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夜を飼う耳  作者: みたらしわんこ
第二部 膿む

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第七話 差し戻し

 差し戻し、という言葉には、どこか郵便物に似た響きがある。

 宛先が違う。切手が足りない。必要な紙が入っていない。だから、届くはずだったものが、元の場所へ戻される。戻されたものは、もう一度封をされ、もう一度出される。運がよければ次は届く。運が悪ければ、また戻ってくる。


 私の仕事の半分は、何かを差し戻すことだった。

 添付資料が足りない。承認印がない。金額が違う。勘定科目が違う。申請期限を過ぎている。領収書の日付が読めない。宛名が会社名ではなく個人名になっている。会議費にするには人数の記載がない。資料購入費にするには書名がない。

 どれも小さな間違いだった。小さいからこそ、見逃されやすい。

 小さいからこそ、誰かが拾わなければならない。


 その朝、私の受信箱には、経費申請の通知が二十六件入っていた。月末に近い木曜日だった。編集部の人間たちは、いつも締切の直前になると急にお金のことを思い出す。

 鞄の底に沈んでいた領収書。

 ノートに挟んでいたレシート。

 財布の小銭入れに折りたたんで入れていたタクシー代。

 そういうものが一斉に経理へ流れてくる。

 一件ずつ開いた。

 確認する。承認する。差し戻す。

 次も、確認する。承認する。差し戻す。


 単純な動作のようでいて、そのたびに小さな判断がいる。人は、自分が間違えたものを返されると、少しだけ傷つく。傷ついたことを隠すために、冗談を言う人もいる。怒る人もいる。申し訳なさそうにする人もいる。既読のまま黙る人もいる。

 私は、誰かを傷つけないためではなく、傷つけたことに巻き込まれないために、文面を整える。

 

 【お疲れさまです。以下の点につきまして、ご確認をお願いいたします。

  お手数ですが、修正のうえ再申請をお願いいたします。】


 同じ言葉を何度も使う。

 同じ言葉なのに、送る相手によって重みが違う。

 なんだか魔法みたい、といえば可愛いが、中身は不満の塊である。

 

 【また差し戻されました。泣きそうです。】


 十時過ぎ、編集部の水野さんからチャットが来た。

 申請内容を開いた。タクシー代の領収書に、利用目的が書かれていない。規程上、必要な項目だった。


 【利用目的の記載が必要です。】


 そう返信すると、すぐに返事が来た。


 【急いでるので、許してもらえませんか。】


 許す、という言葉が画面の上で軽く光っていた。

 しばらくその文字を見た。

 許すとか、許さないとかではない。会社の規程だ。必要なものがないから戻す。それだけのこと。

 けれど、相手はそこへ感情を入れてくる。許してください。勘弁してください。そこをなんとか。澪田さんならできますよね。

 できる、という言葉も嫌いだった。

 できるかどうかではなく、していいかどうかの話なのに。

 返信を打った。


 【規程上、利用目的の記載が必要です。お手数ですが追記をお願いいたします。】


 送信。

 数秒後、既読がついた。返事はなかった。

 返事がないことに、少しだけほっとした。言葉が続くほど、仕事ではないものが混ざる。混ざったものを濾し取るのは、いつも私の方だった。


 右耳は、かなり落ち着いていた。

 透明なピアスのまま数日が経っている。赤みは引き、熱もほとんどない。触りたい衝動は、消えたわけではない。けれど最近は、触れる前に一度だけ止まれるようになっていた。

 メモ帳には、日付と短い線が並んでいる。

 触れなかった。

 一回。

 二回。

 触れなかった。

 一回。

 規則性はない。よくなっているのか、悪くなっているのかもわからない。ただ、自分の手の動きが紙の上に残るようになった。

 それは少し不気味で、少しだけ便利だった。


 昼前、一架が経理部の入口に立っていた。


「澪田さん」

「はい」

「また勝てませんでした」


 PCの画面を見る。早瀬一架の申請が一件、差し戻しになっていた。確認すると、領収書の画像が横向きに添付されているだけだった。内容は合っている。私のミスだ。


「ごめんなさい、画像の向きだけでした。内容はあっているので承認します。一架さんの勝ちです」

「向き」

「はい。次回は、読みやすい向きで添付してもらえると助かります」


 一架は自分の額に手を当てた。


「読む人が首を傾けなくて済むので」

「それはたしかに」


 一架は小さく笑った。

 差し戻しを取り消して、一架を見て承認した。

 一架は少し目を丸くした。


「そんなこともできるんですか」

「まぁ、本当は、あまりよくないですね」


 そう言うと、一架は小さく拳を握った。

 その様子が少し子どもっぽくて、笑いそうになった。笑わなかった。けれど、口元がゆるむのは止められなかった。

 そのとき、背後から声がした。


「澪田さん、早瀬さんには優しいんですね」


 水野さんだった。

 片手にマグカップを持ち、入口の横に立っている。冗談の顔だった。職場でよく見る、何も起きていないことにするための笑い方。

 体の奥がわずかに固くなるのを感じた。


「内容に不備がなかったので」

「いやいや、僕のも優しくしてくださいよ」

「必要事項が不足していました」

「固いなあ」


 その笑いに悪意はなかった。たぶん、本当に少し冗談を言っただけだった。経理部の空気を和ませたつもりかもしれない。

 けれど私には、その言葉が細い糸のように耳へ絡んだ。

 早瀬さんには優しい。固い。淡々としている。厳しい。融通が利かない。正しいけど冷たい。

 そういう言葉は、はっきり言われなくても、長く同じ場所に置かれていると匂いでわかる。経理部の机の引き出しの奥に、何年も前の書類が薄く紙の匂いを出しているように。

 一架が言った。


「私のは本当に向きだけだったので」

「ああ、そうなんだ。ごめんごめん」


 水野さんは、軽く手を振って出ていった。

 ごめん、の軽さが、しばらく空気の中に残った。


「今の、すみません」

「一架さんが謝ることじゃないです」

「でも」

「大丈夫です」


 言ってから、しまったと思った。

 大丈夫。

 その言葉は、口から出るのが早すぎる。考えるより先に出る。自動返信のように。

 一架は何か言いかけて、やめた。


「じゃあ、また間違えたら来ます」

「間違えないでください」

「努力します」


 一架は少しだけ笑って、編集部へ戻っていった。

 画面に向き直る。

 申請はまだ十件以上残っていた。

 確認する。承認する。差し戻す。

 指は動く。目も動く。必要な判断もできる。

 だから、誰にもわからない。


 昼休みになっても、しばらく席を立てなかった。水野さんの申請は修正され、再提出されていた。利用目的の欄には、著者打ち合わせ後、終電逃しのためと書かれている。領収書の日付は、先週の金曜日。金額は三千六百四十円。

 承認した。

 それで終わりだった。

 終わりのはずだった。

 けれど、画面を閉じても、固いなあ、という声だけが残っていた。

 固いものは、折れる。

 柔らかいものは、形を変える。

 では、自分はどちらなのだろう。


 鞄から財布を取り出し、コンビニへ行った。今日はおにぎりではなく、サンドイッチを買った。

 理由はなかった。

 一架がいつもサンドイッチを食べているから、というわけではない。

 そう思いたかった。


 会社へ戻る途中、古いビルのガラスに自分の姿が映った。

 髪で耳はほとんど隠れている。透明なピアスは見えない。

 見えないのに、ある。

 一瞬だけ足を止めた。

 自分が何を隠しているのか、最近よくわからない。

 耳なのか。

 怒りなのか。

 疲れなのか。

 それとも、見つけてほしいという、もっと面倒なものなのか。


 職場に戻ると、一架が自席ではなく、休憩スペースの小さなテーブルに座っていた。ひとりだった。サンドイッチの包みを開け、缶コーヒーを横に置いている。

 私に気づくと、少し手を上げた。


「ここ、座ります?」


 迷った。

 いつもなら自席で食べる。けれど自席には、まだ午前中の空気が残っている気がした。固いなあ、という声が、机の上の付箋や書類の間に挟まっているようだった。


「少しだけ」


 向かいに座った。

 休憩スペースの窓からは、隣のビルの非常階段が見える。鉄の階段は雨ざらしで、ところどころ錆びていた。誰かが使っているところを、私は見たことがない。

 非常のためにあるのに、非常のときまで誰にも触れられない階段。


「さっきのこと、気にしてますか」


 一架が聞いた。

 サンドイッチの袋を開けながら答えた。


「気にしてません」

「それ、気にしてる人の言い方です」

「気にしても、仕方ないので」

「仕方ないと、気にならないは違いますよね」


 返事をしなかった。

 一架はすぐに続けなかった。そこが、ほかの人と少し違う。沈黙を埋めるために言葉を足さない。だから私は、少しだけ逃げ道を失う。


「よく言われるんです」


 自分でも驚くほど小さな声で言った。


「固いとか、厳しいとか」

「そうなんですか」

「仕事なので」


 また、その言葉が出た。

 仕事なので。

 便利な言葉だった。自分の感情を、会社の規程の後ろへ押し込めることができる。仕事なので。規程なので。必要なので。

 そう言えば、私個人はそこにいなくて済む。

 一架はサンドイッチを置いた。


「でも、澪田さんがちゃんと見てるから、お金がちゃんと払われるんですよね」


 一架を見た。


「マニュアル通りにやっているだけです」

「普通のことを、ちゃんとやるのって大変です」


 前も、普通、と言っていたのを思い出した。


「一架さんは、普通という言葉が好きなんですか」

「好きじゃないです」


 一架は即答した。

 その早さに、少しだけ目を瞬いた。


「でも、よく言います」

「嫌いなのに?」

「嫌いだから、気になるんだと思います」


 一架は缶コーヒーを両手で包んだ。もうとっくに温かくはないはずなのに、そうしている。


「普通って言われると、誰の普通ですかって思います。でも、自分でも使います。便利だから」


 母の声を思い出した。

 普通にしていればいいのに。普通の格好をして。普通に働いて――。


「便利な言葉は、だいたい少し乱暴です」


 そう言うと、一架は小さく頷いた。


「それ、良い言葉ですね。メモしたいです」

「しなくていいです」

「じゃあ、覚えておきます」

「それもしなくていいです」


 一架は笑った。

 その笑い声は、休憩スペースの空気を少しだけ軽くした。けれど私の中に残った固さが消えるわけではなかった。軽くなった空気の中で、固いものはかえって形をはっきりさせる。

 午後、私は一件の申請で手を止めた。

 申請者は編集長の鹿島さんだった。会食費。金額は規程の上限を超えている。添付された領収書には高級な店の名前があり、参加者欄には社外の著者名が二人、社内が三人。理由欄には、今後の企画相談のためとだけ書かれていた。

 規程を開き、金額の上限を確認した。

 超えている。

 差し戻しが必要だった。

 編集長の申請を差し戻すとき、経理部の中でも少し空気が変わる。誰も明確には言わない。けれど、面倒なことになるかもしれないという気配が、机と机の間を流れる。

 コメント欄に文面を打った。

 

 【お疲れ様です。会食費の上限を超過しております。

  超過理由および事前承認の有無をご確認のうえ、再申請をお願いいたします。】


 何度か読み返す。

 失礼ではない。冷たすぎもしない。

 必要なことだけを書いている。

 差し戻しボタンを押す。

 数分後、鹿島さんから直接電話が来た。


「澪田さん? 今のやつ、どうにかならない?」


 声は笑っていた。笑っているのに、断られると思っていない声だった。


「規程上、超過理由と事前承認がない理由もしくは事後承認が必要です」

「いや、著者との大事な会だったんだよ。わかるでしょ」

「はい。ですので、超過理由をご記載ください」

「理由って言っても、企画相談だよ」

「その内容を具体的にお願いいたします」

「細かいなあ」


 細かい。固い。厳しい。また、細かい。

 今日は言葉がよく積もる日だった。

 受話器を左耳に当てていた。

 最初の穴のある耳。

 そこが少し熱を持ったような気がした。


「監査時に確認される可能性がありますので」

「監査、監査ってさあ」


 鹿島さんは、軽くため息をついた。


「こっちは現場で動いてるんだよ。数字だけ見てるとわからないかもしれないけど」


 黙った。

 数字だけ。

 また、言葉がひとつ置かれた。


「澪田さん?」

「はい」

「とりあえず、どう書けば通るの」

「規定に記載の通り、実態に即してご記載ください」

「模範解答だね」


 電話の向こうで鹿島さんが笑った。

 自分の呼吸が浅くなっていることに気づいた。怒っているのか、疲れているのか、怖いのか、わからない。ただ、受話器を持つ手の指先が冷たい。


「必要事項をご記載いただければ、再確認いたします」

「はいはい。わかりました」


 電話が切れた。

 受話器を置いた机の上の書類が、少し遠くに見える。蛍光灯の音が大きくなる。コピー機が紙を吐き出す音。誰かが笑う声。キーボードの音。全部が同じ厚みで耳に入ってくる。

 右耳に手を伸ばした。

 触れる。

 透明なピアスの端が、指先に当たる。

 今日、一回目。

 そう思った瞬間、少しだけ落ち着いた。

 落ち着いてしまったことに、また疲れた。

 夕方、鹿島さんの申請は再提出された。超過理由は丁寧に書かれていた。事後承認のメールも添付されている。内容に問題はなかった。

 承認した。

 それで終わりだった。すべては手順通りだった。

 誰も悪くない。

 それでも、私の中には何かが薄く削られて残った。


 終業時間を過ぎると、経理部の人間はひとり、またひとりと帰っていった。最後に残った申請を処理し、パソコンを閉じた。画面が暗くなる直前、黒い画面に自分の顔が映った。

 疲れている顔だった。

 ちゃんと疲れるんですね。

 一架の声が、ふと浮かぶ。

 ちゃんと疲れているなら、まだましなのかもしれない。疲れていることすらわからなくなったら、たぶんもう戻れない。

 鞄にメモ帳を入れようとして、手を止め、開く。

 日付の横に、一本の線を引く。

 今日、一回目。

 その線はまっすぐではなかった。少しだけ右に傾いている。それを見て、引き直したくなった。

 けれど、線を引き直すことはできない。引いた線は、上からなぞれば濃くなるか、二本になるだけだ。


 職場を出ると、外は冷えていた。

 駅までの道で、コートの襟を少し立てた。人の流れに沿って歩く。誰もがそれぞれの疲れを持っている。けれど外から見えるのは、鞄やスマートフォンや白い息だけだ。

 改札前で、スマートフォンが震えた。

 一架からだった。


 【今日、ちょっと嫌でしたね。】


 立ち止まった。

 短い文だった。主語も、目的語もない。何が、とは書かれていない。

 けれど私には、十分だった。

 返事を打とうとして、指が止まる。


 【嫌でした。】

 【大丈夫です。】

 【よくあることです。】

 【気にしてません。】

 【ありがとうございます。】


 どれも少し違った。

 電車が到着するアナウンスが聞こえる。人が流れる。私はその流れから少し外れ、柱の横に立った。

 しばらくして、こう打った。


 【少し。】


 送信する。既読はすぐについた。

 返事は、なかなか来なかった。

 それでよかった。すぐに慰められたら、たぶん私はまた大丈夫ですと返していた。慰めは、タイミングを間違えると、相手の傷を自分の形に整えようとするものになる。

 ホームに降りると、次の電車まで六分あった。

 スマートフォンが震える。


 【少しって言えるなら、よかったです。】


 よかった。

 何がよかったのか、わからない。けれど、悪くなかった。

 返信はしなかった。画面を伏せ、コートのポケットに入れた。

 定刻通りに電車が来る。

 窓に映った自分の耳は、髪に隠れて見えなかった。

 誰にも見えないものが、ないわけではない。


 部屋に帰ると、皿の上の花は完全に乾いていた。手に取ると、花びらが一枚、指の上で崩れた。

 音はしなかった。

 今度こそ捨てようと思った。

 けれど、ゴミ箱のふたを開けたところで、また手が止まった。

 捨てられないのではない。

 捨てる理由が、まだ足りないだけだ。

 花を小さな紙に包み、机の引き出しに入れた。そこには、使わなくなったピアスの留め具や、片方だけのイヤリングや、古いショップカードが入っている。

 役に立たないものばかりだった。

 役に立たないものは、ときどき捨てられずに残る。

 役に立つものばかりで生活を作ると、たぶん息が詰まる。


 夜、洗面台の前で右耳を確認した。

 透明なピアスは、まだそこにあった。赤みはほとんど消えている。触らなくてもいい状態だった。触る必要はない。触らない方がいい。

 指先を耳に近づけた。

 今日、二回目になる。

 鏡の中の自分が、こちらを見ている。

 疲れている。固い。細かい。数字だけ見ている。

 そうではない、と言いたかった。

 でも、数字を数えているのも、また事実だった。


 触るのを我慢して、手を下ろした。

 そのかわりに、メモ帳を開いた。日付の横には、一本の線。昼間に引いた、少し傾いた線。

 その下に、小さく書いた。

 

 【少し嫌だった。】


 書いてから、しばらくその文字を見ていた。


 嫌だった。

 それだけのことを、どうしてこんなに書きにくいのだろう。怒りでも、悲しみでも、絶望でもない。ただ、少し嫌だった。

 たったそれだけの言葉が、耳に穴を開けるより難しい夜がある。

 誰に言えばいいのかも、分からない。

 ベッドに入ると、薄い灰色の枕カバーはもう部屋の匂いになじみ始めていた。新しかったものが、少しずつ自分のものになる。そのことに、小さく安堵し、同じくらい小さく失望した。

 何でも、慣れてしまう。

 仕事にも。言葉にも。差し戻すことにも。

 そして、見えない場所が疼くことにも。


 今日の線は、一本のままでいい。

 そう思えたことが、少しだけ怖かった。

 いい日だったように見えてしまうから。

 いい日などではなかった。

 ただ、終わった日だった。


 窓の外で、遠くの車の音がした。

 そっと、目を閉じる。

 耳の奥で、今日差し戻したいくつもの小さなものが、まだ戻る場所を探していた。

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