表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
夜を飼う耳  作者: みたらしわんこ
第一部 穴は黙っている

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

4/9

第四話 最初の穴

 父の灰皿がなくなったのは、八月の終わりだった。

 それまでは、食器棚の上に置かれていた。黒いガラスの、重たい灰皿だった。底の方に細かな傷がいくつもあり、光の当たり方によっては、水の底みたいに鈍く光った。

 父はそれを結婚祝いにもらったと言っていたような気がしたが、誰にもらったのかまでは覚えていなかった。

 私はその灰皿が好きではなかった。

 煙草の匂いが染みついていたし、吸い殻が残っていると、家の中の空気まで古くなるような気がした。

 けれど、なくなってみると、その場所だけが妙に白く見えた。

 食器棚の上には、灰皿があった形に薄く埃が残っていた。母はそこを何度も拭いた。濡れた布巾で、きゅっ、きゅっと音を立てながら、同じ場所を磨き続けた。


「そこ、もう綺麗だよ」


 そう言うと、母は手を止めずに答えた。


「綺麗にしてるの」

「もう綺麗だよ」

「だから、綺麗にしてるの」


 それ以上は言えなかった。


 父が家を出たのは、たしかその三日ほど前だった。

 後から理解したのだが、正確に言えば、父は「出ていった」のではなかった。

 あの日、仕事に行くときと同じように、いつものくたびれた鞄を持って玄関を出た。革靴のかかとを少し鳴らし、行ってくる、と言った。母は台所で朝食の皿を洗っていて、返事をしなかった。

 私は制服のブラウスに袖を通しながら、その声を聞いた。

 父はそのまま帰ってこなかった。

 最初の夜、母はいつも通り夕食を作った。それは今でも鮮明に覚えている。献立は焼き魚と味噌汁と、きゅうりの浅漬け。当然父の分の箸も置いた。私はテレビの音を聞きながら、味のしない魚を食べた。


「遅いね」


 そう言ったのは、私だった。

 母は味噌汁をすすりながら、


「そうね」


 とだけ言った。

 二日目、父の箸は出なかった。

 三日目、灰皿が消えた。

 その早さが、怖かった。

 人がいなくなることより、その人のいた場所が片づいていくことの方が怖かった。

 それから、靴箱の父の靴が一足ずつ減り、洗面所から髭剃りが消え、浴室の隅にあった男性用のシャンプーがなくなった。


 母は何も説明しなかった。

 説明しない代わりに、家を磨いた。

 床を拭く。カーテンを洗う。食器を並べ替える。

 父の本を段ボールに詰める。その段ボールを廊下の隅に置く。

 私は、その段ボールを開けてはいけない気がしていた。開ければ、父の匂いが出てくる。父の匂いが出てくれば、母がまた何かを捨てる。

 そんな気がした。


 当たり前だが、学校では、私の家のことなど誰も何も知らなかった。

 夏休み明けの教室は、日焼けした腕と、湿った制服と、少しだけ変わった髪型で満ちていた。誰かが海に行った話をし、誰かが塾の夏期講習の愚痴を言い、誰かが文化祭の準備について騒いでいた。

 私は自分の席に座り、窓の外の校庭を見ていた。

 蝉の声が、まだ残っていた。

 夏は終わりかけているのに、蝉だけがそれを知らないように鳴いていた。聞いていると、耳の奥が熱くなった。

 あの声は、何かを訴えているのではない。ただ、鳴くようにできているから鳴いている。

 そう思うと、少し羨ましかった。


「透子、文化祭の係、どうする?」


 隣の席の子に聞かれて、顔を上げた。

 顔は浮かぶが、もう名前は思い出せない。


「何でもいい」

「何でもいいって一番困るんだけど」

「じゃあ、余ったのでいい」

「ほんと、欲ないよね」


 その子は笑った。悪気はなかった。

 欲がない。

 その言葉を、一日中どこかで持ち歩いた。

 欲がないのではない。

 欲しいものを言ったところで、それが残るとは限らないだけだ。家の中にあったものは、必要かどうかではなく、母が耐えられるかどうかで消えていく。父の灰皿も、靴も、本も、シャンプーも。

 なら、欲しいと言わない方がいい。

 名前を呼ばないものは、消えても少しだけ痛みが少ない。

 その日の夕方、家に帰ると、玄関に父の傘がなかった。

 黒い長傘だった。持ち手のところに小さな傷があり、雨の日になると父は必ずそれを持って出た。傘立ての奥に、いつも少し斜めに差さっていた。

 それがなかった。

 靴を脱いだまま、しばらく傘立てを見ていた。


「何してるの」


 台所から母の声がした。


「傘」

「え?」

「お父さんの傘、ない」


 少しの沈黙。


「処分したわよ」


 母はそう言った。


「もう使わないから」


 もう使わない。

 その言葉は、玄関の白いタイルの上に落ちて、割れずに残った。

 父は、もうこの家で傘を使わない。雨が降っても、ここから出ていかない。ここへ帰ってこない。

 そういう意味だった。


 母は台所で夕食の支度をしていた。まな板の上で、玉ねぎが細く切られている。包丁の音が一定の速さで続いていた。

 とん、とん、とん、とん。とん、とん、とん、とん。

 母の手は迷わない。泣いてもいないし、怒ってもいない。


「お父さん、帰ってこないの」


 聞いた。

 母は包丁を止めなかった。


「帰ってこないでしょうね」

「どうして」

「いろいろあるの」

「いろいろって何」

「大人の話」

「私、もう子どもじゃない」


 包丁の音が止まった。

 母はゆっくり振り返った。目の下にはクマが残り、疲れた顔をしていた。けれど、その疲れは私に向けられたものではなかった。もっと遠くの、もっと長い場所から来た疲れだった。


「子どもよ」


 母は言った。


「あなたはまだ、子ども」


 その言葉に、何も返せなかった。

 子どもなら、説明されなくていい。

 子どもなら、決められたことだけ受け取ればいい。

 子どもなら、父の傘が消えても、灰皿が消えても、父の靴が消えても、黙っていればいい。

 その夜、私は夕食をほとんど食べなかった。

 母は何も言わなかった。食べなさい、とも、残すなら片づけなさい、とも言わなかった。ただ、私の皿を台所へ下げ、残ったおかずを小さな容器に移した。

 冷蔵庫の扉が閉まる音がした。

 その音で、自分がこの家の中のどこにも置かれていないような気がした。


 父のものは消えていく。

 母は何かを磨き続けている。

 私は子どもだから、知らなくていい。

 けれど、知らなくていいと言われたものの中で、確かに暮らしている。

 部屋に戻ると、窓の外で蝉が鳴いていた。

 夜なのに、まだ鳴いている。


 意味もなく机の引き出しを開けた。中には、使わなくなった文房具や、ヘアピンや、友人にもらったシールが入っていた。その奥に、小さなアクセサリーの箱がある。

 中学のとき、雑貨屋で買った安いピアスが入っていた。まだ穴は開いていなかったから、買っただけで満足して、そのままにしていたものだった。

 白い小さな石がついたピアス。


 子どもっぽいと思った。

 買ったときの自分が、遠くにいるようだった。

 その箱をしばらく見ていた。

 欲しかったものを、欲しかったままにしておくことが、急に恥ずかしくなった。使われないものは、父の傘と同じだ。いつか誰かに、もう使わないから、と言われて捨てられる。

 そっと箱を閉じた。

 

 洗面所へ行くと、母はまだ台所にいた。食器を洗っている音がする。水の流れる音。皿がぶつかる音。母が母であるために出しているような音。

 洗面所の鏡の前に立つ。

 自分の耳を見た。何もない耳だった。

 傷も、穴も、飾りもない。

 母から産まれたときのままの、何も知らない耳。

 それがいまはとても嫌だった。

 父が消えても、母が何も言わなくても、自分の身体だけは何もなかったような顔をしている。朝になれば制服を着て学校へ行き、出席を取られ、文化祭の係を決め、何でもいいと言う。

 そうしているうちに、家の中のものは少しずつ消えていく。

 何かを残したかった。

 父を残したかったのではない。母を責めたかったのでもない。

 自分が何も感じていないわけではないと、どこかに印をつけたかった。

 台所で、母が水を止めた。

 家の中が急に静かになる。


 その静けさの中で、耳に触れた。

 柔らかい耳たぶ。何も起きていない皮膚。少し冷たい指先。鏡の中の自分は、泣きそうな顔ではなかった。怒っている顔でもなかった。

 ただ、何かを待っている顔をしていた。


 その夜のことを、実は細かくは覚えていない。

 無意識に心のどこかに封印しているような、そんなぼんやりとした記憶。

 覚えているのは、洗面台の白さ。

 使った消毒液の匂い。血のついたニードル。

 窓の外の蝉の声。

 母が隣の部屋で引き出しを閉める音。

 耳の奥に走った、短い熱。

 大きな痛みではなかったが、痛い、と思った。

 そのあとで、あぁ、これだけなのか、と思った。


 家の中があんなに変わっていくのに、自分の身体に起きることは、こんなに小さいのかと思った。

 血はほんの少しだけ滲んだ。ティッシュで押さえると、赤い点がついた。それは驚くほど小さく、あっけなかった。

 けれど、鏡の中の耳には、確かに穴があった。

 何もなかった皮膚に、小さな入口ができていた。

 そこに、白い石のピアスを通した。石は安っぽく、洗面所の灯りを受けて、濡れた砂糖の粒みたいに光った。

 似合っているのかどうかはわからなかった。綺麗かどうかもわからなかった。

 ただ、そこにある。

 それだけでよかった。


「透子?」


 遠くから母の声がした。

 体が固くなった。


「お風呂、入るの?」

「うん」

「早く入りなさいね」

「うん」


 母は洗面所の扉を開けなかった。

 そのことに、ほっとした。同時に、少しがっかりした。

 見つかりたかったのかもしれない。怒られたかったのかもしれない。

 何をしてるの、と言われたかったのかもしれない。

 その耳はどうしたの、と聞かれたかったのかもしれない。


 鏡の中の小さな白い石を見た。

 自分でつけた印は、自分にしか見えない。

 それは自由のようでもあり、孤独そのもののようでもあった。


 翌朝、母はすぐに気づいた。

 朝食の食卓で、味噌汁を置く手が一瞬だけ止まった。母の視線が私の左耳に触れた。けれど、何も言わなかった。

 私も何も言わなかった。

 ふたりは向かい合って、黙って朝食を食べた。テレビでは、天気予報士が残暑について話していた。

 今日も暑くなります。水分をこまめに取りましょう。

 画面の中の言葉は、どれもまっすぐで、誰も傷つけなかった。

 食べ終わるころ、母が言った。


「学校、遅れるわよ」


 それだけだった。

 ピアスについては、何も言わなかった。

 その沈黙が、私の中で長く残った。

 怒られなかったことは、許されたこととは違う。

 気づかれなかったわけでもない。

 ただ、触れられなかった。

 家の中では、そういうものが増えていた。どれもそこにあるのに、誰もそれについて話さない。

 

 学校へ向かう道で、何度も耳に触れた。

 最初は痛みを確かめるためだった。

 次は、まだそこにあるかを確かめるためだった。三度目からは、理由がわからなかった。

 ただ、指がそこへ行く。触れると少し熱い。

 熱いと、自分がそこにいるような気がした。

 教室に入ると、隣の席の子がすぐに気づいた。


「あれ、透子、ピアス?」

「うん」

「いつ開けたの?」

「昨日」

「痛くなかった?」


 鞄を机にかけた。


「少し」

「いいなあ。私も開けたいけど、お母さんがうるさくて」


 その子はそう言って、すぐ別の話に移った。文化祭のポスターのこと。クラスの男子のこと。新しく出たアイスのこと。

 相槌を打ちながら、左耳に触れた。

 誰かに見られても、何も変わらなかった。

 母が触れなくても、友人が軽く流しても、穴はそこにあった。

 小さな熱は、午前中ずっと消えなかった。


 授業中、ノートに文字を書きながら、何度も左耳の存在を思い出した。黒板の数式より、教師の声より、窓の外の蝉より、その小さな穴の方が確かだった。

 昼休み、ひとりでトイレに行き、鏡の前で髪を耳にかけた。

 白い石が光っている。何度見ても安っぽい光だった。

 けれど、父の灰皿が消えたあとの食器棚の白さよりは、ずっとましだった。


 その日から、私は穴を持つ人間になった。

 何かが変わったわけではない。

 父は帰ってこなかっただけ。母は掃除をやめなかっただけ。

 家の中の父のものは、少しずつ消えていっただけ。ただ、それだけ。


 学校では文化祭の準備が始まり、蝉の声はいつの間にか小さくなった。

 それでも私の耳には、穴があった。

 消されたものの代わりではない。なくなった人の墓でもない。

 怒りの証拠でも、悲しみの形でもない。

 ただ、塞がっていない場所。

 誰にも説明しないまま、そこだけが開いていた。


 何年もあとになって、私は何度かその最初の穴を塞ごうとした。ピアスを外し、しばらく何もつけずに過ごしたこともある。

 けれど、穴は完全には消えなかった。小さな跡が残った。触れると、皮膚の下にわずかな硬さがあった。

 身体は、母のようには片づけてくれなかった。

 それが救いだったのか、呪いだったのか、今でもわからない。

 ただ、あの夏の夜、洗面台の前で初めて耳に穴を開けたとき、私は確かに思った。

 これで、何もなかったことにはならない。たとえ誰も何も言わなくても。

 そう、ここにだけは――、まだ夜が残っている。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ