17話「烈火」side伊原
もう、重力の言いなりになるしかなかった。
……足が痛い。
でも。
次は、きっと俺の頭と背中が痛くなる。床に打ちつけられるんだから。
まあ、自業自得かな。
黙って通報もせずに突っ込んだ俺が悪い。
……なぜ突っ込んだんだろう。
ドサリ、と鈍い音が店内に響く。
……。
……?
なんだか視界が真っ暗だな。
そして、俺を打ちつけるはずの固い衝撃は、いつまで経ってもやってこない。
代わりに、顔と背中の側面にやんわりと振動が走った程度。
その理由について考えるより先に、俺はデジャヴに襲われた。
息遣い。
重さ。
……温度。
覚えのある感触に、俺は目を見開いた。
高月。
高月!!
お前、また俺のクッションになって――
俺は慌てて高月の体から顔を上げる。
腕で背中を包まれてうまく動けなかったが、高月の顔が見たい一心で上体を思いっきり起こした。
「た、高月」
殴られたとき、口の端でも切ったのだろうか。血が滲んでいる。
……軽傷で済んでいることを願わずにはいられない。
だが。
その表情は、はっきり言ってよくわからないものだった。
無表情のようで、悲しそうにも見える。
悲しそうで、怒っているようにも見えた。
喜怒哀楽のどれにも当てはまらないような、そんな顔。
まさか、重大な怪我をしているんじゃ。
「高月!」
顔に手を伸ばそうとした。
だが、そんな俺の手を高月はやんわりと制した。
ああ、よかった。
意識はあるようだ。
しかし高月は顔に影を落としたまま、ゆっくりと転がすように俺を横へ寝かせる。
そして、そのまま俺の上に高月が覆いかぶさる体勢になった。上下が反転し、完全に押し倒されているということになる。
高月は俯いている。
表情がどんどん読めなくなってきた。
「な、にしてんの。あんた」
震える声で話しかけてみる。
どこを見ているんだ。
いや、何を考えている。
いつかのときとは違い、やがて高月は緩慢な動作で俺から身を起こした。
その後ろでは、「やべ、やりすぎたな」なんて呑気に振り返っている男たち。
高月は無言のまま立ち上がり、そいつらの元へ再び歩み寄った。
まさか。
「お前ら、今、何した」
……まるで空気に切れ目を入れるような、冷たく鋭い声。
決して声を張っているわけじゃない。なのに、耳に突き刺す冷徹な声。
こんな調子の話し方、初めて聞いた。
少し移動し、高月の顔が見える位置に留まる。
そして、俺は思わず身を震わせた。
だが、それは奴らも同じようで。
高月……?
「な、なんだよ。殴ったのは、わ、悪かったよ……」
腰が引けた様子で、男たちは「まあまあ」とでも言うように手を前で動かす。
「違う」
不正解だったようだ。
高月は口の端についた血を親指で勢いよく拭った。
そして、その血が男の一人の服に飛んだ。
「えっ」
それが合図だったかのように。
高月は勢いよく、血を拭った手で男の胸ぐらを掴んだ。
そのまま歩き、男の体を壁際まで押しつける。
「ぐっ、あっ」
「何する、てめえ!」
怒りが再燃したのか、もう一人の男が高月の背中に掴みかかろうとする。
まずい!
「おやめください! お客様!」
そばの店員も、さすがに声を荒らげている。
だが高月は振り返りもせず、胸ぐらを掴んでいないほうの手で、背後の男の手首を掴んだ。
そして、あらぬ方向へ曲げようと力を加えていく。
「いでででっ、何すん――」
「今さっき、お前らが何の過ちを犯したのか。正解を言えたら放してやるよ」
変わらぬ冷え切った声音で、そう告げる。
胸ぐらを掴まれている男は、抵抗するように高月の腕を両手で抱えていた。
「っく……こ、こいつの足踏んだこと、か……」
「遅ぇよ」
高月は舌打ちをして、男の胸元を解放した。
そのまま男は壁に背中を擦りつけながら、ずるずるとへたり込む。
後方で手首を掴まれている男は、まだ解放されそうにない。
そこで、箕面と土室の声がした。
「やめろ、高月!!」
いつも朗らかな彼らしくない、力強い怒号を飛ばして箕面がすっ飛んできた。
「警察呼んだから! 店員さんは下に降りて、ほかの従業員に知らせて!」
遅れてきた土室は、呆然としていた店員にそう促す。
店員は「はいっ」と返事をして、すぐに駆け下りていった。
なんだなんだと、ほかの部屋の客たちも不安げに顔を覗かせている。
この騒ぎで通路が塞がっているから、逃げることもできない。
「馬鹿野郎! その手首を放せ、高月!」
高月は箕面の怒声に応じることもなく、静かに佇んでいる。
箕面は、高月に捕まっている男の手首を解放しようと、そこへ手を伸ばした。
そのとき。
「警察です! 動かないでください!」
「そこの男の子、手を放しなさい!」
矢継ぎ早に指示が飛んできた。
それが耳に入ったのか、高月はようやく黙って、男の手首を解放した。
やっと正規のヒーローたちが到着したようだった。
■
■
白い天井。
白い部屋。
その中で、消毒液の匂いがやけに鼻につく。
病院のベッドに横たわっていた俺は、脇に置いてあるスマホを確認してみる。
……やはり。
高月からの通知はなかった。俺はため息をついて、画面を消す。
警察が来てから、いろんな人と話したな。
「怪我、大丈夫かい?」
「痛みますか?」
「お名前、いいですか?」
「病院行ってくださいね」
などなど。
はあ。疲れた。
もうしばらく警察の制服は見たくない。
もう何度目かわからないため息をついたところで、病室のドアが開いた。
静かな開閉音だ。
「こんにちは、伊原くん」
「きたぜー」
いつもの調子の声とともに、学校帰りらしい制服姿の土室と箕面が姿を現した。
そんな二人を見ながら、俺は起き上がる。
……二人とも、部活を休んでまでここに来たのか。
そう思い至り、罪悪感が胸を刺す。
……案の定、そこに高月の姿はなかった。
そのことにまた落胆して、俯く。
「ども。こんにちは」
目を伏せたまま、ベッドのそばへ駆け寄ってきた二人に挨拶する。
「足、どうかな」
土室はそう言って、鞄を床に置き、椅子に腰掛けた。
「打撲だって。骨は大丈夫」
「そっか。それはよかった」
続いて箕面も土室の隣に腰掛ける。
少し間を置いて、二人ともそれぞれ息を落ち着かせた。
……数日安静に、ってことになってるけど、正直退屈でしょうがなかった。
だから、こうして面会に来てくれる二人には感謝している。いい暇潰しになる。
やがて、土室が口を開いた。
静かな、だけどはっきりとした声で言う。
「気になってるみたいだから、先に言っておくね。……高月くんの行動については、補導で済んでる」
「……本当なの」
思わず土室の顔を見る。
その言葉を、より確かなものにしたくて聞き返した。
それに補足するように、箕面が答える。
「本当。まー、先に攻撃されたの、高月と伊原のほうだし? 防犯カメラにも証拠残ってるし、相手二人もほとんど怪我なかったし」
あの手首の掴み方で怪我なし……。
どういう技術なんだ、高月。
「高月くんのアレは、はっきり言って報復行為の域だった。いくら先に被害を受けていたからって、相手の怪我次第では、高月くんは……」
「土室」
土室の言葉を遮る箕面。
土室は慌てて口を噤んだ。
……知ってる。
高月のあれは、やりすぎだって。
そもそも、なんであの現場に突っ込んでいったんだよ。
ドリンクバーを取りに行ったっきり戻ってこないから、外に出てみたら、これだよ。
防音がしっかりしてるあの部屋に留まってたら、わかんなかったよ。
……高月が殴られてることなんて。
例の場面を思い出し、俺は拳を握った。
くそ。
忌々しい光景。
「……みんな、怖かったと思う」
土室が天井を見上げてつぶやいた。
女性店員も。
豹変した高月に凄まれる男たちも。
俺も。
土室も箕面も。
恐怖の出来事だった。
「でも、一番怖い思いをしたのは……」
きっと彼。
そう言葉を紡ぎ、土室は目を閉じた。
「にしても! 伊原のアレはファインプレーだったぞ」
さっきまで静かに座っていた箕面が、オーバーな動きで顔を上げる。
「アレって何だっけ」
俺は首を傾げて箕面に尋ねる。アレとは。
すると箕面は、普段とは違う落ち着いた笑みで言った。
「お前、高月を守ったんだよ」
「え……」
何のことだろう。
「伊原くん、警察に必死に説明してたよね」
土室が、俺に思い出させるように、
「警察と話したとき……ほら」
と見つめてくる。
『暴力行為は高月のほうじゃないです』
『先に高月が殴られたんです』
『高月は胸ぐらを掴んで威嚇したけど、殴る蹴るといった追撃はしていません』
『俺も男に足を踏まれました』
『そして倒れる俺を、彼は庇ってくれました』
『目撃者も複数います』
『ですから、高月を逮捕しないでください』
……ああ。
そんなこと言ってたような。
バタバタして忙しかったから、あんまり記憶に残ってなかった。
でもこれって、現場に居合わせた者として当然の責務だと思うのだけど。
もし俺が説明できない状態なら、店員あたりが代わりに伝えていただろうし。
なのに、これで「高月を守った」なんて大げさな。
「もっと正確に言えば……必死なお前の説明が、高月を正気に戻したってこと」
「え」
正気に戻った?
あのときに?
確かに俺は、警察とのやり取りに必死で、まったく高月の様子を見られていなかったが……。そんな変化があったとは。
「警察が来たとき、高月くんはまだ落ち着いてなかった。下手したら、また手が出かねないような危険な顔をしてた」
土室曰く、そんな危なっかしい高月が、俺の状況説明を聞いた途端、ハッとしたように表情を戻したという。
いや、俺の説明じゃなくても正気に戻ってたんじゃないか。なんて、思わなくもないけど。
……まあ、何はともあれ、高月を犯罪者にせずに済んだようだ。
そこは本当によかった。
「そういえば、高月って今どこにいるの? もう少年院?」
すると箕面が「ふはっ」と噴き出した。
「ないない! 言ったろ、補導だけって」
そう言って顔の前で手を横に振る箕面に、俺はようやく心から安堵した。
あの馬鹿。
次会ったら問い詰めてやる。
まず初めに通報しろよ、と。
反撃はやりすぎだ、と。
そして。
あの豹変は何だったんだ、と。
■
■
夏休みも、もう終わろうとしている頃。
俺は自室の机で、夏休みの課題がすべて完了していることを確認していた。
未だ慣れないタブレットを操作しながら、地道にチェックしていく。
……大丈夫そうだ。
あれから一度だけ、追加の事情聴取を受けるため、父と一緒に警察署へ行った。
だが、それっきりカラオケ店でのことは話題にならなくなった。
土室や箕面も、この事件についてはいっさい口にしなくなっている。
まるで最初からそんなこと起きていなかったみたいに、平然としていた。二人の高月イジりも健在だ。
だが正直なところ、俺はまだ気持ちが整っていない。
なぜなら、カラオケ以降、高月とは一度も会っていないからだ。
高月の様子がはっきりわからないだけに、モヤモヤする。
事件直後、俺は次の週の土曜日に「予定は空いてる」と送信したことを思い出した。
だが、「お互い怪我してるし、まず休もう」と追加でメッセージを送り、遊びはいったん見送りにした。
それに対して高月は、
【OK、ごめんな】
とだけ返してきた。
スマホの端に表示されている時計を見る。
……もう、二十時過ぎか。
どうしよう。
そろそろ電話ぐらい入れるべきか。
電話……個人的にすごく苦手な行為の一つだ。
対面で話すのとは勝手が違うから、無駄に緊張してしまう。
だけど。
その煩わしさ以上に、高月と話したいという気持ちが膨れ上がっているのも事実で。
俺は横に置いてあったスマホを手に取る。
そして電話帳の中から、高月の番号が書かれた項目をタップした。
それを恐る恐る耳に当てる。
……。
プルルルルルル。
……番号、合ってるよな?
……。
プルルルルルル。
……。
……。
おーい、早く出ろよ。
すると急に、端末から大きな声が飛び出してきた。
『っ伊原か! 悪い、トイレ行ってたわ! いやー、便秘でさ……』
慌ててスマホのところまで来たのだろうか。息が上がっている高月の声がした。便通の情報はものすごくいらない。
それにしても。
……なんか高月、元気そうだな?
「こんばんは……なんか、久しぶり」
こう、改まると少し気恥ずかしいな。だけど、きちんと挨拶はしなければ。
『ああ!! お前からかけてくるなんて珍しいな』
俺からの着信に喜ぶ高月に、また違和感を覚える。
「あのさ、あんたの怪我……」
『あっ、そうだ。お前、足大丈夫か!』
俺の言葉に被せるように声を張る高月。
「足はもう治った」
『そうかあ、よかった』
はあ、と安堵の息を吐く高月に、俺はいよいよ切り出した。
「触れられたくなかったらごめん。でも、聞きたくて。……顔の怪我はもう大丈夫?」
それに対して、高月が少し遠くで『あー……』なんて声を漏らす。
やっぱり、この話題は地雷か。
「ごめん、やっぱ答えなくても――」
『悪いけどさ。俺、その辺のこと、あんまり覚えてなくて……』
「え」
覚えてない?
どういうことだ。
高月は申し訳なさそうに続ける。
『カラオケのやつだろ? ハムと箕面からいろいろ聞いてる。俺、マジでやばかったらしいな』
そう他人事みたいに言ってのける高月に、俺はたまらず言葉を発した。
「覚えてないって……あんた、だいぶ無茶してたけど。馬鹿なの!」
こんな高月に言っても意味があるのかわからないけど、つい語気が強くなってしまう。
『ごめん……』
「覚えてないって何。あんた、ナンパ男にグーパン食らってたよ? その怪我は治ったの」
俺は机のマットに爪を立て、皺をつけた。
『うん。それは治った』
「……女性店員とナンパ男の間に割って入ったでしょ。それは覚えてるわけ?」
『うん。でも、そっから家に帰るまでの記憶が、ちょっと……』
……。
ストレスによる記憶障害なのか?
ケロッとしているのが腹立たしいものの、まあ、元気そうで何よりだ。
あまり深刻になりすぎては、こっちとしてもどう高月と関わればいいのかわからなくなるから。
「そう。まあ、いいや。遅いし、そろそろ切るよ」
そう切り上げて、スマホを耳から離した瞬間。
『っ伊原!』
高月の大きめの声がした。
何だよ、ともう一度スマホを耳へ戻す。
『……ありがとな。俺のために、いろいろ……』
……。
「……もういいよ」
じゃあね、と伝えれば、高月がふっと微笑む気配があった。
『じゃ、おやすみ』
そうして通話は終了した。
俺はスマホを置き、背もたれに身を預けた。
いつもの天井が視界に入る。
つけっぱなしのテレビを見れば、いつもの番組。
……。
電話の向こうにいたのは、いつもの高月だ。
いつもの、変な人。
いつもの、創作仲間。
俺を庇ったあとの「彼」は、果たして本当に高月だったのだろうか。
「彼」に体を包まれたとき、体温は確かにあった。
けど、雷の日の事故とはまったく違う……無機質な温度だった。およそ、人の体温という感じではなかった。
俺の感じ方に問題があったのかもしれないが。
だから。
もしまた、「彼」に会えるのなら尋ねたい。
お前は誰なんだ、と。




