第三話 見えない感情
朝、透明なピアスに替えた。
洗面台の鏡は、まだ部屋の暗さを残していた。カーテンを開ける前の光は、何もかもを少しだけ古く見せる。歯ブラシの柄も、蛇口の水垢も、棚の上に置いた消毒液のラベルも、長いあいだ誰にも触れられていなかったもののようだった。
右耳のシルバーリングを外すとき、息を止めた。
外したピアスは、指先の上で小さく冷えていた。三年つけていたものだった。途中で何度か別のものに替えたけれど、その穴にはいつも銀色の輪を通していた。
理由はない。
似合うからでも、気に入っているからでもない。ただ、そこに輪があると、何かが閉じられている気がして落ち着いた。
透明なピアスは、驚くほど頼りなかった。
軽すぎて、通したあとも本当にそこにあるのかわからない。けれど穴の奥に触れると、鈍くしみた。少し顔をしかめ、それから鏡の中の自分を見た。
耳が、いつもより寂しい。
隠しているみたいだと思った。
隠したいものと、消したいものは違うわ。
頭に響く律の声を閉じるように、そっと髪を下ろした。
見えなくなった耳を見て、ようやく少し落ち着いた。見えないのなら、透明でも銀色でも同じだった。自分にしかわからない違い。
そういうものばかりが、私の生活には増えていく。
会社に着くと、朝礼のあとで早瀬さんが経理部へ来た。
「澪田さん、少しお時間いいですか」
「はい」
早瀬さんはノートと数枚の書類を抱えていた。昨日より少し硬い表情をしている。入社二日目の人間は、誰でもそうだ。どこに立っていいかわからない顔をしている。誰に何を聞けばいいのか、どの程度笑えばいいのか、まだ測っている。
「経費精算のやり方を教えていただくように言われて」
「今、大丈夫ですよ」
椅子を少し横へずらし、早瀬さんに隣の席を勧めた。
「早瀬さん、システムは開けますか」
「あ、はい。昨日、ログインだけはできました」
「なら、準備は完璧です」
早瀬さんは、慣れない手つきでノートパソコンを開いた。画面が明るくなる。爪は短く切られていて、薄い透明のマニキュアだけが塗られていた。
飾っていない手だと思った。
けれど、荒れてはいない。丁寧に使われている手だった。
経費精算の画面を見ながら、順番に説明した。交通費、会議費、資料購入費。領収書の添付方法。申請期限。差し戻しになりやすい項目。編集部の人間がよく間違える箇所。
早瀬さんは頷きながら、こまめにメモを取った。字は丸くも尖ってもいない。可愛くて女子らしく読みやすい字だった。
「すみません、ここもう一回いいですか」
「はい。ここだけは、税込金額を入れてください。税抜きで入れると、あとで差額が出ます」
「なるほど。私、絶対間違えそうです」
「最初はみんな間違えます」
「澪田さんも間違えましたか」
少し考えた。
「一回だけ」
「一回だけですか」
「たぶん」
早瀬さんは笑った。声を立てない、短い笑い方だった。
「すごいですね」
「同じ間違いをするのが嫌なだけです」
「それ、すごいです」
「すごくはないです」
会話はそこで切れた。
けれど、不快な沈黙ではなかった。早瀬さんは無理に話題を足さなかった。私が黙ると、黙ったまま画面を見ていた。その距離の取り方が、少し珍しかった。
説明が終わるころ、名前を知らない若い男性が慌ただしく入ってきた。
「澪田さん、すみません。これ、今日中に処理できます?」
紙の束がバサッと机の上に置かれる。編集部の社員のようだ。著者への追加支払いの書類だった。締切を過ぎている。一枚目に目を通し、必要な押印がないことを確認した。
「承認印がありません」
「あ、やっぱり必要ですか」
「必要です」
「メール承認じゃだめですか」
ダメなものはダメ。ルールはルール。そういっているのに、伝わらないのが歯がゆい。
「規程上、原本が必要です」
「今日振り込みたいんですよね」
「今日処理するなら、十五時までに承認印をもらってください」
男性は困ったように笑った。
「なんとかなりません?」
相手の顔ではなく、書類を見た。
「なりません」
言い方は強くなかったと思う。けれど男性は少し肩をすくめた。
「澪田さん、厳しいなあ」
「規程です」
「はいはい。もらってきます」
はーっとうなだれて男性が出ていくと、早瀬さんが隣で小さく息を吐いた。
「大変ですね」
「いつものことです」
「でも、ああいうの断るの、疲れませんか」
「疲れます」
意外なほど素直に答えていた。
早瀬さんは一瞬だけこちらを見て、それからまた画面に目を戻した。
「ちゃんと疲れるんですね」
その言葉に、少しひっかかった。
「どういう意味ですか」
「あ、悪い意味じゃなくて。澪田さん、全部淡々とできる人に見えたので」
「淡々とできてるように見えるだけです」
「それって、できてるのと違うんですか」
答えなかった。違うと思った。
けれど、何が違うのか説明できなかった。
外から見れば、同じなのかもしれない。きちんと出社し、仕事を終え、必要なことを言い、不要なことは言わない。泣きも怒りもしない。それなら、できている人に見える。
できているように見えることと、本当にできていることのあいだには、誰にも見えない薄い膜がある。
私はその膜の内側で、毎日少しずつ息をしている。
「すみません、変なこと言いました」
少し気まずい顔で、早瀬さんが言った。
「いえ」
画面を指さした。
「次、領収書の添付方法にいきますね」
そのあと、早瀬さんは余計なことを一切言わなかった。
昼休み、いつものように一人でコンビニへ行った。おにぎりを選ぶ前に、棚の前で少し立ち止まる。
鮭。昆布。梅。ツナマヨ。
正直どれでもいい。
どれでもいいものを選ぶのは、意外と時間がかかる。
結局、梅を取った。
会計を済ませて会社へ戻ろうとすると、入口のところで早瀬さんに会った。手にはサンドイッチと温かいペットボトルのお茶を持っている。
「あ、澪田さん」
「お疲れさまです」
「お昼、これからですか」
「はい」
「いつもどこで食べてます?」
「自席です」
「私も自席で食べていいですかね」
「いいと思います」
そこで終わるはずだった。
けれど、早瀬さんは少し迷ってから言った。
「隣で食べてもいいですか」
返事に困った。
断るほどの理由はない。けれど、受け入れるほどの理由もない。誰かと昼を食べると、何か話さなければならなくなる。食べ物の味。天気。前の職場。好きな本――。
どれも答えられる。
答えられるけれど、昼休みにまで自分の輪郭を整えておくのは疲れる。
「静かでよければ」
そう言った。
早瀬さんは笑った。
「静かな方が助かります」
その言葉が本当かどうか、わからなかった。
けれど、早瀬さんは本当に静かに食べた。自席に戻ると、ふたりは向かい合うでもなく、斜めに座ってそれぞれの昼食を開いた。近くの席では、編集部の人間が校了前の原稿について話している。誰かが笑い、誰かが電話を取り、コピー機が紙を吐き出す。
梅のおにぎりを一口食べた。
酸っぱかった。
今日は味がわかる日だと思った。
「澪田さん」
早瀬さんが小さく呼んだ。
「はい」
「出版社って、もっと本の匂いがすると思ってました」
少しだけ口元が動いた。
「実際はコーヒーとコピー機の匂いですね」
「あと、ちょっと焦げたみたいな匂いしません?」
「コピー機です」
「やっぱり」
早瀬さんは真面目な顔で頷いた。
それがおかしくて、少しだけ笑った。笑ったあとで、自分が笑ったことに気づく。笑い声というほどではない。けれど、喉の奥がほんの少し開いた。
早瀬さんはそれを大げさに拾わなかった。
それがとても心地よかった。
「早瀬さんは、前も出版社ですか」
聞いてしまった。静かにしているって決めたのに。
「一架」
「え?」
「あ、よかったら、一架って呼んでください。名前のほうが好きで」
少しはにかんだような笑みを浮かべながら、早瀬さんは言った。
「いえ。前は小さい広告会社です。ずっと文章まわりの仕事はしてたんですけど、本は初めてです」
「一架さんは、編集希望ですか」
「はい。でも、希望って言うとちょっと明るすぎる感じがしますね」
「明るすぎる?」
「入りたかったけど、入ったからって何かになれるわけじゃないなって、昨日思いました」
「昨日ですか」
「はい。早いですよね」
一架はサンドイッチの包みを畳みながら言った。
「でも、たぶん最初に思っておかないと、あとで勝手に裏切られた気持ちになるので」
一架を見た。
この人も、明るい場所にいるようで、光を信用していないのかもしれない。そう思った。
けれど、口には出さなかった。口に出すと、相手を自分の暗さの側へ引き寄せることになる。
「それは、いいことかもしれません」
「そうですか」
「期待しすぎない方が、続くので」
一架は少しだけ考えるようにして、それから頷いた。
「澪田さんらしいですね」
「知り合って二日で、らしさはわからないと思います」
「たしかに」
一架はまたけらけらと笑った。
昼休みが終わる直前、無意識に右耳へ手を伸ばしかけた。指先が髪に触れる。その瞬間、律の字が頭に浮かんだ。
触らない。数える。眠る。
手を止めた。
一架がそれに気づいたかどうかはわからない。彼女は何も言わず、空になったサンドイッチの袋をさらに小さく畳んでいた。
午後は、いつもより少し長かった。
十五時前、朝の男性が上長の承認印をもらって戻ってきた。書類は揃っていた。処理を進め、振込データを作成し、確認者へ回すために席を立った。
淡々と動く。淡々と動ける。淡々と動けてしまう。
右耳には、透明なピアスが入っている。
見えないのに、ある。
その感覚が一日中、私の端に残っていた。
終業後、一架が経理部の入口に顔を出した。
「澪田さん、今日ありがとうございました」
「いえ」
「申請、たぶん一回は間違えると思います」
「差し戻しますので大丈夫です」
「容赦ないですね」
「仕事なので」
「はい。よろしくお願いします。では、お先に失礼します」
一架は帰っていった。
廊下の向こうへ消える小さな背中を見ながら、右耳に触れた。
触れてから、気づいた。
今日、一回目。
メモ帳は鞄の中だった。席に戻り、小さな手帳を出して、日付の横に線を引いた。
一本目。
朝、ピアスを替えたときに触れたのは数えないことにした。あれは必要な作業だった。触ったのではなく、替えただけだ。
そうやって自分の中に、細かい例外を作る。
例外は、いつも少しだけ人を生かす。
帰り道、燐の前を通る必要のない路線を選んだ。行けば開いているかもしれないと思うと、近づきたくなかった。
行かないと決めている店が、同じ場所で同じ時間に灯りをつけている。
その事実だけで十分だった。
部屋に帰ると、昨日キッチンの端に置いた折れた花が、さらにしぼんでいた。花びらは薄い紙のようになり、触れたら崩れそうだった。
それを見て、今度こそ捨てようと思った。
ゴミ箱のふたを開ける。中には、空のヨーグルト容器と、丸めたレシートと、昨日使った綿棒が入っている。
そこへ花を入れることが、どうしてもできなかった。
小さな皿を出し、花をその上に置いた。
それはもう花ではなく、花だったものだった。
けれど、花だったものにも、形は残る。
夜、母からの着信はなかった。
それだけで、部屋が少し広く感じた。広い部屋は、必ずしも楽ではない。声がないぶん、自分の中の音がよく響く。
シャワーを浴び、髪を乾かし、右耳が濡れていないか確認した。透明なピアスは、鏡の中でほとんど見えない。耳に小さな穴だけが残っているように見えた。
痛みは少し引いていた。
よくなっているのかもしれない。そう思った瞬間、不安になった。
痛みが引くことは、普通なら良いことだ。腫れが治まり、皮膚が落ち着き、身体が元に戻っていく。
けれど私には、その「元」がどこなのかわからなかった。痛くない自分。腫れていない耳。触らなくても平気な夜。そういうものを、あまり信用していない。
痛くないふりならできる。
でも、本当に痛くなくなったとき、自分が何を目印にすればいいのか、わからない。
ベッドに入る前に、メモ帳を開いた。
日付の横に、一本の線。
今日は一回だけ。
正確には、朝、替えた。昼、触りかけた。夕方、触れた。夜、確認した。数え方によっては、四回だっただろう。
けれど、一本の線を見て、今日は一回だけだと思うことにした。
嘘ではない。
ただ、全部ではない。人はたいてい、そうやって自分を保っている。
スマートフォンが震えた。
母かと思って身体が固まったが、画面には知らないメールアドレスが表示されていた。件名は、燐からのアフターケア案内だった。
短い文章。
【昨日の処置について、赤みが強くなるようなら連絡すること。触らないこと。眠るときに圧迫しないこと。】
最後に、一文だけ手書きのような言葉が添えられていた。
【痛みを確かめるために、痛みを増やさないこと。】
その文を何度か読んだ。
意味はわかる。
けれど、わかりたくなかった。
痛みを確かめるために、痛みを増やさないこと。
そんなことができるなら、最初から穴など開けていない。
スマートフォンを伏せ、部屋の電気を消した。
暗闇の中で、右耳の透明なピアスが見えるはずはなかった。それでも、そこだけが薄く光っているような気がした。
眠りは、すぐには来なかった。
目を閉じると、今日の一架の声が浮かんだ。
ちゃんと疲れるんですね。
ちゃんと。
その言葉が、妙に残っていた。疲れていることを見つけられたのではない。疲れていてもいいと言われたわけでもない。ただ、ちゃんと疲れる、と言われただけだ。
暗闇の中で、右耳に手を伸ばした。
指先が髪に触れる。
そこで止まる。
触れば、二本目の線を引かなければならない。触らなければ、一本のままでいられる。
一本の線が、今日の私を守っている。そんな細いものに守られていることが、少しおかしかった。
目の上に手を下ろした。
目を閉じても眠れないまま、夜がどんどん深くなっていく。
午前二時十七分。目を閉じたまま、その時間を見たような気がした。
画面は確認していない。けれど、身体のどこかに、時間を覚えている場所がある。
耳ではない。もっと奥。穴を開けても届かないところ。
そこに触れないように、両手を毛布の中にしまった。
痛くないふりなら、いくらでもできる。
痛くないふりをしているうちに、本当に痛くなくなる人もいるのだろう。
そういう人を、少し羨ましいと思う。羨ましいと思うことすら、どこか遠い出来事のようだった。
窓の外で、車が一台大きな音を立てて通り過ぎた。
部屋の暗さが一瞬だけ崩れ、すぐにまた元に戻った。
右耳の奥で、透明なものがじくじくと静かに疼いていた。




