閑話「黒猫」
ゴロゴロ。ゴロゴロ。
スリスリ。スリスリ。
そんなオノマトペが表示されていそうな光景に、俺は顔が引き攣るのを抑えられない。
「どこから来たの、あんた」
静かな声で問いかける伊原。
だが、伊原の膝の上に鎮座する黒い塊は答えない。代わりとでもいうように、頭を伊原の手の甲にこすりつけている。
「人慣れすごいね」
そう言って、隣に座る俺に目を向ける伊原。
ずいぶんとまあ、憑き物が落ちたかのような軽やかな表情だな……。
「まあな」
それだけ返して、俺は購買で買ったウィンナーパンにさっさとかじりつく。伊原はすでに食べ終えたようで、両手が空いている。
たまには昼食を外で取ろうぜー、と伊原を誘ったのはいいんだ。
その際、伊原が「土室や箕面も誘おう」なんて言うものだから、「あいつらは別の奴と食うから」と伝えておいた。
嘘じゃないぞ。これはマジで。
そして俺たちは、購買で買ったパンを手に、中庭の日陰に設置されたベンチに並んで腰を下ろした。
二人で過ごすほうがお互い気楽だろう、と思ってこのようなシチュエーションを選んだわけだが……。
そんな俺たちのもとへ、一匹の黒猫がノコノコ現れたのだ。
で、伊原が柄にもなく「おいでおいで」と手を差し出すものだから、黒猫は図に乗って、その膝の上にぴょんと飛び乗った。
そして今、黒猫は伊原の膝の上をこれでもかというほど堪能している。
おいこら。伊原のシャツに毛がつくだろうが。ズボンは黒いから、まだ目立たないだろうけど。
……とは、さすがに口にしなかったが。
時折「みゃー」と鳴いて伊原に甘える猫の姿に、俺はだんだん辟易してきた。
……猫は嫌いじゃないんだけどさあ。
なんか、図々しいんだよ。こいつは。
モヤモヤしながらパンを平らげた俺に、伊原が話しかけてきた。
「猫、嫌いなの?」
首を傾げてそう尋ねる伊原は、どこかしょんぼりとした顔つきをしていた。
「いや、大好きだよ!?」
曇った伊原の表情を明るくしたい一心で、思わず声を張り上げる俺。
その声に、猫が一瞬動きを止めた。
「ならよかった」
どうやら安心したようで、伊原は再び黒猫に目を落とす。
……我が子を愛おしそうに見つめる母親のような姿だと思えば、まあ、悪くない光景なんだけどな。
いや、何考えてんだ俺。
黒猫は動きを止めたまま、やがてゆっくりとまぶたを下ろしていく。
こいつ、ここで寝る気じゃねーか!!
「……かわいい」
伊原はそう囁き、毛の流れに沿って猫の脇腹を撫でた。
……この猫、図々しいにも程があるだろうが。
増していく居心地の悪さに、俺はつい貧乏ゆすりを始めてしまう。
そんな俺の様子を見て、伊原は「自分も触りたいのか」と受け取ったらしい。
「触ってみる?」
などと聞いてきた。
「は!? 何を!」
「いや、猫だけど?」
「ああ……」
そりゃそうだ。馬鹿か俺は。
俺はウィンナーパンの包みをくしゃっと丸め、ポケットに突っ込んだ。
その音に反応した黒猫は、寝ぼけ眼のまま俺たちの顔を交互に見上げている。
伊原が黒猫の体の下に両腕を差し込み、ゆっくりと抱き上げた。
「えっ、えっ、抱っこすんの?」
「この子、抱っこ嫌がらないし。どう?」
伊原が黒猫を抱いたまま、こちらを見つめてくる。
この流れ、俺も抱っこする感じかあ。
……まあ、いいか。
「でも、首がまだ据わってない奴の抱き方なんて……」
「何言ってんだ、こいつ」
いつもの口調を崩し、ジト目でツッコむ伊原。
ああそうだ。猫だから関係ないよな。
伊原はそれはもう、ゆっくりと慎重に、黒猫を俺の腕へと渡してきた。
丁寧に受け取ると、腕の中にじんわりと温かさが広がっていく。
その瞬間、黒猫は一度ぱちりと目を開いたが、状況を理解したのか、またすぐに閉じてしまった。
うーん。こうして触れ合うと、かわいいもんだな。
俺の膝の上で寝息を立て始めた猫を見て、隣の伊原が小さく笑った。
「なんか、まだ赤ん坊に慣れない父親みたい」
「俺? そ、そうか」
どういう例えだ。
俺は思わず伊原の顔を見た。
……困ったように、控えめに笑っている。
その姿を見た途端、胸の奥がむずむずし始めた。
そして、急にこの黒猫への愛着まで増してきた気がする。
伊原が俺のすぐそばまで寄ってくる。そして、俺と同じように黒猫の顔を覗き込んだ。
顔が! 近いよ!
無駄に意識してしまい、俺は身動きが取れなくなっていた。
パーソナルスペースどこいった、伊原。
……これが猫パワーってやつなのか。
まあ。
なら、許すよ。
図々しい黒猫くん。
「みゃーう」
黒猫が、返事をするかのように鳴いた。




