うように彼は明るい表情で俺に頷いた。
到着したのは、商店街の端の方にある、寂れた古本屋だった。
彼は、握っていた俺の手をゆっくり離す。
……なんだか指先に一気に冷たさが戻ったようだ。
彼についていくようにして中に入ると、強烈なインクの匂いがした。でも、不快な匂いではない。
「いらっしゃい〜」
……と。
姿は見えないまま、レジの奥から間延びしたおじさんの声が聞こえた。店員にしてはのんびりしてるな。
好奇心に駆られるまま、俺は店員が出てくるのも待たず、本棚の本をあれこれ物色してみることにした。
彼もここに来るのは慣れていないのか、まだキョロキョロと辺りを見回している。
まず、気になった背表紙を片っ端から触ってみた。すすけた本、小綺麗な本……カバーがついていない本など、様々な状態のものが並んでいた。
……古本屋なんて滅多に行かないから、何もかもが新鮮だな。
近くにいる彼も、目を輝かせて本棚を眺め回している。そんな姿を見ていると、なんだかむず痒い気持ちが芽生えた。
気を取り直して、俺は彼と別行動を取ることにする。
……漫画とかないかな。
■
本を引っ張り出しては中身を見て戻す。
……店員からすれば若干迷惑なんだろうけど、そのときの俺にはそんな気遣いがなかった。
やがて。
奥へ奥へと移動していくと、ジャンルが違うのか、棚に並ぶ本の雰囲気が変わっていた。
それらは雑誌みたいに薄い。なんだろうと思って一冊引っ張り出してみる。
「……っ!」
視界に飛び込んできたのは、全裸の女性の姿だった。くびれやバストを強調した、あられもないポーズを取っている。また、古い時代のものなのか、隠すべきところが隠れていない。
……こんなもん、なんで置いてるんだよ!!
と大声で叫びたかった。
見てはいけないものを見たと思い、慌てて本棚に戻そうとする。……だけど、棚が狭くて戻しづらい。
こんなの誰かに見られたら終わりだ、と焦ったが、ふと俺の中に「別の好奇心」が芽生えた。
……これ。
そこにいる彼に見せたら、どんな顔するかな。
興味持ってくれるのかな。
それとも、さっき以上に顔を赤くするのかな。
いずれにせよ、きっと面白いリアクションが返ってくるに違いない!
まるで悪魔の囁き。
だけど当時、俺はそれを悪魔だとは思わなかった。純粋に、面白がる気分でいたからだ。
俺は本を戻すのをやめ、その雑誌を見えないように胸元に抱える。
そして、彼のもとへ向かった。
ああ。反応が、楽しみだ。




