第四話 最初の穴
父の灰皿がなくなったのは、八月の終わりだった。
それまでは、食器棚の上に置かれていた。黒いガラスの、重たい灰皿だった。底の方に細かな傷がいくつもあり、光の当たり方によっては、水の底みたいに鈍く光った。
父はそれを結婚祝いにもらったと言っていたような気がしたが、誰にもらったのかまでは覚えていなかった。
私はその灰皿が好きではなかった。
煙草の匂いが染みついていたし、吸い殻が残っていると、家の中の空気まで古くなるような気がした。
けれど、なくなってみると、その場所だけが妙に白く見えた。
食器棚の上には、灰皿があった形に薄く埃が残っていた。母はそこを何度も拭いた。濡れた布巾で、きゅっ、きゅっと音を立てながら、同じ場所を磨き続けた。
「そこ、もう綺麗だよ」
そう言うと、母は手を止めずに答えた。
「綺麗にしてるの」
「もう綺麗だよ」
「だから、綺麗にしてるの」
それ以上は言えなかった。
父が家を出たのは、たしかその三日ほど前だった。
後から理解したのだが、正確に言えば、父は「出ていった」のではなかった。
あの日、仕事に行くときと同じように、いつものくたびれた鞄を持って玄関を出た。革靴のかかとを少し鳴らし、行ってくる、と言った。母は台所で朝食の皿を洗っていて、返事をしなかった。
私は制服のブラウスに袖を通しながら、その声を聞いた。
父はそのまま帰ってこなかった。
最初の夜、母はいつも通り夕食を作った。それは今でも鮮明に覚えている。献立は焼き魚と味噌汁と、きゅうりの浅漬け。当然父の分の箸も置いた。私はテレビの音を聞きながら、味のしない魚を食べた。
「遅いね」
そう言ったのは、私だった。
母は味噌汁をすすりながら、
「そうね」
とだけ言った。
二日目、父の箸は出なかった。
三日目、灰皿が消えた。
その早さが、怖かった。
人がいなくなることより、その人のいた場所が片づいていくことの方が怖かった。
それから、靴箱の父の靴が一足ずつ減り、洗面所から髭剃りが消え、浴室の隅にあった男性用のシャンプーがなくなった。
母は何も説明しなかった。
説明しない代わりに、家を磨いた。
床を拭く。カーテンを洗う。食器を並べ替える。
父の本を段ボールに詰める。その段ボールを廊下の隅に置く。
私は、その段ボールを開けてはいけない気がしていた。開ければ、父の匂いが出てくる。父の匂いが出てくれば、母がまた何かを捨てる。
そんな気がした。
当たり前だが、学校では、私の家のことなど誰も何も知らなかった。
夏休み明けの教室は、日焼けした腕と、湿った制服と、少しだけ変わった髪型で満ちていた。誰かが海に行った話をし、誰かが塾の夏期講習の愚痴を言い、誰かが文化祭の準備について騒いでいた。
私は自分の席に座り、窓の外の校庭を見ていた。
蝉の声が、まだ残っていた。
夏は終わりかけているのに、蝉だけがそれを知らないように鳴いていた。聞いていると、耳の奥が熱くなった。
あの声は、何かを訴えているのではない。ただ、鳴くようにできているから鳴いている。
そう思うと、少し羨ましかった。
「透子、文化祭の係、どうする?」
隣の席の子に聞かれて、顔を上げた。
顔は浮かぶが、もう名前は思い出せない。
「何でもいい」
「何でもいいって一番困るんだけど」
「じゃあ、余ったのでいい」
「ほんと、欲ないよね」
その子は笑った。悪気はなかった。
欲がない。
その言葉を、一日中どこかで持ち歩いた。
欲がないのではない。
欲しいものを言ったところで、それが残るとは限らないだけだ。家の中にあったものは、必要かどうかではなく、母が耐えられるかどうかで消えていく。父の灰皿も、靴も、本も、シャンプーも。
なら、欲しいと言わない方がいい。
名前を呼ばないものは、消えても少しだけ痛みが少ない。
その日の夕方、家に帰ると、玄関に父の傘がなかった。
黒い長傘だった。持ち手のところに小さな傷があり、雨の日になると父は必ずそれを持って出た。傘立ての奥に、いつも少し斜めに差さっていた。
それがなかった。
靴を脱いだまま、しばらく傘立てを見ていた。
「何してるの」
台所から母の声がした。
「傘」
「え?」
「お父さんの傘、ない」
少しの沈黙。
「処分したわよ」
母はそう言った。
「もう使わないから」
もう使わない。
その言葉は、玄関の白いタイルの上に落ちて、割れずに残った。
父は、もうこの家で傘を使わない。雨が降っても、ここから出ていかない。ここへ帰ってこない。
そういう意味だった。
母は台所で夕食の支度をしていた。まな板の上で、玉ねぎが細く切られている。包丁の音が一定の速さで続いていた。
とん、とん、とん、とん。とん、とん、とん、とん。
母の手は迷わない。泣いてもいないし、怒ってもいない。
「お父さん、帰ってこないの」
聞いた。
母は包丁を止めなかった。
「帰ってこないでしょうね」
「どうして」
「いろいろあるの」
「いろいろって何」
「大人の話」
「私、もう子どもじゃない」
包丁の音が止まった。
母はゆっくり振り返った。目の下にはクマが残り、疲れた顔をしていた。けれど、その疲れは私に向けられたものではなかった。もっと遠くの、もっと長い場所から来た疲れだった。
「子どもよ」
母は言った。
「あなたはまだ、子ども」
その言葉に、何も返せなかった。
子どもなら、説明されなくていい。
子どもなら、決められたことだけ受け取ればいい。
子どもなら、父の傘が消えても、灰皿が消えても、父の靴が消えても、黙っていればいい。
その夜、私は夕食をほとんど食べなかった。
母は何も言わなかった。食べなさい、とも、残すなら片づけなさい、とも言わなかった。ただ、私の皿を台所へ下げ、残ったおかずを小さな容器に移した。
冷蔵庫の扉が閉まる音がした。
その音で、自分がこの家の中のどこにも置かれていないような気がした。
父のものは消えていく。
母は何かを磨き続けている。
私は子どもだから、知らなくていい。
けれど、知らなくていいと言われたものの中で、確かに暮らしている。
部屋に戻ると、窓の外で蝉が鳴いていた。
夜なのに、まだ鳴いている。
意味もなく机の引き出しを開けた。中には、使わなくなった文房具や、ヘアピンや、友人にもらったシールが入っていた。その奥に、小さなアクセサリーの箱がある。
中学のとき、雑貨屋で買った安いピアスが入っていた。まだ穴は開いていなかったから、買っただけで満足して、そのままにしていたものだった。
白い小さな石がついたピアス。
子どもっぽいと思った。
買ったときの自分が、遠くにいるようだった。
その箱をしばらく見ていた。
欲しかったものを、欲しかったままにしておくことが、急に恥ずかしくなった。使われないものは、父の傘と同じだ。いつか誰かに、もう使わないから、と言われて捨てられる。
そっと箱を閉じた。
洗面所へ行くと、母はまだ台所にいた。食器を洗っている音がする。水の流れる音。皿がぶつかる音。母が母であるために出しているような音。
洗面所の鏡の前に立つ。
自分の耳を見た。何もない耳だった。
傷も、穴も、飾りもない。
母から産まれたときのままの、何も知らない耳。
それがいまはとても嫌だった。
父が消えても、母が何も言わなくても、自分の身体だけは何もなかったような顔をしている。朝になれば制服を着て学校へ行き、出席を取られ、文化祭の係を決め、何でもいいと言う。
そうしているうちに、家の中のものは少しずつ消えていく。
何かを残したかった。
父を残したかったのではない。母を責めたかったのでもない。
自分が何も感じていないわけではないと、どこかに印をつけたかった。
台所で、母が水を止めた。
家の中が急に静かになる。
その静けさの中で、耳に触れた。
柔らかい耳たぶ。何も起きていない皮膚。少し冷たい指先。鏡の中の自分は、泣きそうな顔ではなかった。怒っている顔でもなかった。
ただ、何かを待っている顔をしていた。
その夜のことを、実は細かくは覚えていない。
無意識に心のどこかに封印しているような、そんなぼんやりとした記憶。
覚えているのは、洗面台の白さ。
使った消毒液の匂い。血のついたニードル。
窓の外の蝉の声。
母が隣の部屋で引き出しを閉める音。
耳の奥に走った、短い熱。
大きな痛みではなかったが、痛い、と思った。
そのあとで、あぁ、これだけなのか、と思った。
家の中があんなに変わっていくのに、自分の身体に起きることは、こんなに小さいのかと思った。
血はほんの少しだけ滲んだ。ティッシュで押さえると、赤い点がついた。それは驚くほど小さく、あっけなかった。
けれど、鏡の中の耳には、確かに穴があった。
何もなかった皮膚に、小さな入口ができていた。
そこに、白い石のピアスを通した。石は安っぽく、洗面所の灯りを受けて、濡れた砂糖の粒みたいに光った。
似合っているのかどうかはわからなかった。綺麗かどうかもわからなかった。
ただ、そこにある。
それだけでよかった。
「透子?」
遠くから母の声がした。
体が固くなった。
「お風呂、入るの?」
「うん」
「早く入りなさいね」
「うん」
母は洗面所の扉を開けなかった。
そのことに、ほっとした。同時に、少しがっかりした。
見つかりたかったのかもしれない。怒られたかったのかもしれない。
何をしてるの、と言われたかったのかもしれない。
その耳はどうしたの、と聞かれたかったのかもしれない。
鏡の中の小さな白い石を見た。
自分でつけた印は、自分にしか見えない。
それは自由のようでもあり、孤独そのもののようでもあった。
翌朝、母はすぐに気づいた。
朝食の食卓で、味噌汁を置く手が一瞬だけ止まった。母の視線が私の左耳に触れた。けれど、何も言わなかった。
私も何も言わなかった。
ふたりは向かい合って、黙って朝食を食べた。テレビでは、天気予報士が残暑について話していた。
今日も暑くなります。水分をこまめに取りましょう。
画面の中の言葉は、どれもまっすぐで、誰も傷つけなかった。
食べ終わるころ、母が言った。
「学校、遅れるわよ」
それだけだった。
ピアスについては、何も言わなかった。
その沈黙が、私の中で長く残った。
怒られなかったことは、許されたこととは違う。
気づかれなかったわけでもない。
ただ、触れられなかった。
家の中では、そういうものが増えていた。どれもそこにあるのに、誰もそれについて話さない。
学校へ向かう道で、何度も耳に触れた。
最初は痛みを確かめるためだった。
次は、まだそこにあるかを確かめるためだった。三度目からは、理由がわからなかった。
ただ、指がそこへ行く。触れると少し熱い。
熱いと、自分がそこにいるような気がした。
教室に入ると、隣の席の子がすぐに気づいた。
「あれ、透子、ピアス?」
「うん」
「いつ開けたの?」
「昨日」
「痛くなかった?」
鞄を机にかけた。
「少し」
「いいなあ。私も開けたいけど、お母さんがうるさくて」
その子はそう言って、すぐ別の話に移った。文化祭のポスターのこと。クラスの男子のこと。新しく出たアイスのこと。
相槌を打ちながら、左耳に触れた。
誰かに見られても、何も変わらなかった。
母が触れなくても、友人が軽く流しても、穴はそこにあった。
小さな熱は、午前中ずっと消えなかった。
授業中、ノートに文字を書きながら、何度も左耳の存在を思い出した。黒板の数式より、教師の声より、窓の外の蝉より、その小さな穴の方が確かだった。
昼休み、ひとりでトイレに行き、鏡の前で髪を耳にかけた。
白い石が光っている。何度見ても安っぽい光だった。
けれど、父の灰皿が消えたあとの食器棚の白さよりは、ずっとましだった。
その日から、私は穴を持つ人間になった。
何かが変わったわけではない。
父は帰ってこなかっただけ。母は掃除をやめなかっただけ。
家の中の父のものは、少しずつ消えていっただけ。ただ、それだけ。
学校では文化祭の準備が始まり、蝉の声はいつの間にか小さくなった。
それでも私の耳には、穴があった。
消されたものの代わりではない。なくなった人の墓でもない。
怒りの証拠でも、悲しみの形でもない。
ただ、塞がっていない場所。
誰にも説明しないまま、そこだけが開いていた。
何年もあとになって、私は何度かその最初の穴を塞ごうとした。ピアスを外し、しばらく何もつけずに過ごしたこともある。
けれど、穴は完全には消えなかった。小さな跡が残った。触れると、皮膚の下にわずかな硬さがあった。
身体は、母のようには片づけてくれなかった。
それが救いだったのか、呪いだったのか、今でもわからない。
ただ、あの夏の夜、洗面台の前で初めて耳に穴を開けたとき、私は確かに思った。
これで、何もなかったことにはならない。たとえ誰も何も言わなくても。
そう、ここにだけは――、まだ夜が残っている。




