第八話 二つ目の穴
大学の最初の春、私は母の台所から離れた。
実家から電車で一時間半ほどの町だった。遠すぎるわけではない。けれど毎日通うには少し遠く、母が急に来るには少し面倒な距離だった。
私はその曖昧な遠さが気に入っていた。
逃げたと言うには近すぎる。残ったと言うには遠すぎる。
そういう場所に、ひとまず自分を置いてみたかった。
部屋は、大学から歩いて十五分の古いアパートの二階にあった。
六畳の洋室。一口コンロの小さなキッチン。ユニットバス。ベランダの向こうには、隣のアパートの外階段が見える。駅からは少し離れていて、夜になると通りの音はほとんど届かなかった。
最初に部屋へ入ったとき、その静けさに少しだけ胸が軽くなった。
ここには、母の布巾がない。そう思った。
流しの横に、きちんと四つ折りにされた水色の布巾はない。父の皿も、使われなかった箸も、何度も磨かれた食器棚もない。冷蔵庫の中に、日付を書かれた保存容器が並ぶこともない。
何を置くか。何を捨てるか。
いつ電気を消すか。いつ洗い物をするか。
すべて自分で決められる。
自由だと思った。
けれど、その自由は思っていたよりも音がしなかった。
誰にも何も言われない部屋では、何をしてもしなくてもよかった。
夕食を抜いてもいい。皿を洗わずに寝てもいい。夜中まで電気をつけていてもいい。授業を休んでも、母にはわからない。
同時に、何をしても誰も気づかなかった。
最初の一週間、私は大学の新入生らしく振る舞った。
入学式に出て、配られた資料をファイルに入れた。学部のガイダンスで隣の席になった子と名前を交換した。履修登録のやり方を聞き、学食の場所を覚え、サークルの新歓チラシをいくつも受け取った。
キャンパスには、知らない人の声があふれていた。
どこから来たの?
何学部?
一人暮らし?
サークル決めた?
今日の新歓行く?
ライン交換しよう。
私はそれらに、ひとつずつ答えた。
県内です。
文学部です。
一人暮らしです。
まだ決めてません。
行けたら行きます。
はい。
答えられることばかりだった。
だから、会話は続いた。続いたけれど、残らなかった。
名前を交換した子たちは、次の日には別の輪の中にいた。新歓で隣に座った男子は、私のピアスに気づいて「高校から?」と聞いた。
頷くと、「へえ、意外」と言った。
その意外が何に対してなのか、私にはわからなかった。落ち着いて見えるのに、という意味かもしれない。真面目そうなのに、という意味かもしれない。あるいは、ただ何か言いたかっただけかもしれない。
私は気まずそうに笑った。なんとか笑うことはできた。
大学では、笑える人のところに人が集まる。大きく笑う人。すぐに笑う人。自分の失敗を笑いにできる人。相手の話にちゃんと反応できる人。
私はそのどれにもなれなかったが、少なくとも全く笑わない人間ではなかった。
落ち着いてるね、と何度か言われた。
大人っぽいね、とも言われた。
私は、その言葉を褒め言葉として受け取るふりをした。実際、相手は褒めていたのだと思う。けれど私には、そのたびに少しだけ距離を置かれているように感じられた。
大人っぽいね。落ち着いてるね。
そう言われると、自分が輪の中に入ったのではなく、輪の外側から静かに見ている人にされる。
見ているだけなら得意だった。
誰が誰に近づきたいのか。誰が話題の中心にいたいのか。誰が帰りたがっているのに帰れないのか。誰が気を遣っているのか。そういうものは、すぐにわかった。
ただ、自分がどこに立てばいいのかだけが、いつもわからなかった。
四月の終わり、同じ学科の数人に誘われて、居酒屋へ行った。
大学近くの細い路地にある店で、入口には赤い提灯が下がっていた。掘りごたつの席に十人ほどが詰めて座る。誰かが乾杯の音頭を取り、グラスがぶつかる。
梅酒のソーダ割りを少しだけ飲んだ。甘くて、炭酸が喉に残った。
会話は途切れなかった。
高校の話。受験の話。好きな音楽。アルバイトの面接。恋人がいるかどうか。地元の話。教授の癖。
まだ何も始まっていないのに、みんなもう何かを始めている顔をしていた。
「透子って、彼氏いそう」
向かいに座っていた子が言った。
「いないよ」
「え、意外」
また、意外。
「なんか、余裕ありそうなのに」
私は笑った。
「ないよ」
「ほんとに? なんか秘密ありそう」
秘密。
その言葉に、左耳に触れそうになった。
最初の穴。高校二年の夏。
白い石はもうつけていなかった。今は小さな銀色のピアスを通している。誰にでも見える場所にあるのに、誰も本当には見ていない。
「何もないよ」
私は言った。
その子は、ふうん、と言って、すぐ別の話に移った。
何もない。
そう言うのは簡単だった。
たぶん、ほとんど本当だった。
私には、語れるような秘密はなかった。小中高も特に何もなく過ぎた。父は死んだわけでもない。ただ家を出て、戻らなくなった。母は暴力を振るったわけでもない。食事を作り、洗濯をし、学費のことも手続きをしてくれた。私は学校へ行き、受験をし、大学に入った。
何もない。
そう言えば、たいていのことはそこに収まった。
飲み会の終わり、誰かが二軒目に行こうと言った。半分くらいの人間が賛成し、何人かは迷い、ひとりが終電を気にした。
私は帰ると言った。
「透子、帰るの?」
「うん、明日一限だから」
「真面目、えらい」
真面目。
最後に私はその言葉を鞄に入れて、駅へ向かった。
夜の駅は、思っていたより明るかった。ホームの白い照明が、線路の黒さを余計に深くしている。向かいのホームには、同じ飲み会にいた数人がいた。電車で二軒目へ向かうらしい。彼らは楽しそうに笑っていた。
ひとりの子が、私に気づいて大きく手を振った。
私も小さくひらひらと振り返した。
電車が来るまでの数分間、その人たちを見ていた。
さっきまで同じ席にいたのに、もう違う場所にいるように見えた。
楽しそう、という言葉では足りなかった。彼らは、そこにちゃんと引っかかっているように見えた。誰かの肩に手を置き、冗談を言い、笑い声の中に自分の声を混ぜている。
私は、自分の声がどこにも混ざっていないことに気づいた。
飲み会にいた。笑った。話した。
名前も呼ばれた。
それなのに、自分が本当にそこにいたのか、もうわからなくなっていた。
一人で電車に乗った。車内は空いていて、座席に座ることができた。窓には自分の顔が映っている。薄く赤くなった頬。少し乱れた髪。左耳の小さな銀色。どれも、誰かと同じ夜を過ごしてきた人の顔をしている。
でも、私の中は静かだった。
静かすぎて、耳が詰まるようだった。
部屋に戻ると、玄関の暗さがそのまま体にかぶさってきた。
電気をつける。鞄を置く。
コートを脱ぐ。
洗面台の前に立つ。
鏡の中の顔は、さっき窓に映っていた顔よりもずっと白かった。大学生の顔でも、新入生の顔でも、一人暮らしを始めた人の顔でもなかった。
誰のところにも帰っていないのに、ただ、帰ってきた人の顔だった。
スマートフォンを見ると、通知がいくつか来ていた。
飲み会のグループに写真が上がっている。
誰かが、今日はありがとう、と書いている。
誰かが、また行こう、と返している。
スタンプが続く。
写真の中に、私も写っていた。
端の方で、小さく笑っている。
ちゃんとそこにいた。
いたはずなのに、写真の中の自分は、すでに他人のようだった。周囲の光に薄く照らされ、グラスを持ち、笑っている。何も問題がないように見える。
見えるということは、そういうことになるのかもしれない。
スマートフォンを伏せた。
部屋の中は、まだ新しかった。母が買ったカーテン。量販店で選んだベッド。段ボールから出したばかりの食器。百円ショップで買ったコップ。どれも私のもののはずなのに、まだ私の匂いがしない。
自由な部屋。
誰にも何も言われない部屋。
その真ん中で、急に、自分の輪郭が薄くなっていくような気がした。
誰かに嫌われたわけではない。
無視されたわけでもない。
傷つけられたわけでもない。
ただ、どこにも残らなかった。
それが怖かった。
机の引き出しを開けた。
そこには、母が持たせた裁縫セット、保証書、予備の電池、使っていない封筒、古いアクセサリーの箱が入っていた。高校のころから持ってきた箱だった。中には、片方だけになったピアスや、外した白い石のピアスが入っている。
最初の穴は、まだ塞がっていない。
左耳に触れた。小さな硬さがある。
皮膚の中に、あの夏の夜が丸まって残っている。母の台所。父の傘。食器棚の上の白さ。
それらはもう、遠い。
遠いのに、消えない。
では、今日の夜はどうなるのだろう。
この飲み会も、駅のホームも、写真の中の笑った顔も、明日には誰の中にも残らない。私の中にさえ、うまく残らないかもしれない。
何も起きていない夜は、何もなかったことになる。何もなかったことになった夜が積もっていくと、自分まで少しずつ薄くなる。
洗面所へ行き、鏡の前に立つ。
左耳には、最初の穴。
右耳には、まだ何もない。
何もない耳。
母から産まれたときのままの耳。何も知らないふりをしている耳。
右耳の耳たぶに触れた。柔らかい。そこにはまだ、何の記憶もない。何もない場所に触れると、少しだけ息が苦しくなった。
何もないことが、こんなにも頼りないとは思わなかった。
泣きたいわけではなかった。
悲しい、という言葉とも少し違った。寂しいと言えば近いのかもしれない。でも、誰かに会いたいわけではない。電話をかけたいわけでもない。飲み会に戻りたいわけでもない。母の台所に帰りたいわけでもない。
ただ、自分がここにいることを、自分で確かめたかった。
それだけだった。
おもむろに消毒液と、ニードルを出した。
洗面台の白い陶器の上に、小さな影が落ちる。高校の夜と似ていると思った。けれど、あのとき隣の部屋には母の気配があった。水の音があり、食器の音があり、扉の向こうに誰かがいた。
今は、誰もいない。
その違いが、かえって私を落ち着かせた。
誰にも見つからない。
誰にも止められない。
誰にも聞かれない。
自由とは、そういうことでもあった。
ゆっくりと、鏡を見ながらニードルを進める。
耳に短い熱が走った。
最初のときより、痛みを予想できた分だけ、驚きは少なかった。けれど、痛みはやはり正確だった。さっきまで膜のように広がっていた不安が、ひとつの点に集まる。
痛い。
そう思える場所ができる。
血は、ほんの少しだけ出た。
ティッシュで押さえたら、赤い点がつく。小さくて、頼りない赤だった。けれど、その赤を見た瞬間、少しだけ息を吐いた。
自分の中にも、赤いものが流れている。
そんな当たり前のことを、確かめたかったのかもしれない。
右耳に、小さな銀色のピアスを通した。
これで、左右にひとつずつ。
鏡の中の自分は、さっきより少しだけ均等になっていた。右と左。過去と現在。家と部屋。母の台所と、誰もいない洗面所。
何かが釣り合ったわけではない。
けれど、何もなかった場所に、ひとつ点が打たれた。
それだけで、その夜は消えずに済む気がした。
翌朝、右耳は少しだけ腫れていた。
目覚ましより早く起きた私は、ベッドの中で耳に触れた。熱い。昨日の夜が、まだそこに残っている。カーテンの隙間から、朝の光が細く入っていた。
大学へ行く支度をしなければならない。シャワーを浴び、服を選び、教室へ行き、誰かと挨拶をし、昨日の飲み会の話をするかもしれない。
昨夜の写真を見た人が言うかもしれない。
楽しかったね。
私はきっと頷く。楽しかったね、と。
それは嘘ではない。
全部ではないだけだ。
大学へ行くと、同じ学科の子が私の右耳に気づいた。
「あれ、増えてる」
「うん」
「昨日開けたの?」
「うん」
「急に?」
「なんとなく」
その子は、へえ、と言って笑った。
「透子って、やっぱり意外と大胆だよね」
またその言葉だった。意外。
私は笑った。
「そうかな」
「そうだよ。見た目おとなしいのに」
見た目は。
右耳に触れたかったが、触らなかった。少し腫れているし、触ると痛い。痛いとわかっている場所を人前で触るのは、何かを見せてしまう気がした。
講義が始まると、ノートを開いた。
教授の声が教室の前から響く。文学とは何か、言葉とは何か、物語とは何か。そういう話だった。ペンを持ち、板書を写した。黒い文字が白いページに並ぶ。
意味はあとから考えればいい。期末試験の前でもいいかもしれない。
今はただ、聞いているふりをし、書いているふりをすればよかった。
右耳の痛みは、授業中ずっと続いた。
その痛みだけが、私を現在に留めていた。
昼休み、飲み会の写真がまたグループに上がった。昨夜の二軒目の写真だった。私は写っていない。写っていない写真の中で、みんなはさらに近くなっていた。肩を寄せ、変な顔をし、誰かの眼鏡を借りて笑っている。
それを見て、何も思わないようにした。
思わないようにするのは、思うことより疲れる。
スマートフォンを閉じ、右耳に触れた。今度は人のいない階段の踊り場だった。指先に熱がある。
痛い。
痛いから、そこに戻れる。
その日、何度も右耳に触れた。
授業の合間。学食の列。図書館の机。帰りの電車。部屋の鍵を開ける前。
触れるたび、そこにまだ夜が残っていることを確認した。昨日の飲み会ではなく、駅のホームでもなく、写真の中の自分でもなく、誰にも知られない洗面所の夜。
その夜だけは、私のものだった。
数日後、母から電話があった。
一人暮らしを始めてから、母は週に一度くらい電話をかけてきた。用件はいつも生活のことだった。ちゃんと食べているか。鍵をかけているか。変な人についていっていないか。洗濯物をためていないか。授業には出ているか。
「出てる」
私は答えた。
「本当に?」
「出てるよ」
「ならいいけど」
母の声の向こうで、食器が重なる音がした。
台所にいるのだと思った。
「自炊してる?」
「少し」
「ちゃんと野菜も食べなさいよ」
「うん」
「お金、足りてる?」
「足りてる」
「困ったら言いなさい」
「うん」
母は少し黙った。
何か言いかけている気配がした。私は右耳に触れた。母には見えない。電話だから。右耳に新しい穴があいたことも、その穴が少し腫れていることも、母には見えない。
「大学、楽しい?」
母が聞いた。
一瞬、返事に詰まった。
楽しくないわけではない。飲み会もあった。話す人もいる。講義もつまらなくはない。部屋もある。母の台所から離れた。誰にも怒られない。誰にも説明しなくていい。
けれど、それを楽しいと呼ぶと、何かを置き去りにする気がした。
「普通」
私は答えた。
「そう」
母は言った。
「ならいいけど」
電話はすぐに終わった。
通話が切れたあと、スマートフォンを膝の上に置いた。部屋の中は静かだった。母の台所の音はもう聞こえない。けれど耳の奥にだけ、水の音が残っている気がした。
普通とは、何も説明しなくて済む言葉だった。
そして、何も伝わらない言葉だった。
右耳が疼いた。
二つ目の穴は、まだ新しかった。新しい傷は、触れるたびに律儀に痛む。痛むことで、私に返事をしてくれる。
大学生活は、その後も続いた。
授業に出て、レポートを書き、アルバイトを探し、新しい知り合いが増え、何人かとは少しだけ親しくなった。私は笑い、相槌を打ち、たまに誘われれば出かけた。誰かに嫌われることもなく、大きな失敗もなく、一年目の春は夏へ向かっていった。
二つ目の穴は、数か月でやがて落ち着いた。
熱は引き、赤みも消え、触っても強く痛むことはなくなった。小さな銀色は、右耳の中で当たり前の顔をするようになった。誰もそれを新しいとは言わなくなり、私自身も、いつ開けたのかを話す機会はなくなった。
でも、穴はそこにあった。
何もなかった夜に、点を打った場所として。
誰の記憶にも残らないかもしれない自分を、自分だけが少しだけ引き留めた場所として。
その意味は、誰にも言わなかった。
言葉にすると、たぶん軽くなる。あるいは、重くなりすぎる。
だから私は、二つ目の穴についても、聞かれればこう答えた。
「なんとなく」
なんとなく。
それも便利な言葉だった。
便利な言葉は、たいてい少し乱暴だ。
けれどその乱暴さに守られる夜もある。
二つ目の穴は、私にとって、そういう穴だった。
自由になったから開けたのではない。
自由になったはずの部屋で、自分がどこにも残らないことが怖くなったから開けたのだ。
その違いを、私は長いあいだ、誰にも説明してこなかった。




