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夜を飼う耳  作者: みたらしわんこ
第一部 穴は黙っている

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第二話 燐

 翌朝、雨はやんでいた。

 窓ガラスには、夜のあいだに残された細い水の跡が、何本も縦に走っていた。それを見ながら、昨夜予約を入れたことを少しだけ後悔した。


 朝になると、夜の決断はたいてい薄汚れて見える。

 暗い部屋でなら正しかったものが、白い光の下では急に子どもじみて、恥ずかしいものになる。


 右耳はまだ熱を持っていた。

 洗面台の前で髪を耳にかける。昨日より赤みが増した気もするし、そうでもない気もする。こういうものは、気にしはじめるといくらでも悪く見える。

 消毒液を綿棒に含ませ、穴のまわりをそっと拭いた。


 しみる。

 その痛みに、少しだけ安心する。

 痛みは、曖昧ではない。痛いものは痛い。

 誰かに説明しなくても、身体だけは間違えない。


 朝食は取らなかった。冷蔵庫から麦茶を出して、グラスに半分だけ注いだ。飲み終えてから、花瓶の花に目が止まる。

 白い花はさらにうなだれていた。花びらの端が、昨日より深く茶色になっている。

 捨てようと思った。

 けれど、ゴミ箱に入れるところまで想像して、やめた。

 花を捨てるには、朝はまだ明るすぎた。


 職場に着くと、入口の前で三浦さんが誰かと電話をしていた。私に気づいて、軽く頭を下げる。こちらも同じように返す。

 声を出さない挨拶は楽だった。

 朝から喉を使わずに済む。

 経理部の空気は、いつも少し乾いている。コピー機の温度、古い書類の匂い、誰かの飲みかけのコーヒー。

 席に着き、パソコンを立ち上げた。画面が明るくなるまでの数秒間、黒い画面に自分の顔が映る。

 まだ眠っている人間の顔だった。


 メールが三十七件届いていた。

 そのうち急ぎは六件。

 確認が必要なのは十一件。

 返事をすれば済むものが九件。

 残りは、後回しにしても誰も困らない。

 そうやって分類していると、胸の中が少しだけ整う。世界は、正しく分ければ扱える。至急、要確認、返信済み、保留。

 人の感情もそうできればいいのに、と思う。

 けれど実際には、母の声も、父の不在も、昨夜の二時十七分も、どの箱にも入らない。


「澪田さん」


 名前を呼ばれて顔を上げると、総務の加納さんに連れられて、入口に見慣れない女性が立っていた。


「今日から編集部に入る早瀬さん。経費精算のことで、あとで説明お願いしてもいい?」

「あ、はい」


 早瀬と呼ばれた女性は、こちらに向かって軽く頭を下げた。


「早瀬一架です。よろしくお願いします」

「澪田です。経理にいます」


 それだけ言うと、早瀬さんはもう一度頭を下げて、加納さんに連れられて廊下の向こうへ行った。

 かわいらしい小動物のような雰囲気のある、明るそうな人だなと思った。

 ただ、その明るさには奇妙な静けさがあった。よくいる、場を埋めるために笑う人間とは少し違う。声は柔らかいが、余計に踏み込まない。

 早瀬さんの後ろ姿を見送りながら、耳の熱を思い出した。


 午前中は、ほとんど数字を見て過ごした。

 作家への支払い。印刷会社からの請求書。外部校正者への報酬。交通費の領収書。ひとつひとつは小さいが、積み重なると誰かの一か月になる。

 そのことを、いつも少しだけ不思議に思う。

 誰かが書いた言葉が本になり、その本が売れ、売れた数に応じて数字が動く。数字はやがて銀行口座に入り、その人の生活になる。

 言葉で生きている人たちのそばで、私は言葉を数字に置き換えていた。


 昼休み、コンビニで買ったおにぎりをひとつ食べた。具は鮭だった。味は美味しいのかどうかよくわからなかった。

 午後三時ごろ、右耳の熱が少し強くなった。

 トイレに立ち、個室の中で髪をかき上げた。

 ――触らない。

 そう思っていても、やっぱり触れてしまった。

 穴の縁が硬い。小さな芯のようなものができている。腫れているのか、気のせいなのか。

 母に見られたら、だから言ったのに、と言うだろう。

 言わなくても、きっとそういう顔をするだろう。


 だから言ったのに。

 私はその言葉が嫌いだった。

 それは、相手を心配しているふりをしながら、ほんとうは自分が正しかったことを確認する言葉だった。

 母は昔からよくそう言った。

 だから言ったのに、寒いから上着を着なさいって。

 だから言ったのに、あの子とは付き合わない方がいいって。

 だから言ったのに、お父さんはそういう人だって。


 高校二年の夏、父が家を出たあと、母は一度だけそう言った。

 だから言ったのに。

 誰に向けた言葉だったのか、私にはわからない。父に向けたのか、母自身に向けたのか、それとも、何も知らずに父の帰りを待っていた私に向けたのか。

 トイレの個室の中で、深く長い息を吐いた。


 仕事が終わったのは、午後六時半を少し過ぎたころだった。

 燐の予約の時間は七時半。ギリギリだが行こうと思えば、まだ間に合う。

 行かない理由もいくらでもあった。

 耳の腫れはたいしたことがない。

 初めての店は面倒だ。

 知らない人に耳を見せたくない。

 明日にしてもいい。そもそも、行く必要なんてない。

 必要のあることだけで生きていたら、この社会はどれほど楽だろうか。


 鞄を持って、会社を出た。

 燐は、会社から電車で三駅離れた町にあった。

 大きな駅ではない。改札を出ると、古い商店街が細く伸びている。シャッターを下ろした店が多く、ところどころに新しいカフェや整体院が入っている。

 古いものが完全に死ぬ前に、別のもので上から薄く塗られていくような通りに感じた。

 スマートフォンの地図アプリが示す場所には、灰色の雑居ビルがあった。


 一階は鍵屋、二階は古い歯科医院、三階に燐。入口のガラス扉には、いくつものチラシが雑多に貼られていた。英会話教室の生徒募集。整体の初回割引。なくした鍵、作ります。

 どれも少し色褪せている。

 狭い階段を上った。踊り場の蛍光灯は、片方が切れかかっていた。白い光が点いたり消えたりするたびに、壁の汚れが別の模様に見える。

 三階の廊下の奥に、小さな木の扉があった。

 扉の横に、白い紙に手書きで書いたようなおしゃれな看板がかかっている。


 【燐。】


 それだけだった。

 インターホンを押すと、中から低い声がした。


「どうぞ」


 扉を開けると、消毒液のような匂いがした。

 けれど病院の匂いではなかった。古い木の匂いと、金属の冷たい匂いと、何か乾いた草のような匂いが混ざっているような気がした。

 部屋は狭く、壁際に小さなガラスケースが置かれていた。ケースの中には、ピアスや小さな石、銀色の輪、細いチェーンがところ狭しと並んでいる。照明は明るすぎず、影がぼんやりと残っていた。


 ぼーっとガラスケースを眺めていると、奥からひとりの女性が出てきた。

 白髪まじりの髪を後ろでひとつに結んでいる。黒い長袖のシャツに、黒いパンツ。首元にも、手首にも、派手なものは何もつけていない。

 年齢は五十代後半くらいに見えたが、顔立ちのせいか、もっと若くも、もっと年上にも見えた。


「澪田さん?」

「はい」

「佐伯律です」


 佐伯律。

 その名前は、予約確認のメールに書かれていた。軽く頭を下げる。


「右耳の相談、でしたね」

「はい」

「座って」


 律さんは、と言いかけてやめた。

 律の言葉には、余分な柔らかさがなかった。

 冷たいのではない。

 ただ、客を安心させるための笑顔を作らない人なのだと思った。

 促されるまま、窓際の小さな椅子に座った。


「見ても?」

「はい」


 髪をかき上げる。

 人に耳を見せるのは、少し恥辱に似ている。裸になるよりも、もっと繊細で細かいところを見られている感じがする。

 耳には、その人が隠したいものが残る。どこに穴を開けたか。どこで失敗したか。どの穴を放っておいたか。どの飾りを捨てられなかったか。

 律は手袋をつけ、私の右耳をそっと支えた。

 指が冷たかった。

 ぐっと肩に力が入る。

 律は何も言わず、ライトを当てて穴のまわりを見る。沈黙が長い。けれど、その沈黙は不思議と急かしてこない。


「いつ開けた穴?」

「三年くらい前です」

「三年」


 律はその言葉を、確認するように繰り返した。


「自分で?」


 少し迷ってから、頷いた。


「はい」

「ピアッサー?ニードル?」

「ニードルです」


 私は、ピアスを開けるときはニードルしか使わない。ピアッサーは一瞬で終わってしまうのが嫌だったのだ。自分で感じる痛みには、必ず意味がある。


「そのときも、腫れた?」

「少し」

「少し、ね」


 律は綿棒で軽く穴の周囲をなぞった。

 小さく息を吸った。


「痛い?」

「少し」

「嘘ね」


 律を見た。

 律は表情を変えず、綿棒を捨てた。


「痛いなら、痛いって言えばいいの。ここでは我慢しても、誰も褒めない」


 その言い方に、少しむっとした。


「別に、我慢してるわけじゃないです」

「そう」


 律はそれ以上言わなかった。

 その沈黙が、かえって中に残った。言い返したいのに、相手が戦う姿勢を見せないので、怒りの置き場所がない。


「たいしたことないですか」

「今のところはね。けど、触りすぎ」

「触ってません」


 律は私の耳を見たまま、少しだけ口元を動かした。笑ったのかもしれない。


「指の癖は、皮膚に残る」


 黙った。

 律は消毒の説明をし、いくつか注意をした。

 枕カバーを替えること。髪が触れすぎないようにすること。しばらくはそのピアスを外さないこと。ひどくなる場合は、シリコンチューブを入れること。

 どれも聞いたことのある内容だった。

 けれど律が言うと、生活の細部にまで穴が続いているように思えた。枕。髪。手。眠る姿勢。すべてが、耳を通して私の内側につながっている。


「新しく開けたい場所がある?」


 急に聞かれて、一瞬答えられなかった。


「どうして」

「顔に書いてある」

「書いてないです」

「じゃあ、耳に書いてある」


 髪を下ろそうとした。律はもう手を離していた。


「どこ?」


 迷った。

 来る前から、場所は決めていた。右耳の上、まだ何もない耳の縁。ヘリックス、と呼ばれている場所だが、耳の部位名に興味はない。

 ただ、そこに穴を開ければ、昨日の母の声も、二時十七分も、少しは静かになる気がした。

 言いたくないと思った。

 けれど、言わなければ来た意味がないとも思った。


「ここです」


 指で耳の縁を示した。

 律はその場所をじっと見た。

 長い沈黙があった。


「そこは、今じゃなくていいんじゃない」


 私の中で、何かが硬くなった。


「予約しました」

「今日は相談でしょ」

「開けられないってことですか」

「開けられるよ」


 意味がわからない。


「じゃあ」

「開けられることと、今開けた方がいいことは違う」


 言葉をさえぎって、律は私が座っている椅子の肘掛けを握った。

 わかったようなことを言う人だと思った。

 母とは違う。母の言葉は、もっと湿っている。心配と支配が同じ袋に入っている。律の言葉はどこか乾いていた。

 乾いているのに、なぜか痛い。


「私の耳ですよね」

「そうね」

「なら、私が決めることじゃないですか」

「そうね」

「じゃあ、どうして止めるんですか」


 律は手袋を外した。薄いゴムの擦れる音がした。


「止めてない」

「同じことです」

「違うわ。止めるのは、あなたの選択を奪うこと。私は、今のあなたの耳を見て、今日はやめた方がいいと言ってるだけ」

「耳だけで、そんなことわかるんですか」

「わからないわ」


 律は淡々と言った。本当に意味が分からない。


「でも、耳に出るものはある」


 返事をしなかった。いや、返事が出なかった。

 部屋の中で、時計の音が聞こえた。どこにあるのか見えない。窓の外には隣のビルの壁があり、その壁に小さな非常階段がついている。

 夜の初めの青さが、鉄の手すりに残っていた。


「穴はね」


 どこか遠い目をしながら、ゆっくりと律が言った。


「増やせば逃げ道になるわけじゃないの」


 その言葉を聞いた瞬間、立ち上がりたくなった。

 逃げているわけじゃない。

 そう言いたかった。

 けれど、本当にそうなら、言えばよかった。

 言えないことが、腹立たしかった。

 逃げているわけじゃない。痛みがほしいわけじゃない。壊れたいわけじゃない。誰かに見てほしいわけでも、止めてほしいわけでもない。

 ただ、夜が身体の中に溜まる。

 それをどう説明すればいいのか、私にはわからなかった。


「今日は処置だけにしましょう」


 律はガラスケースの方へ行き、小さな袋を取り出した。


「これ、使って。今つけてるのより刺激が少ない」

「買えってことですか」

「いらないなら、買わなくていい」


 律は袋をカウンターに置いた。

 中には、小さな透明のガラスピアスが入っている。飾り気のない、ほとんど見えないもの。つけても誰にも気づかれないだろう。


「透明なの、嫌いです」

「どうして」

「隠してるみたいだから」

「隠したいんじゃないの?」


 きっと、律を睨んだ。

 律は、その視線を避けなかった。けれど受け止めるというほど、熱もなかった。ただ、そこに置かれたものを見るように、私を見ていた。


「隠したいものと、消したいものは違うわ」


 何も言わなかった。

 その言葉の意味を考えたくなかった。考えると、また母の声が戻ってくる。

 もういい歳なんだから。

 少し落ち着いても。

 黒い服はちゃんとしたやつ。

 耳のあれ。

 絶え間なく浮かぶ母の声を反芻しながら、それを忘れるようにごそごそと財布を出すことに集中した。


「買います」

「無理に買わなくていい」

「買います」


 律はそれ以上何も言わず、会計をした。レシートを渡す手つきは丁寧だった。

 客として扱われている。

 突き放されてもいないし、慰められてもいない。その中途半端さが、私を落ち着かなくさせた。

 店を出る前、律が言った。


「一週間、触らないで」

「無理です」


 口に出してから、自分でも驚いた。

 律は少しだけ眉を上げた。


「じゃあ、一日に触る回数を数えて」

「数えたら、どうなるんですか」

「何も変わらないかもしれない」

「意味ないですね」

「意味があるものだけで生きてたら、すぐ壊れるわ」


 その言葉は、店の照明の下では何でもないもののように聞こえた。

 けれど扉を閉めて階段を下りる途中で、なぜか足が止まった。

 意味があるものだけで生きていたら。

 階段の壁には、古い傷がいくつもついていた。何かを運ぶときにぶつけた跡。誰かが傘の先で突いたような跡。塗装が剥がれ、下の灰色が見えている。

 傷は、その場所でずっと黙っている。直されることもなく、説明されることもなく。

 

 商店街のアーケードには、夜の光が薄く滲んでいる。鍵屋はもう閉まっていた。シャッターには、「合鍵三分」と赤い文字で書かれている。

 三分で作れる鍵と、一生かかっても開かない扉のことを、少しだけ考えた。


 帰りの電車で、袋の中の透明ピアスを何度も指で触った。

 触るなと言われた耳には触れず、その代わりのように、袋を触った。中の小さなものが、かすかに音を立てる。ほとんど聞こえない音。

 けれど、その音がずっと耳の奥に残った。

 部屋に戻ると、花瓶の花が一本、完全に折れていた。

 茎の途中で曲がり、白い花がテーブルに触れている。しばらくそれを見てから、折れた一本だけ抜き取った。

 ゴミ箱に入れようとして、またやめた。

 キッチンの端に置く。

 もう水を吸えないものにも、置き場所くらいは必要だと思った。


 洗面台の前に立ち、律に言われた通り、右耳を確認する。透明なピアスに替えるのは明日の朝でいい。今触ると、また余計に腫れる気がした。

 ――触らない。

 両手を洗面台の縁に置いた。

 鏡の中の自分は、何かを我慢している顔をしていた。けれど、何を我慢しているのかはわからない。

 泣くことか。怒ることか。それとも、穴を開けることか。

 母に電話をかけ直して、あれは私の耳だと言うことか。


 一日に触る回数を数えて。

 律の声が戻ってくる。

 小さなメモ帳を開き、日付を書いた。


 その横に、一本だけ線を引く。


 今日、一回目。

 正確には、もっと触っている。朝も、昼も、会社でもトイレでも、駅でも触った。けれど、数え始めたのは今だから、一回目でいいことにした。

 自分で決めた小さな嘘は、誰も傷つけない。

 そう思って、メモ帳を閉じた。

 眠る前、燐のショップカードを財布から取り出した。

 白い厚紙に、黒い文字で店名と住所だけが印刷されている。余白の多いカードだった。裏返すと、手書きで小さく何かが書かれていた。

 

 【触らない。】

 【数える。】

 【眠る。】


 律の字は、細くて硬かった。

 しばらくその三つの言葉を見ていた。

 触らない。数える。眠る。


 どれも簡単なことのように見えた。

 簡単なことほど、人を追い詰める。

 部屋の電気を消すと、暗闇の中で右耳だけが熱を持っていた。

 手を伸ばしかけて、止めた。止めた指先が、宙で迷った。

 触らない。そう思うこと自体が、もう触れているのと同じ気がした。

 午前二時を過ぎても、眠りは来なかった。

 けれどその夜、耳に触れなかった。

 少なくとも、触れたと数えられるほどには。


 暗闇の中で、「燐」という一文字だけが、まぶたの裏に残っていた。

 燃えるほど明るくはない。

 でも消えるほど暗くもない。

 それはただ、何かが燃え残っているような字だった。


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