第九話 カウント
「数える」ということは、ものごとを小さくすることだと思っていた。
一個、二個、三個。
一回、二回、三回。
一日、一週間、一か月。
数えられるものは、扱える。少なくとも、扱えるような顔をする。私は仕事で、毎日そうしていた。請求書の枚数。振込金額。申請件数。差し戻しの数。
なんでも数字にしてしまえば、それは誰かの苛立ちでも、焦りでも、無責任でもなく、ただの処理対象になる。
けれど、自分の手の動きはそうはいかなかった。
メモ帳には、日付と線が並んでいる。
一本。
空白。
二本。
一本。
三本。
空白。
五本。
はじめは律に、一日に触る回数を数えて、と言われたからだった。
それだけのことだった。
触らないようにするより、触ったことを数える方が簡単に思えた。禁止ではなく記録。命令ではなく観察。そう思えば、少しは楽だった。
耳に触れてしまっても、線を引けばいい。線を引くことで、その行為はどこかへ回収される。少なくとも、何もなかったことにはならない。
触らない。
数える。
眠る。
律の字は、カードの裏でまだ細く硬いままだった。
朝、洗面台の前で右耳を確認する。
触れる。
一本。
通勤電車の窓に自分の顔が映る。髪の隙間から透明なピアスが見えた気がする。
触れる。
二本。
職場でメールを読みながら、無意識に髪をかき上げる。指先が耳に当たる。
三本。
昼休み、一架と話している途中で、触れそうになって止める。
これは数えない。
触れていないから。
夕方、鹿島編集長の会食費申請について、再び確認の電話が入る。受話器を置いたあと、右耳を押さえる。
四本。
帰宅して、シャワーのあとに確認する。これは必要な確認だから数えない。けれど、確認のあとにもう一度触れた。
五本。
五本の線は、思ったより心に残り、思ったより黒かった。
メモ帳を閉じても、線が紙の内側で生きている気がした。
耳に触った回数を数えているだけなのに、自分が一日に何度壊れかけたかを数えているように見えた。
翌日は、触れなかった。
正確に言えば、触れなかったことにした。
朝、消毒のために触れた。髪を耳にかけたとき、指が少し当たった。昼休みに透明なピアスがずれていないか気になったが、触る前に止めた。夜、鏡の前で確認した。
触れてはいない。
見ただけだ。
メモ帳には、日付の横に何も引かなかった。
空白。
その白さを見ていると、胸の奥が落ち着かなくなった。
触れなかった日。
それはよい日のはずだった。
少なくとも、律ならそう言うかもしれない。言わないかもしれない。律は、よくなっている、という言葉を簡単には使わない気がした。
空白を見つめたまま、ペンを持っていた。
一本だけ引けば、安心できる。
触れたことにすればいい。
実際、朝に触れた。消毒のためとはいえ、皮膚に指は触れた。耳の裏に残った水を拭いたときも、少し当たった。だから一本くらい引いても嘘ではない。
日付の下に、小さく書いた。
【触れなかったことにする。】
書いてから、嫌な文だと思った。
以前書いた、触れなかった、ではない。
触れなかったことにする。
そこには、もう言い訳が含まれている。自分で自分の記録を疑っている。線を引かないことさえ、私はまっすぐにはできなかった。
翌朝、会社へ向かう電車の中で、右手を鞄の持ち手に絡ませていた。
耳へ行かないように。
そう思えば思うほど、耳は身体の中で大きくなる。普段は顔の横にある小さな器官にすぎないのに、触ってはいけないと思った瞬間、そこだけが膨らむ。熱を持っていなくても、痛くなくても、存在が濃くなる。
向かいの座席に座っている女性が、ワイヤレスイヤホンを外した。耳たぶに、小さな真珠のピアスがひとつ揺れている。
きれいだと思った。
きれいで、何も背負っていないように見えた。
もちろん、本当はどうなのかわからない。
誰の耳にも、何かしらの夜があるのかもしれない。けれど、外から見えるものはいつも乱暴だ。真珠は上品に見える。透明なピアスは隠しているように見える。たくさんの穴は何かを主張しているように見える。
見えるものは、見えないものを勝手に決める。
鞄の持ち手を強く握った。
会社では、朝から空気がざわついていた。編集部の大型企画の予算が一部変更になったらしい。廊下で人の声が行き交い、会議室の予約が何度も動き、経理部にも確認のメールが続けて入った。
それをひとつずつ処理した。
予算科目の変更。
外注先への支払い予定。
見積書の再提出依頼。
仮払金の精算。
会議費の上限確認。
仕事が忙しい日は、手がパソコンにかかりきりになるので、耳に触る回数が減る。
忙しすぎるのは好きではないが、それだけは良いことなのかもしれない。
昼前、一架からチャットが来た。
【また差し戻される気配がします。】
申請を開いた。一架の経費精算。書名の記載が抜けている。資料購入費としては不備だった。
【書名を追記してください。】
送ると、すぐ返事が来た。
【敗北です。】
画面を見て、少しだけ口元をゆるめた。
【軽傷です。】
返信してから、自分が「傷」という言葉を打ったことに気づいた。消そうとしたときには、もう送信されていた。
一架から返事が来る。
【軽傷なら救急車呼ばなくても大丈夫ですね。助かりました。】
助かります、は何気ない言葉だった。
職場のチャットでいくらでも使われる。ありがとうございます、助かります、確認します、承知しました。そこに本当の助けなど含まれていない。
それなのに、一架が使うと、ほんの少しだけ意味が残る気がした。
救急車が必要なのは、私なのだ。
午後になって、右耳が気になり始めた。
痛いわけではない。痒いわけでもない。ただ、そこにある。あることを思い出してしまうと、もう忘れられない。皮膚の下に、小さな灯りがついたようだった。
灯りというより、消し忘れた電気。
気づいたら消したくなるもの。
メモ帳は鞄の中に入れている。線を引くのは帰宅後でもいい。今は誰にも見えない。触っても、すぐに何かが起きるわけではない。
でも、触れば一本。
一本増える。
そのことが、指を止めた。
触る回数を数えると、触ることの重さが変わる。
何度も何度も繰り返していた曖昧な行為が、一本の線になる。線になれば、見ることができる。見ることができるものは、責めることができる。たくさんの線になれば、絵や文字が浮かび上がる。
私は、自分に責められている気がした。
触るなと言われたからではない。
触ったことを、自分で見てしまうから。
午後三時過ぎ、経理部のプリンターが紙詰まりを起こした。
三浦さんがカバーを開けて、奥の方に詰まった紙を取り出そうとしている。紙は中途半端に破れ、ローラーに細く巻きついていた。
「澪田さん、これ、どうしたらいいですか」
「電源落としました?」
「あ、まだです」
「先に落としてください」
三浦さんが慌てて電源を切る。私は手袋をつけ、カバーの奥に手を入れた。破れた紙の端をつまみ、ゆっくり引き出す。途中で切れないように、少しずつ。力を入れすぎると、もっと奥に残る。
紙は薄い。
けれど、変な場所に引っかかると業者を呼ばないといけなくなる。
慎重に破れた紙を取り出し、ゴミ箱へ捨てた。
「ありがとうございます。助かりました」
「いえ」
「澪田さん、こういうのも得意なんですね」
淡々とできるんですね。
そう言われた気がして、私は笑った。
「紙を取っただけです」
「いや、私すぐ焦るので」
「焦っても取れないので」
「たしかに」
三浦さんは笑って、自分の席に戻った。
手袋を外した。指先に、紙の乾いた感触が残っている。
手を洗いに行った。
洗面所の鏡の前で、髪を耳にかける。
透明なピアスは、ほとんど見えない。穴の周囲の赤みもない。何も問題はない。問題がないことを確認するために見た。
職場に戻る途中、廊下の窓に自分の姿が映った。
髪を耳にかけたままだった。透明なピアスは見えない。耳の輪郭だけが、ガラスの中で薄く浮かんでいる。
髪をかける動作は、触ったことになるのだろうか。
歩きながら、そのことを考えた。
ばかばかしいと思った。
けれど、ばかばかしいことほど頭から離れない。
数えると決めた瞬間、数え方を決めなければならなくなる。数え方を決めると、例外が生まれる。例外が増えると、記録は嘘に近づく。
触る回数を数えるだけのことが、いつの間にか一日全体に広がっていた。
耳に触れたか。
触れかけたか。
髪越しならどうか。
消毒はどうか。
洗ったあとならどうか。
鏡で見るだけならどうか。
触りたいと思っただけなら、どうか。
夕方になるころ、ひどく疲れていた。
仕事が忙しかったせいではない。耳に触らないことを、何度も考えたせいだった。何かをしないでいることが、これほど人を疲れさせるとは思わなかった。
終業後、一架が経理部の入口に顔を出した。
「澪田さん、今日、お疲れですか」
画面から顔を上げた。
「普通です」
「普通じゃなさそうです」
「普通です」
「二回言うと、怪しいです」
少しだけ息を吐いた。
「一架さんは、よく人を見ていますね」
一架は少し困ったように笑った。
「見てるつもりはないんですけど、見えちゃうときがあります」
「それは大変ですね」
「大変です」
一架は冗談のように言ったが、声の奥は少し真面目だった。
パソコンを閉じる準備をしながら、右耳がまた気になった。今、一架の前で触ったら、一架は気づくだろうか。気づいて、何か言うだろうか。言わないかもしれない。言わない方が、余計に気になるかもしれない。
「帰りますか」
一架が聞いた。
「はい」
「駅まで一緒に行ってもいいですか」
一瞬、断る理由を探したが、なかった。
「いいですよ」
ふたりで会社を出ると、外はすでに暗かった。風が冷たい。冬になる前の、まだ名前のつかない冷たさだった。街路樹の葉が少しずつ色を失っている。歩道には、濡れていないのに光っている場所があった。店の明かりが、アスファルトの細かな凹凸に入り込んでいる。
一架は、今日はあまり話さなかった。
その沈黙がありがたかった。けれど、ありがたいと思ってしまうと、今度は何か言わなければいけない気がする。その気持ちをやり過ごすために、鞄の持ち手を握った。
「澪田さん」
駅に近づいたころ、一架が言った。
「はい」
「数えるのって、楽になるときと、しんどくなるときがありますよね」
足を止めそうになった。
「何の話ですか」
「すみません。急に」
一架は少し笑った。
「今日、修正した申請の数を数えてたんです。三件でした。少ないはずなのに、三件も間違えたんだと思うと、ちょっとへこみました」
「最初なら普通です」
「また、普通って言いましたね」
「便利なので」
一架は笑った。
数えるのは楽になるときと、しんどくなるときがある。
一架はもちろん、私のメモ帳を知らない。耳に触った回数を線で残していることも知らない。それなのに、言葉だけが偶然、私の中の柔らかい場所に触れた。
「数字にすると、減ったのか増えたのかはわかります」
私は言った。
「でも、それがいいことなのか悪いことなのかは、数字だけだとわからないです」
一架は少し考えるように頷いた。
「たしかに。三件間違えた、なのか、三件で済んだ、なのか」
「そうです」
「澪田さんは、どっちだと思います?」
「三件直った、だと思います」
一架は目を丸くした。
「優しいですね」
「優しくはないです」
「じゃあ、仕事なので?」
思わず一架を見た。
一架は少しだけいたずらっぽい顔をしていた。
私は、笑わなかった。
でも、息が少し抜けた。
「そうです。仕事なので」
「便利ですね、それ」
「便利です」
駅の改札前で別れる。
「お疲れさまでした」
「お疲れさまでした」
一架は別の路線へ向かった。私はホームへ下りた。電車を待つ人たちが、無言で列を作っている。スマートフォンを見る人、イヤホンをつけている人、何も見ていない人。誰もが何かを持っていて、誰もそれを見せない。
私の耳も同じだと思った。
電車に乗り込み、ドアのそばに立った。車内の窓には、自分の顔が映っている。右耳は髪に隠れて見えない。
見えないのに、線だけが頭の中に増えていく。
一本。
いや、二本。
三本かもしれない。
家に帰ると、部屋は冷えていた。
コートを脱ぎ、手を洗い、メモ帳を開く。ペンを持ったまま、しばらく動けなかった。
数えることの難しさは、数が増えることではなかった。
増えるのは、痛み。
どこからが傷なのか。
どこからが我慢なのか。
どこからが普通ではないのか。
どこからが、助けてほしい、なのか。
誰も線を引いてくれない。
だから自分で引く。
自分で引いた線を見て、また苦しくなる。
日付の横に一本だけ線を引いた。
それから少し離して、もう一本引いた。
間を空けたのは、自分でも理由がわからなかった。ひとつは実際に触れた回数。もうひとつは、触れたいと思った回数のためかもしれない。あるいは、数え方を間違えた自分への罰かもしれない。
二本の線は、同じ長さではなかった。
その下に書いた。
【数え方がわからない。】
書いたあと、急に眠くなった。
疲れていた。
仕事ではなく、自分に。
シャワーを浴びる気力がなかった。顔だけを洗い、歯を磨き、ベッドに入る。枕カバーは少しだけ冷たかった。右耳を下にしないよう、仰向けになる。
電気を消しても、暗闇の中で耳がある。
触らなくても、耳には穴がある。
数えなくても、あって、見えなくても、ある。
それだけのことが、どうしてこんなに難しいのだろう。
スマートフォンが震えた。
一架からだった。
【三件直った、で今日は寝ます。】
その文を見て、しばらく何も打たなかった。
返信しなくてもいい。
けれど、指は動いた。
【それでいいと思います。】
すぐに既読がついた。
【澪田さんも、何か直った日だといいですね。】
画面を見つめた。
何か直った日。
直ったものなど、たぶん何もない。耳の赤みは引いた。申請は処理された。プリンターの紙詰まりは直った。けれど、私自身は何も直っていない。そもそも、何が壊れているのかもわからない。
でも、その言葉を否定するのは少し惜しかった。
返信せず、スマートフォンを伏せた。
触れたい。
触れたい。
触れたい。
思っただけなら、数えなくていい。
その決め方が正しいのかどうか、わからなかった。けれど、今夜はそれでいいことにした。
メモ帳には、二本の線と、数え方がわからない、という小さな文字が残っている。
目を閉じて、眠りに落ちる直前、ふと思った。
もし数えなければ、自分はもっと楽だったのだろうか。
数えなければ、もっと早く壊れていたのだろうか。
それとも、数えることは、とっくに壊れていることの確認なのだろうか。
答えは出なかった。
答えが出ないまま、数えた線は、一本ずつ静かに私の上に薄く積もった。




