第一話 膿み始めた記憶
ピアスホールは、塞がったふりをする。
私は、そう思っている。
皮膚の表面だけがなめらかになっても、そこに穴があったことを、身体は案外忘れない。髪を耳にかけるとき、タオルで水気を押さえるとき、誰かに横顔を見られたとき。ふいに、そこだけが少し冷える。
もう痛くない顔をして、皮膚の色にまぎれ、そこで黙っている。けれど雨の日や、眠れない夜や、誰かに名前を呼ばれた瞬間に、ふいに奥の方で疼く。
私はそれを、身体がまだ覚えているからだと信じていた。
心より先に、皮膚が忘れることを拒んでいるのだと。
左耳のいちばん下にある穴に、指先で触れた。
そこは、最初の穴だった。
高校二年の夏。古い洗面台の三面鏡。遠くで鳴っていた蝉の声。母が隣の部屋で掃除機をかけていたこと。父の使っていた灰皿が、いつの間にか食器棚の上から消えていたこと。
覚えているのは、そういう細かいことばかりで、肝心なことは大抵いつもぼやけている。
あの日、私は泣いていなかった。泣けなかったのではない。
泣いたら、父がいなくなったことを認めてしまう気がした。あるいは、母が何もなかったように床を掃除していることを、許してしまう気がした。
だから私は、泣くかわりに耳に穴を開けた。
今では左右合わせて十個ある。
職場の人間は、たぶん正確な数を知らない。知る必要もない。髪をおろしていれば、ほとんどは隠れる。見えるのは、耳たぶに並んだ小さな銀色だけで、たまに職場の同僚が「澪田さん、意外とロックですよね」と笑う。
そのたびに曖昧に笑って、「昔からです」とだけ言う。
――昔から。
便利な言葉だった。
それ以上、誰も入ってこられない。
出版社の経理部は、建物の四階にあった。窓の向こうには隣のビルの壁しか見えず、午後になると、壁に取り付けられた古い換気扇が影を落とす。
私の机は入口から二番目で、右側には未処理の請求書、左側には確認済みの契約書が積まれている。毎日、紙の束が右から左へ移動する。月末にはまた右側に戻ってくる。
仕事は嫌いではなかった。
嫌いになるほど、そこに自分を置いていなかった。
数字は、間違っていれば赤くなる。振込先は、違っていれば確認がくる。締切は、カレンダーの上に四角く囲める。そういうものは、扱いやすかった。少なくとも、人の言葉よりは。
午後六時二十七分、最後のメールを送信したとき、窓の外はもう暗くなり始めていた。隣の席の三浦さんが、ことんと椅子を鳴らして立ち上がる。
「澪田さん、今日も残るんですか」
「少しだけ」
三浦さんはそう言って、すぐに自分のコートを羽織った。
「無理しないでくださいね」
「ありがとうございます」
無理しないでくださいね、という言葉は、階段の踊り場あたりで忘れられる。それでよかった。本気で心配される方が面倒だ。
オフィスに人が減ると、蛍光灯の音がよく聞こえる。細く、持続する音。透明な虫が天井の中で羽ばたいているような音だった。
ふと、右耳の上の方に触れた。
少し熱を持っている。
昼過ぎから、気づいていた。軟骨に開けた古い穴のひとつが、わずかに腫れている。触らない方がいいとわかっているのに、指は何度もそこへ行った。
皮膚の下に、小さな不機嫌が溜まっているようだった。
スマートフォンが震えた。
画面には、母の名前が出ていた。
でも、すぐには取らなかった。
二度、三度、震える。机の上で、黒い端末が小刻みに鳴っている。電話に出なければ、この振動はやがて止まる。けれど、止まったあとに残るものの方が、いつも長かった。
「はい」
諦めて通話ボタンを押す。
声を出すと、自分のものではないみたいに乾いていた。
「あ、透子? 今、大丈夫?」
「うん」
「仕事中?」
「もう終わったところ」
「そう。ならいいんだけど」
母は、ならいいんだけど、と言ってから、本題に入るまでに必ず少し間を置く。
その間に、私はいつも身構える。
急な病気。
親戚の不幸。
金の話。
あるいは、もっと小さくて、もっと避けがたい何か。
「来月の法事、覚えてる?」
「覚えてる」
「本当に? あなた、そういうの忘れそうだから」
「カレンダーに入れてる」
「ならいいんだけど。黒い服、ある?」
「あるよ」
「ちゃんとしたやつ?」
机の上の契約書の角を揃えた。
「ちゃんとしたやつ」
「そう。あのね、別にうるさく言うつもりはないんだけど」
出た、と思った。
うるさく言うつもりはない。
気にしなくていいんだけど。
お母さんは別にいいんだけど。
母のそういう前置きは、いつも小さな針のように先が尖っている。刺すつもりはないと言いながら、すでに皮膚に触れている。
「その、耳のあれ。法事のときは少し外してきたら?」
言葉に詰まり、黙った。
「親戚の人も来るし。ほら、あなたももう子どもじゃないんだから。仕事では大丈夫なの?」
「大丈夫」
「本当に? 今どきはそういうの、普通なのかもしれないけど。お母さんの感覚が古いのかもしれないけどね」
母は笑った。電話越しの笑い声は、薄いビニール袋をこすったみたいに聞こえた。
「別に、悪いって言ってるんじゃないのよ。ただ、もういい歳なんだから、少し落ち着いてもいいんじゃないかなって」
耳の奥で、血が動く音がした。
右手で受話口を少し離し、息をした。吐く方が難しかった。
「そうだね」
口から出た声は、思いのほか穏やかだった。
「怒った?」
「怒ってない」
「すぐそうやって黙るから。お母さん、何も言えなくなるじゃない」
「怒ってないよ」
「ならいいけど。あなた、昔から何考えてるかわからないところがあるから」
机の端に置かれたクリップを見ていた。銀色の細い線が、いくつも重なって小さな箱に入っている。どれも同じ形をしているのに、何度も何度も書類を挟んだことで、少しずつ歪んでいた。
「法事、何時だっけ」
「十一時。十時半には来て。遅れないでね」
「わかった」
「あと、寒くなってきたから身体に気をつけなさい」
「うん」
「ちゃんと食べてる?」
「食べてる」
「ならいいけど」
母は最後にもう一度、ならいいけど、と言って電話を切った。
通話時間は六分四十二秒だった。
スマートフォンを机に伏せた。画面が見えなくなると、少しだけ静かになった気がした。けれど、それは錯覚だった。
耳の奥の音は消えない。
熱を持った穴が、指先を呼んでいる。
――触らない。
そう思って、もう一度触った。
古い穴の縁が、かすかに膨らんでいた。痛みというほどではない。けれど、そこにある、とわかる程度の違和感。
身体の中にある暗いものが、出口を探しているのだ。
パソコンを閉じた。
鞄に財布とスマートフォンを入れ、机の上の書類を一度だけ確認する。右から左へ、左から引き出しへ。すべて終わっている。少なくとも、今日の分は。
廊下に出ると、清掃員の女性がモップを持って立っていた。
「お疲れさまです」
「お疲れさまです」
互いにそう言って、すれ違う。
誰かと交わす短い挨拶は、浅い川のようでいい。濡れても、沈まない。
外に出ると、雨が降っていた。
細い雨だった。傘を差すほどではないが、髪やコートに少しずつ残る。駅まで歩く間に、耳元の髪は湿って重くなった。右耳の熱が、湿った髪の内側でこもる。
駅のトイレに入り、個室ではなく洗面台の前に立った。
鏡は少し曇っていて、照明は白すぎた。顔色が悪く見える。実際に悪いのか、光のせいなのかはわからなかった。
髪を耳にかけた。
右耳の軟骨、アウターコンクに開けた小さな銀色のピアスがひとつ、赤みを帯びた皮膚に囲まれている。ひどくはない。誰かに見せれば、たいしたことないですね、と言われるくらいのものだ。
たいしたことのないものほど、誰からも相手にされずいつまでも残る。
洗面台の横で、若い女が口紅を塗り直していた。濃い赤だった。女は私の耳を一瞬見たが、すぐに自分の唇へ視線を戻した。
その一瞬で十分だった。
見られた、と思った。見られただけで、何も知られていないのに。
勝手にヤバい女と思われた、と感じるのはなぜなのだろう。
しばらく鏡を見つめた後、手を洗ってトイレを出た。
電車は混んでいた。誰かの濡れた傘が足首に触れ、誰かのイヤホンから漏れた音が、薄く車内に滲んでいる。窓には、自分の顔と、知らない人たちの顔が重なって映っていた。
どの顔も疲れている。疲れていることに慣れた顔だった。
吊革につかまりながら、スマートフォンで「ピアススタジオ」と検索した。
いくつかの店が出てくる。明るい写真。白い壁。笑っているスタッフ。初めての方でも安心。可愛いジュエリー多数。清潔で安全。
画面をヌルヌルとスクロールした。
明るすぎる場所には入りたくなかった。安心を前面に出されると、かえって息が詰まる。安心していい人間だけが、安心な場所へ行ける気がする。
何ページ目かで、小さな店の名前が出てきた。
【燐。】
写真は一枚だけだった。古いビルの入口。暗い階段。三階の窓に、白い小さな看板がかかっている。営業時間も短く、説明文もほとんどない。
完全予約制。
ピアスの相談。
ジュエリー販売。
無理な施術はしません。
その最後の一文で、指が止まった。
無理な施術はしません。
断られるかもしれないと思った。
それでも、なぜか画面を閉じられなかった。
アパートの最寄り駅に着くころには、雨は少し強くなっていた。コンビニで傘を買うか迷い、結局買わなかった。
濡れて帰りたい夜がある。
そういう夜は、傘を差すと、自分だけが助かろうとしているみたいで、妙に居心地が悪い。
部屋に着くと、玄関の電気をつけないまま靴を脱いだ。
暗がりに慣れた目で、廊下を進む。小さなワンルームの部屋は、朝出たときのままだった。畳まれていない毛布。テーブルの上のマグカップ。読みかけの文庫本。水の少ない花瓶。
花はもう枯れかけている。
先週、編集部に届いた余りを、総務の加納さんから渡されたものだった。名前は知らない。白くて、薄い花びらがいくつも重なっている。もらったときは綺麗だったが、今は花びらの端が茶色くなっている。
――捨てればいい。
そう思いながら、花瓶に少しだけ水を足した。
明らかにもう遅いとわかっているものに、希望を捨てきれないのは、昔からの悪い癖だった。
コートを椅子にかけ、洗面台の前に立つ。
部屋の洗面台は狭い。鏡の端に、古い水垢が白く残っている。棚には消毒液と綿棒、使いかけの保湿クリームや化粧品等が雑多に詰められていて、右端に外したピアスを入れる小さな皿がある。
皿の中には、小さな銀色。黒い石。透明なガラス。片方だけになったもの。留め具のゆるくなったもの。もうつけないのに捨てられないもの。
じっと鏡で自分の耳を見た。
数えていないふりをしながら、数えた。ちゃんと十個。
母の声が、まだ耳に残っている。
もういい歳なんだから。
少し落ち着いても。
昔から何考えてるかわからない。
椅子に座り、検索画面をもう一度開いた。燐のページを見る。予約フォームは簡素だった。名前、連絡先、希望日時、相談内容。
相談内容の欄に、何度も指を置いた。
【新しく開けたいです。】
【耳を見てほしいです。】
【痛みがほしいです。】
【眠れません。】
どれも違った。
しばらく画面を見つめたあと、こう打った。
【右耳の相談をしたいです。】
送信ボタンを押すと、すぐに自動返信が届いた。そこには明日の夜、ひと枠だけ空きがあると書かれていた。
明日。
早すぎると思った。
けれど、遅すぎるとも思った。
勢いで、そのまま予約を確定した。
部屋の中で、冷蔵庫が低く鳴っている。
雨が窓を叩く音は、外からではなく、壁の内側から聞こえるようだった。
ベッドに入ってからも、眠れなかった。
右耳は熱を持ったままだった。痛いわけではない。けれど、そこにある。身体の端に、小さな夜がひっかかっている。
暗闇の中で耳に触れた。
十個目の穴は、いつ開けたのだったか。
思い出そうとして、やめた。
思い出せないのではない。
思い出す順番を間違えると、朝まで戻ってこられなくなる。
スマートフォンの画面を見ると、午前二時十七分だった。
最初の穴を開けた夜と、同じ時間だった。
私にとって、最も特別な時間。
偶然でなければ、困ると思った。
私は目を閉じた。
それは、眠るためではなく、部屋の暗さをこれ以上見なくて済むように。
耳の奥で、何かが静かに疼いていた。
雨は、まだ降っていた。




