表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
夜を飼う耳  作者: みたらしわんこ
第一部 穴は黙っている

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

6/6

第六話 母の台所

 母の台所には、いつも濡れた布巾があった。

 流しの横に、きちんと四つ折りにされて置かれている。薄い水色の布巾だった。私が小学生のころから、母は同じような布巾ばかり買っていた。

 水色、白、淡い黄色。どれも主張しない色で、汚れがつくとすぐにわかる色だった。

 母は汚れに敏感な人だった。

 醤油のしずく。味噌汁の跳ね。炊飯器からこぼれた米粒。父が落とした煙草の灰。私がこぼした麦茶。

 そういうものを見つけると、母はすぐに布巾を取った。

 拭く。洗う。絞る。畳む。また置く。

 その動作には、ほとんど考える隙がなかった。母の手は、汚れを見つける前から、もう布巾を探しているようだった。


 小さいころ、私はその手が好きだった。

 夕方、学校から帰ると、台所から包丁の音がした。玄関で靴を脱ぐ前に、その音を聞くと安心した。

 母が何かを切っている。今日も夕食がある。味噌汁があり、ご飯があり、テレビがつき、父が帰ってくる。

 台所の窓は西向きで、夏の夕方になると、斜めに差し込む光で流しが白く光った。母はその光の中に立っていた。エプロンの紐を腰の後ろで結び、髪をひとつにまとめ、少し前かがみになって野菜を切る。

 その背中を、私はよく食卓から見ていた。


「手、洗った?」


 母は振り返らずに言う。


「洗った」

「本当に?」

「洗った」

「石鹸で?」

「石鹸で」

「ならいいけど」


 そのころの、ならいいけどは、まだ尖っていなかった。

 私にとって母の「ならいいけど」は、家の中の小さな確認だった。鍵を閉めたか、宿題をしたか、体操着を洗濯に出したか。母は何度も確かめる。私は少し面倒そうに答える。

 けれど、その繰り返しの中で、家というものはなんとか形を保っていた。

 父は帰りが遅い人だった。遅いだけなら、まだよかった。

 帰ってくる日と、帰ってこない日があった。飲み会、残業、出張、急な仕事? 理由はいくつもあった。母はそれを責めなかった。少なくとも、私の前では。

 夕食の時間になると、母は父の分の皿を食卓に並べる。焼き魚なら、父の分だけ少し大きい切り身。煮物なら、父の小鉢には里芋が多めに入っている。

 母はそういう小さな配分を大切にしている人だった。


「お父さん、今日帰る?」


 聞くと、母は鍋の火を弱めながら言った。


「帰るんじゃない」

「何時?」

「知らない」

「電話した?」

「忙しいんでしょう」


 その言葉は、父をかばっているようにも、諦めているようにも聞こえた。私にはまだ、どちらなのかわからなかった。ただ、父の皿が食卓にあるあいだは、父はまだ帰ってくるのだと思えた。

 父の皿にラップがかけられる。午後九時を過ぎると、母はそれを冷蔵庫に入れる。十時を過ぎると、台所の電気だけをつけたまま、居間のテレビを消す。十一時を過ぎると、父の箸を洗う。

 使われなかった箸を洗うことが必要なのか、私にはわからなかった。けれど母は必ず洗った。水で濡らし、スポンジで軽くこすり、箸立てに戻す。

 使われなかったものまで洗う。そのことが、子どもの私には不思議だった。

 ある夜、聞いた。


「使ってないのに、洗うの?」


 母は箸を拭きながら、少しだけ手を止めた。


「置いておいたから」

「でも、使ってないよ」

「食卓に置いたでしょう」

「置いただけでも汚れるの?」


 母は答えなかった。

 箸を拭く白い布が、母の手の中で細く動いていた。しばらくして、母は言った。


「置いたものは、片づけるの」


 それは答えになっているようで、なっていなかった。

 けれど私は、それ以上聞かなかった。母の声がいつもより少し低かったからだ。

 台所には、聞いていいことと、聞いてはいけないことがあった。

 父の帰りの時間は聞いてもいい。

 父がなぜ帰らないのかは、あまり聞いてはいけない。

 味噌汁の具は聞いてもいい。

 母が流しの前で黙っている理由は、聞いてはいけない。

 台所は、母の場所だった。


 そして母の場所には、母の沈黙がたくさんしまわれていた。

 私が中学生になるころ、父と母の会話はさらに減っていた。

 父が帰ってくる日は、むしろ家の中が静かになった。玄関の鍵が開く音がすると、母はすぐに台所へ立つ。温め直した味噌汁を椀によそい、冷蔵庫から父の皿を出す。父はネクタイをゆるめながら食卓に座る。


「遅かったね」


 私が言うと、父は笑った。


「仕事だからな」

「毎日忙しいの?」

「毎日」


 軽く答えれば、軽いことになると思っているような声だった。

 母は何も言わず、父の前に皿を置いた。


「これ、温めた?」


 父が聞く。


「温めた」

「ちょっと冷めてる」

「もう一回温める?」

「いや、いい」


 そう言って、父は食べ始める。

 私は食卓の隅で宿題をしているふりをしながら、ふたりの声を聞いていた。父の声も、母の声も、大きくはならない。怒鳴るわけでもない。皿が割れることも、椅子が倒れることもない。

 ただ、食卓の上に見えない薄い膜が張られている。

 箸が皿に触れる音だけが、そこに穴を開ける。

 母は父が食べ終わるまで、台所のどこかを拭いていた。

 流し。調理台。ガスコンロ。冷蔵庫の取っ手。食器棚のガラス。

 父はそれを見て、ある夜、少し笑った。


「そんなに拭いたら、台所がなくなるぞ」


 母の手が止まった。

 私は鉛筆を握ったまま、ノートを見ていた。数式の途中で、指が固まっている。


「なくなるわけないでしょう」


 母は言った。

 声は普通だった。


「冗談だよ」

「面白くない」

「疲れてるんだよ」

「私も疲れてる」


 そのあと、少しの沈黙があった。

 父は味噌汁を飲み干し、椀を置いた。


「そういう言い方、やめろよ」

「どんな言い方」

「責めてるみたいな」

「責めてないわよ」

「責めてるだろ」

「責められるようなこと、してるの?」


 母の声が、そこでほんの少しだけ変わった。

 私は顔を上げられなかった。

 ノートの上の数字が、意味を持たない線に見えた。父と母の声は大きくない。けれど、その静けさの中に、何か硬いものが落ちていく音がした。

 父はしばらく黙っていた。


「透子の前でする話じゃない」


 父が言った。

 母は笑った。短く、乾いた笑いだった。


「そうね。透子の前でする話じゃないわね」


 それで終わった。

 その夜、母は食器をいつもより長く洗った。水の音が、私の部屋まで聞こえてきた。父は居間でテレビをつけたが、音量は小さかった。

 私は机の前に座り、宿題の続きをした。さっき止まった数式の答えは、もうわからなくなっていた。

 翌朝、食卓にはいつも通り朝食が並んでいた。

 焼いた食パン。目玉焼き。サラダ。

 父のコーヒー。母の紅茶。私の牛乳。

 何もなかったように。それが、一番怖かった。

 原因はわからないけれど、喧嘩をしたなら翌朝は何かが違っているはずだった。誰かが謝るとか、泣いた目をしているとか、皿が一枚少ないとか。

 けれど台所は、昨日と同じ顔をしていた。布巾は四つ折りにされ、流しは乾き、食器棚のガラスは曇りひとつない。

 私は、母が台所を綺麗にする理由が少しわかった気がした。

 綺麗な場所では、何も起きていないことにできる。

 拭き取れば、言葉は残らない。洗えば、夜は流れる。畳めば、乱れは整う。

 母はそうやって、家を保っていたのかもしれない。あるいは、家が壊れていることを、見ないようにしていたのかもしれない。

 どちらにしても、私には苦しかった。


 高校に入ってからは、台所に長くいられなくなった。

 母とふたりきりになると、流しの水音が耳についた。包丁の音も、冷蔵庫のモーター音も、換気扇の低い唸りも、全部が何かを隠しているように聞こえた。


「今日、学校どうだった?」


 母が聞く。


「普通」

「普通って何」

「普通」

「ちゃんとやってるの?」

「やってる」

「ならいいけど」


 そのころにはもう、母の「ならいいけど」は尖っていた。心配の形をしているのに、触れると小さく切れる。

 母はたぶん、私を傷つけようとしていたわけではない。むしろ傷つけないように言葉を選んでいたのだと思う。

 だから余計に、どこを責めればいいのかわからなかった。

 父が家を出る少し前、母は新しい包丁を買った。

 柄の黒い、よく切れる包丁らしかった。古い包丁は研いでもすぐ切れ味が悪くなる、と母は言った。父はそれを聞いて、新聞を読みながら「包丁なんて何でも同じだろ」と言った。

 母は何も言わなかった。


 その夜の夕食は、肉じゃがだった。

 じゃがいもは角が崩れず、にんじんは同じ大きさに切られていた。玉ねぎは透き通っていて、牛肉は硬くなりすぎていない。

 母の料理はいつもきちんとしていた。味が濃すぎることも薄すぎることもない。誰かが来ても恥ずかしくない食卓。写真に撮れば、普通の家族に見える食卓。

 父は肉じゃがを食べながら、「ちょっと甘いな」と言った。

 母は箸を止めなかった。


「そう」

「前の方がよかった」

「そう」

「怒るなよ」

「怒ってない」


 私は味噌汁の椀を持ったまま、母の横顔を見た。

 母は本当に怒っていない顔をしていた。

 怒りを顔に出さないことに慣れすぎて、もう怒っているのかどうか自分でもわからない人の顔だった。


 そのとき、ふと思った。

 母はいつから、怒らない人になったのだろう。

 小さいころの母は、もっとよく笑っていた気がする。怒るときも、もっとわかりやすかった。宿題をしなかった私を叱り、食べ物をこぼすと眉をひそめ、父が買ってきた甘い菓子を見て「またそんなもの買って」と笑いながら怒った。

 いつの間にか、母の感情は台所の奥へしまわれてしまった。

 引き出しの中。鍋の蓋の裏。冷蔵庫の奥。四つ折りの布巾の中。

 しまわれたものは、なくなったわけではない。けれど、出し方がわからなくなる。

 父が家を出たあと、母の台所はますます綺麗になった。

 調味料の瓶は背の順に並び、フライパンは大きさごとに重ねられ、食器棚の中の皿は色ごとに分けられた。冷蔵庫の中には、ラベルを貼った保存容器が並んだ。

 煮物。ひじき。きんぴらごぼう。浅漬け。切っただけの野菜。

 父の分を作らなくなったのに、母は以前より多く作り置きをした。


「こんなに食べないよ」


 私が言うと、母は容器に日付を書きながら答えた。


「あると便利だから」

「誰が食べるの」

「あなた」

「こんなに?」

「食べればいいでしょう」


 母の声には、少し苛立ちが混じっていた。

 私は黙った。

 食べればいいでしょう。

 それはたぶん、料理だけの話ではなかった。

 用意されたものを、黙って受け取ればいい。母がなんとか形にした生活を、疑わずに食べればいい。父がいないことも、説明がないことも、消えていく物も、全部。

 冷蔵庫の白い扉を見た。白いものは、何かを隠すのに向いている。


 母は私のピアスについて、一度も正面から言わなかった。

 最初の穴に気づいた朝も、二つ目を開けたときも、母は少し目を止めるだけだった。学校から何か言われないの、とは聞いた。膿んだりしないの、とも聞いた。

 けれど、どうして開けたの、とは聞かなかった。

 そのことに、私は何度も傷ついた。何度も。

 聞かれたら答えられなかったくせに、聞かれないことが苦しかった。

 ある夜、台所で母の背中に向かって言った。


「ピアス、嫌じゃないの」


 母は皿を洗っていた。水の音が少しだけ弱くなる。


「何?」

「私のピアス」

「別に」

「別に?」

「あなたの耳でしょう」


 母はそう言った。

 その言葉だけを取り出せば、理解のある母親のようだった。

 あなたの耳でしょう。あなたの自由でしょう。あなたが決めればいいでしょう。

 けれど、母の声には何も乗っていなかった。怒りも、心配も、関心も。

 少なくとも、私にはそう聞こえた。


「ふうん」そう言って、終わった。


 母は皿を洗い続けた。

 その背中を見ながら、自分の耳が本当に自分のものなのか、わからなくなった。

 自分の耳なら、なぜこんなに母に見てほしいのだろう。

 自分の耳なら、なぜ母に何も言われないことで、こんなに冷えるのだろう。

 母は食器を洗い終えると、濡れた布巾で調理台を拭いた。拭く必要のない場所まで、何度も拭いた。

 その手を見ていた。

 母は、触れてほしいものには触れない。触れなくていいものばかり、何度も触る。

 そう思った。


 思った瞬間、自分も同じだと気づいた。

 耳に触れる。穴に触れる。腫れに触れる。ピアスのキャッチに触れる。

 そうやって、本当に触れたいものから指を逸らしている。父がなぜ帰ってこなかったのか。母が何を知っているのか。自分が何を失ったのか。

 そういうものには触れられない。


 台所の蛍光灯が、少しだけ瞬いた。


「透子」


 小さく低い声で、母が言った。


「何」

「明日、燃えるゴミの日だから、部屋のゴミ出しておいて」

「うん」

「あと、食べ終わった食器は水につけて」

「うん」

「それから、夜更かししないで」

「うん」


 その頃の母との会話は、もう生活の指示ばかりだった。

 ゴミを出す。食器を水につける。夜更かししない。

 手を洗う。鍵を閉める。遅れない。ちゃんと食べる。

 そのどれもが、私を生かすための言葉だったのだと思う。今なら、少しだけわかる。

 母はたぶん、それ以外の言葉を知らなかった。

 悲しいね、とも、苦しいね、とも、私もわからない、とも言えなかった。言えないかわりに、食器を洗い、味噌汁を作り、布巾を畳んだ。

 でも、そのときの私には、わからなかった。

 わからないから、傷ついた。

 そして、わからないまま、大人になった。


 大人になってからも、母の電話の向こうにはいつも台所の音があった。

 水の流れる音。電子レンジの終了音。食器が重なる音。冷蔵庫を閉める音。

 母は今でも、台所から電話をかけてくる。

 言葉は少しずつ変わっても、奥にある音は変わらない。母は今も、流しの横に布巾を置いているのだろう。食器棚のガラスを拭き、冷蔵庫の中身を整理し、使わなかった箸まで洗っているのだろう。

 それを想像できる。想像できることが、苦しい。

 母は何もしてくれなかったわけではない。

 母はたくさんのことをしていた。

 けれど、私が本当に見てほしかった場所だけは、いつも綺麗に避けて通った。

 それは、責められることなのか、今でもわからない。


 母も、誰にも見てもらえなかった人なのかもしれない。父を待つ夜に、使われなかった箸を洗いながら、台所の白い明かりの下で、母もどこかに穴を開けたかったのかもしれない。

 けれど母は、自分の身体に穴を開けるかわりに、台所を磨いた。

 私は耳に穴を開けた。

 それだけの違いだったのかもしれない。

 けれど、その違いは大きかった。

 母の台所は、今も私の中にある。

 白い流し。水色の布巾。西日の差す窓。使われなかった箸。冷蔵庫の保存容器。

 父の皿にかけられたラップ。何度も磨かれた食器棚の上。灰皿の形に残っていた埃。

 そして、母の背中。

 その背中に向かって、私は一度も言えなかった。


 【お母さん、こっちを見て。私を見て。】


 そう言えなかったかわりに、耳に穴を開けた。

 小さな白い石を通して、何度も何度も触れた。

 母は気づいていた。たぶん、気づいていた。

 それでも母は、布巾を洗い、絞り、四つ折りにして、流しの横へ置いた。

 その整った布巾の形を、私は今でも憎みきれない。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ