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夜を飼う耳  作者: みたらしわんこ
第一部 穴は黙っている

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第五話 透明なもの

 透明なものは、ないものに似ている。

 朝の鏡の前で、右耳を横から見た。ガラスピアスは、光の角度によってようやく輪郭を持つ。正面から見ると、穴だけがそこに残っているようだった。

 飾りを外された耳。

 けれど、何もないわけではない。小さなガラスの棒が、皮膚の中を通っている。見えにくいだけで、確かにそこにある。

 見えにくいものは、扱いに困る。

 痛みも、寂しさも、怒りも、そうだった。外から見えなければ、ないことにされる。見えたら見えたで、隠した方がいいと言われる。


 洗面台の棚から消毒液を取った。綿棒の先に少し含ませ、穴の周りをなぞる。昨日より赤みは引いている。触れるとまだ熱があるが、ひどくはない。

 ひどくないものにこそ、名前がつかない。

 スマートフォンには、燐からのメールが残っていた。

 【痛みを確かめるために、痛みを増やさないこと。】

 その文を削除しようとして、やめた。

 残しておきたいわけではない。ただ、消すには少し早い気がした。


 父の傘や灰皿のことを思い出してから、私は何かを捨てるのが少しだけ下手になった。

 部屋の隅には、白い花がまだあった。

 皿の上に置かれた折れた花は、もう花というより乾いた薄い布のようだった。水を足した花瓶の方の花も、茎が濁り、首を傾けている。

 捨てなければならない。

 消すことと終わりにすること、それは同じなのだろうか。

 そう思いながら、出勤用の鞄を手に取った。

 玄関で靴を履き、ドアを閉める直前、花の方を一度だけ振り返る。

 折れているものを残しておく部屋は、少しだけ言い訳めいて見えた。


 会社に着くと、入口に一架がいた。自動販売機の前で財布を開き、小銭を探している。私に気づくと、軽く笑った。


「おはようございます」

「おはようございます」


 一架は真面目な顔で言った。


「十円足りないんです」

「百円ならあります」

「貸してもらえませんか。今日中に返します」

「返さなくていいです」

「だめです。そういう小さい借りを放っておくと、あとで大きくなりそうなので」


 財布から百円玉を出して渡した。一架はそれを受け取り、温かい缶コーヒーを買った。取り出し口から缶を取ると、両手で包むように持つ。


「朝、苦手なんです」

「見えませんね」

「見えないようにしてます」


 その言葉を聞いて、はっと一架を見た。

 一架は缶のプルタブを開けながら、何でもないことのように続けた。


「見えたら、朝から気を遣わせるじゃないですか」

「気を遣われるの、嫌ですか」

「嫌というか、面倒です。気を遣わせたことに、こっちも気を遣うので」


 少しだけ笑いそうになった。


「わかります」

「ですよね」


 一架は少し嬉しそうに頷いた。

 朝の廊下には、人がまばらに行き来している。誰もふたりの会話を聞いていない。聞かれて困る内容でもない。ただ、その小さなやり取りが、少しだけ不思議だった。

 まだ何も始まっていない時間に、誰かと言葉を交わしている。

 それだけで、一日がいつもと違う入口を持ったような気がした。


 席に着くと、机の上には付箋が一枚置かれていた。

 編集部の誰かの字で、【請求書、急ぎです。お願いします。】と書かれている。

 名前はない。


 その付箋をしばらく見た。お願いします、の文字が少し右上がりになっている。急ぎです、と書けば本当に急ぎになると思っている人間の字だった。

 書類の束を確認すると、やはり必要な添付が一枚足りなかった。

 急ぎのものほど、必ず足りない。

 メールを開き、淡々と不足資料の依頼文を打った。

 

 【お疲れ様です。ご提出いただいた請求書につきまして、添付資料が不足しております。

  お手数ですが、本日十五時までにご提出ください。何卒よろしくお願いいたします。】


 書きながら、自分の言葉がどれも薄い紙のようだと思った。

 お疲れ様です。お手数ですが。何卒——。

 そこに私はいない。でも、いないから、仕事は進む。

 無心で送信してから、右耳へ手が伸びた。

 触れる直前で止める。

 昨日の線は一本だった。今日はまだ、ゼロ。

 ゼロという数字は、頼りなくて、少し怖い。何もないことになってしまうから。

 手を膝の上に戻した。


 午前中、一架が経費精算の申請を出した。予想通り、ひとつ間違っていた。資料購入費を会議費で申請している。

 差し戻しボタンを押し、コメント欄に理由を入れた。

 数分後、一架からチャットが届いた。


 【さっそく差し戻されました。悔しいです。】


 少し考えてから返信した。


 【惜しかったです。】


 すぐに返事が来る。


 【次は勝ちます。】


 勝ち負けではない。

 そう打とうとして、やめた。かわりに、何も返さなかった。自分との戦いだと思ったからだ。

 何も返さないことが、否定にならない相手がいる。まだそう決めるには早い。けれど一架には、少しだけそういう感じがある気がした。


 昼休み、一架はまた私の近くに来てお昼を食べた。

 今日はサンドイッチではなく、コンビニのパスタだった。容器のふたを開けると、にんにくの匂いが薄く広がった。一架はすぐに申し訳なさそうな顔をした。


「匂いますね」

「大丈夫です」

「大丈夫って言う人、だいたい大丈夫じゃないですよね」

「そうですね」

「じゃあ、大丈夫じゃないですか」

「少しだけ」


 一架は笑い、パスタの容器を少し遠ざけた。


「正直でよろしいです」


 私は鮭のおにぎりを食べた。昨日と同じ具だった。別のものを選んだつもりで、同じものを取っていた。そういうことが最近増えた気がする。

 自分で選んでいるつもりなのに、同じ場所へ戻っている。

 ぐるぐる、ぐるぐる、ぐるぐる。


「澪田さん」


 一架が箸を止めた。


「はい」

「今日、耳、違います?」


 手が止まった。

 心臓が一度だけ、大きく打った。

 見られた、と思った。

 それからすぐに、見られるように髪を少し耳にかけていたことに気づいた。無意識だった。いや、無意識と言い切るには、少し都合がよすぎる。

 朝、透明なピアスに替えてから、誰かに気づかれるかもしれないと思っていた。気づかれたくないと思いながら、気づかれなかったらそれはそれで、たぶん苦しかった。


「透明ピアスに替えたんです」

「そうなんですね」


 一架はそれだけ言った。

 続きを待った。

 痛くないんですか。なんでそんなところに。透明なら目立たなくていいですね。

 そういう言葉が来るかもしれないと、少し身構えていた。

 けれど一架は、パスタをひと口食べてから言った。


「透明なのって、逆に目立つときありますよね」


 顔を上げた。


「え?」

「見えないようにしてる、ってことだけが見える感じがするというか」


 一架は自分で言ってから、少し困った顔をした。


「すみません。変な言い方ですね」

「いえ」


 右耳に意識を向けた。透明なピアス。

 見えないようで、そこにあるもの。

 隠したいものと、消したいものは違う。

 律の言葉が、また戻ってくる。


「わかります」


 そう言うと、一架は少しだけ安心したように頷いた。


「私、透明なスマホケースが苦手なんです」

「スマホケース?」

「はい。透明なのに、だんだん黄ばむじゃないですか。隠してないふりをして、時間だけはちゃんと出る感じが」


 思わず笑った。

 今度は、はっきり笑った。

 一架は驚いた顔をして、それから少し得意げにした。


「笑いましたね」

「スマホケースの話でそんなこと言う人、初めて見ました」

「褒めてます?」

「たぶん」

「たぶん」


 一架は満足そうにパスタを混ぜた。

 昼休みは、少しだけ短く感じた。


 午後、外部の印刷会社から電話が来た。支払い予定日の確認だった。資料を見ながら、淡々と答えた。相手は何度も恐縮し、よろしくお願いしますと言った。

 電話を切ると、耳に当てていた受話器の感触だけが残った。

 右耳ではなく、左耳。最初の穴がある耳。


 ふと、高校の洗面所を思い出した。白い石のピアス。母の食器を洗う音。扉は開かなかった。

 あのとき、母が扉を開けていたらどうなっていただろう。怒っただろうか。泣いただろうか。見なかったふりをしただろうか。

 たぶん、見なかったふりをした。

 母は昔から、見えているものを見えないことにするのが上手だった。正確には、上手そうに見せるのが上手だった。

 灰皿があった場所を磨き続けたように、消したいものほど何度も触る。触り続けることで、触れていないふりをする。

 そこまで考えて、手を止めた。自分も同じではないかと思った。


 耳に触り続けることで、本当に触れたいものに触れずにいる。父のこと。母のこと。自分が何を欲しかったのかということ。

 そういうものに触れないために、耳を触る。

 右耳へ伸びかけた手を、また止めた。

 今日はまだ、ゼロ。

 ゼロを守ることに、意味があるのかはわからない。

 けれど、意味があるものだけで生きていたら、すぐ壊れる。

 律の声は、頼んでもいないのに何度も私の中で繰り返された。


 夕方、差し戻した申請が、一架から再提出された。今度は合っていた。

 すぐに承認し、チャットに一言だけ送った。


 【勝ちです。】


 一架から、すぐに返信が来た。


 【やりました。】


 そのあと、万歳している猫のスタンプが送られてきた。会社のチャットにそんなスタンプ機能があることを、私は知らなかった。

 少しだけ画面を見つめ、返すものを探したが、何も適切なものが見つからなかった。結局、既読だけをつけて閉じた。

 既読だけでも、今日は十分だと思った。


 仕事を終えたあと、まっすぐ帰らず、会社の近くのドラッグストアに寄った。

 枕カバーを新しく買うためだった。律に言われたことを守るつもりなのか、自分でもわからない。ただ、古い枕カバーのまま眠ると、耳の腫れがより悪くなる気がした。

 棚には、白、薄い灰色、花柄、水色の枕カバーが並んでいた。

 白を手に取って、戻した。

 白いものは汚れが目立つ。けれど、汚れが見えないものの方が、本当は怖いのかもしれない。

 しばらく悩んだ挙句、結局、薄い灰色を選んだ。


 会計の列に並んでいると、前にいた女性が小さな子どもを連れていた。子どもは母親のコートの裾を握り、片手に赤い歯ブラシを持っている。母親はスマートフォンを見ながら、ときどき子どもの頭に手を置いた。

 その手つきは乱暴ではなく、優しすぎもしなかった。そこにいることを確かめるためだけの手だった。

 その手を見て、急に目を逸らしたくなった。母にも、そういう手があったのだろうか。


 母の手。

 皿を洗う手。床を拭く手。食器棚を磨く手。父のものを段ボールに詰める手。

 私の頭に置かれた手は、思い出そうとすると、なぜか輪郭がぼやける。なかったはずはない。熱を出したとき、髪を結んでもらったとき、横断歩道を渡るとき。きっとあった。

 あったのに、今となって思い出せるのは、何かを消す手ばかりだった。


 帰宅すると、部屋は朝のままだった。

 皿の上の花は、さらに軽そうになっている。買ってきた枕カバーを袋から出し、古いものと替えた。新しい布は、まだ店の匂いがした。

 誰の眠りも吸っていない匂い。

 薄い灰色の布を枕にかけると、ベッドだけが少しよそよそしくなった。


 夕食は、冷凍していたご飯と納豆で済ませた。

 食べ終わったあと、スマートフォンの着信履歴を見た。昨日から何もない。

 安心したあとで、少しだけ罪悪感がくる。

 母はただ、法事のことを確認しただけだった。寒くなってきたから身体に気をつけなさいと言っただけだった。

 悪意のない言葉に傷つく自分の方が、どこかおかしいのではないか。

 そう思うたびに、心はざわつき、そして黙る。

 自分がおかしいかどうかを考えはじめると、終わりがない。

 きっと、もうおかしいのだろう。


 シャワーを浴び、髪を乾かし、右耳を確認した。赤みはまた少し引いている。透明なピアスの周りに、薄い影ができている。

 指先を近づけた。触れない。

 今日、まだゼロ。

 ゼロのまま眠れるだろうか。


 メモ帳を開き、日付だけを書いた。その横には、まだ何も引かない。

 空白がある。線のない日。

 そういうものを持つのは、いつ以来だろう。

 空白は、清潔すぎて落ち着かなかった。

 ペンを持ったまま、しばらく動けなかった。一本だけ線を引けば、いつもの日になる。触ったことにすればいい。実際、朝の消毒で触れた。昼に意識した。夕方も伸ばしかけた。完全に触れていないわけではない。

 だから一本くらい引いても嘘ではない。

 けれど、ペンを置いた。線を引かないことの方が、今日は大切なような気がした。


 ベッドに入ると、新しい枕カバーの感触が冷たかった。右耳を下にしないよう、仰向けになる。慣れない姿勢だった。

 天井には、小さな影がいくつもある。昼間は見えない凹凸が、夜になると現れる。

 壁も、天井も、耳も、暗くならないと見えないものがある。


 突然、スマートフォンが震えた。

 体が固くなった。

 画面を見ると母ではなく、一架からのチャットだった。会社のアカウントからの通知。業務時間外に開くには、少しだけ遅すぎる画面だった。


 【今日はありがとうございました。初勝利、忘れません。】


 画面を見つめた。

 返信しなくてもいい。明日、きっと会社で会う。仕事のことでもない。夜にまで誰かとつながる必要はない。

 そう思いながら、指は文字を打っていた。


 【おめでとうございます。】


 送信する。

 すぐに既読がつく。


 【澪田さん、夜もちゃんと句点つけるんですね。】


 少しだけ困った。


 【つけます。】

 【さすがです。】

 【普通です。】

 【普通って、けっこう人によって違いますよね。】


 そこで返信を止めた。

 普通。

 母の言葉の中にも、その言葉は何度も出てきた。普通にしていればいいのに。普通の格好をして。普通に働いて。普通に結婚して。普通に子供を産んで。普通に。普通に。普通に——。

 普通はいつも、誰かの形をしていた。私の形をしていたことは、一度もなかった。

 一架から続けてメッセージが来た。


 【すみません、変な話になりました。寝てください。】


 少し迷ってから、返信した。


 【まだ寝ません。】


 既読がつく。少し間があく。


 【私もです。】


 それだけだった。

 会話はそこで終わった。

 スマートフォンを伏せた。

 部屋は暗い。新しい枕カバーはまだ冷たい。右耳は、いつもより少し静かだった。

 今日は、触らなかった。

 そう思った瞬間、胸の奥がざわついた。触らなかったことが、何かの始まりみたいに見えてしまう。

 それは危険だった。


 始まりは、いつもあとで裏切られる。父が帰ってくるかもしれないと思った最初の日も、そうだった。 

 母がいつか話してくれるかもしれないと思った夜も、そうだった。

 期待は、透明なものに似ている。そこにあるのに、ないふりをする。

 ないふりをしているうちに、いつの間にか黄ばんでいく。

 右耳に触れたくなったが、触れれば、空白ではなくなる。

 それは、今日という日が、いつもの場所へ戻るということ。


 指先が毛布の中で動く。でも、手を出さなかった。

 それは強さではなかった。眠気でも、決意でもなかった。ただ、動くのが面倒になっただけかもしれない。あるいは、一架の【私もです】という短い言葉が、まだ部屋のどこかに残っていたからかもしれない。

 夜は長かった。

 けれど、午前二時を過ぎたころ、私はいつの間にか眠っていた。

 夢は見なかった。


 朝、目が覚めたとき、右耳は少しだけ軽かった。

 枕元のメモ帳には、日付だけが書かれていた。

 その横には、何もなかった。

 空白。

 それをしばらく見ていた。

 何も書かれていないことが、こんなにも落ち着かないとは思わなかった。けれど同時に、少しだけ目を離せなかった。

 空白は、許しにも似ていた。何もなかったことにする白さではなく、まだ何も決めなくていいという白さ。


 ペンを持った。線は引かなかった。

 かわりに、日付の下に小さく書いた。

 

 【触れなかった。】


 書いたあとで、すぐに後悔した。大げさだと思った。

 記録するほどのことではないと思った。

 それでも、消さなかった。


 透明なピアスは、鏡の中でまだ見えにくかった。

 見えにくいまま、でも確かにそこにあった。

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