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夜を飼う耳  作者: みたらしわんこ
第一部 穴は黙っている

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1/7

第一話 膿み始めた記憶

 ピアスホールは、塞がったふりをする。

 私は、そう思っている。


 皮膚の表面だけがなめらかになっても、そこに穴があったことを、身体は案外忘れない。髪を耳にかけるとき、タオルで水気を押さえるとき、誰かに横顔を見られたとき。ふいに、そこだけが少し冷える。

 もう痛くない顔をして、皮膚の色にまぎれ、そこで黙っている。けれど雨の日や、眠れない夜や、誰かに名前を呼ばれた瞬間に、ふいに奥の方で疼く。

 私はそれを、身体がまだ覚えているからだと信じていた。

 心より先に、皮膚が忘れることを拒んでいるのだと。


 左耳のいちばん下にある穴に、指先で触れた。

 そこは、最初の穴だった。


 高校二年の夏。古い洗面台の三面鏡。遠くで鳴っていた蝉の声。母が隣の部屋で掃除機をかけていたこと。父の使っていた灰皿が、いつの間にか食器棚の上から消えていたこと。

 覚えているのは、そういう細かいことばかりで、肝心なことは大抵いつもぼやけている。

 あの日、私は泣いていなかった。泣けなかったのではない。

 泣いたら、父がいなくなったことを認めてしまう気がした。あるいは、母が何もなかったように床を掃除していることを、許してしまう気がした。


 だから私は、泣くかわりに耳に穴を開けた。

 今では左右合わせて十個ある。


 職場の人間は、たぶん正確な数を知らない。知る必要もない。髪をおろしていれば、ほとんどは隠れる。見えるのは、耳たぶに並んだ小さな銀色だけで、たまに職場の同僚が「澪田さん、意外とロックですよね」と笑う。


 そのたびに曖昧に笑って、「昔からです」とだけ言う。


 ――昔から。

 便利な言葉だった。

 それ以上、誰も入ってこられない。


 出版社の経理部は、建物の四階にあった。窓の向こうには隣のビルの壁しか見えず、午後になると、壁に取り付けられた古い換気扇が影を落とす。

 私の机は入口から二番目で、右側には未処理の請求書、左側には確認済みの契約書が積まれている。毎日、紙の束が右から左へ移動する。月末にはまた右側に戻ってくる。


 仕事は嫌いではなかった。

 嫌いになるほど、そこに自分を置いていなかった。


 数字は、間違っていれば赤くなる。振込先は、違っていれば確認がくる。締切は、カレンダーの上に四角く囲める。そういうものは、扱いやすかった。少なくとも、人の言葉よりは。

 午後六時二十七分、最後のメールを送信したとき、窓の外はもう暗くなり始めていた。隣の席の三浦さんが、ことんと椅子を鳴らして立ち上がる。


「澪田さん、今日も残るんですか」

「少しだけ」


 三浦さんはそう言って、すぐに自分のコートを羽織った。


「無理しないでくださいね」

「ありがとうございます」


 無理しないでくださいね、という言葉は、階段の踊り場あたりで忘れられる。それでよかった。本気で心配される方が面倒だ。

 オフィスに人が減ると、蛍光灯の音がよく聞こえる。細く、持続する音。透明な虫が天井の中で羽ばたいているような音だった。


 ふと、右耳の上の方に触れた。

 少し熱を持っている。

 昼過ぎから、気づいていた。軟骨に開けた古い穴のひとつが、わずかに腫れている。触らない方がいいとわかっているのに、指は何度もそこへ行った。

 皮膚の下に、小さな不機嫌が溜まっているようだった。


 スマートフォンが震えた。

 画面には、母の名前が出ていた。

 でも、すぐには取らなかった。


 二度、三度、震える。机の上で、黒い端末が小刻みに鳴っている。電話に出なければ、この振動はやがて止まる。けれど、止まったあとに残るものの方が、いつも長かった。


「はい」


 諦めて通話ボタンを押す。

 声を出すと、自分のものではないみたいに乾いていた。


「あ、透子? 今、大丈夫?」

「うん」

「仕事中?」

「もう終わったところ」

「そう。ならいいんだけど」


 母は、ならいいんだけど、と言ってから、本題に入るまでに必ず少し間を置く。


 その間に、私はいつも身構える。

 急な病気。

 親戚の不幸。

 金の話。

 あるいは、もっと小さくて、もっと避けがたい何か。


「来月の法事、覚えてる?」

「覚えてる」

「本当に? あなた、そういうの忘れそうだから」

「カレンダーに入れてる」

「ならいいんだけど。黒い服、ある?」

「あるよ」

「ちゃんとしたやつ?」


 机の上の契約書の角を揃えた。


「ちゃんとしたやつ」

「そう。あのね、別にうるさく言うつもりはないんだけど」


 出た、と思った。

 うるさく言うつもりはない。

 気にしなくていいんだけど。

 お母さんは別にいいんだけど。


 母のそういう前置きは、いつも小さな針のように先が尖っている。刺すつもりはないと言いながら、すでに皮膚に触れている。


「その、耳のあれ。法事のときは少し外してきたら?」


 言葉に詰まり、黙った。


「親戚の人も来るし。ほら、あなたももう子どもじゃないんだから。仕事では大丈夫なの?」

「大丈夫」

「本当に? 今どきはそういうの、普通なのかもしれないけど。お母さんの感覚が古いのかもしれないけどね」


 母は笑った。電話越しの笑い声は、薄いビニール袋をこすったみたいに聞こえた。


「別に、悪いって言ってるんじゃないのよ。ただ、もういい歳なんだから、少し落ち着いてもいいんじゃないかなって」


 耳の奥で、血が動く音がした。

 右手で受話口を少し離し、息をした。吐く方が難しかった。


「そうだね」


 口から出た声は、思いのほか穏やかだった。


「怒った?」

「怒ってない」

「すぐそうやって黙るから。お母さん、何も言えなくなるじゃない」

「怒ってないよ」

「ならいいけど。あなた、昔から何考えてるかわからないところがあるから」


 机の端に置かれたクリップを見ていた。銀色の細い線が、いくつも重なって小さな箱に入っている。どれも同じ形をしているのに、何度も何度も書類を挟んだことで、少しずつ歪んでいた。


「法事、何時だっけ」

「十一時。十時半には来て。遅れないでね」

「わかった」

「あと、寒くなってきたから身体に気をつけなさい」

「うん」

「ちゃんと食べてる?」

「食べてる」

「ならいいけど」


 母は最後にもう一度、ならいいけど、と言って電話を切った。

 通話時間は六分四十二秒だった。

 スマートフォンを机に伏せた。画面が見えなくなると、少しだけ静かになった気がした。けれど、それは錯覚だった。

 耳の奥の音は消えない。

 熱を持った穴が、指先を呼んでいる。


 ――触らない。

 そう思って、もう一度触った。

 古い穴の縁が、かすかに膨らんでいた。痛みというほどではない。けれど、そこにある、とわかる程度の違和感。

 身体の中にある暗いものが、出口を探しているのだ。


 パソコンを閉じた。

 鞄に財布とスマートフォンを入れ、机の上の書類を一度だけ確認する。右から左へ、左から引き出しへ。すべて終わっている。少なくとも、今日の分は。

 廊下に出ると、清掃員の女性がモップを持って立っていた。


「お疲れさまです」

「お疲れさまです」


 互いにそう言って、すれ違う。

 誰かと交わす短い挨拶は、浅い川のようでいい。濡れても、沈まない。


 外に出ると、雨が降っていた。

 細い雨だった。傘を差すほどではないが、髪やコートに少しずつ残る。駅まで歩く間に、耳元の髪は湿って重くなった。右耳の熱が、湿った髪の内側でこもる。

 駅のトイレに入り、個室ではなく洗面台の前に立った。

 鏡は少し曇っていて、照明は白すぎた。顔色が悪く見える。実際に悪いのか、光のせいなのかはわからなかった。


 髪を耳にかけた。

 右耳の軟骨、アウターコンクに開けた小さな銀色のピアスがひとつ、赤みを帯びた皮膚に囲まれている。ひどくはない。誰かに見せれば、たいしたことないですね、と言われるくらいのものだ。

 たいしたことのないものほど、誰からも相手にされずいつまでも残る。

 洗面台の横で、若い女が口紅を塗り直していた。濃い赤だった。女は私の耳を一瞬見たが、すぐに自分の唇へ視線を戻した。

 その一瞬で十分だった。

 見られた、と思った。見られただけで、何も知られていないのに。

 勝手にヤバい女と思われた、と感じるのはなぜなのだろう。

 しばらく鏡を見つめた後、手を洗ってトイレを出た。


 電車は混んでいた。誰かの濡れた傘が足首に触れ、誰かのイヤホンから漏れた音が、薄く車内に滲んでいる。窓には、自分の顔と、知らない人たちの顔が重なって映っていた。

 どの顔も疲れている。疲れていることに慣れた顔だった。

 吊革につかまりながら、スマートフォンで「ピアススタジオ」と検索した。

 いくつかの店が出てくる。明るい写真。白い壁。笑っているスタッフ。初めての方でも安心。可愛いジュエリー多数。清潔で安全。

 画面をヌルヌルとスクロールした。

 明るすぎる場所には入りたくなかった。安心を前面に出されると、かえって息が詰まる。安心していい人間だけが、安心な場所へ行ける気がする。

 何ページ目かで、小さな店の名前が出てきた。


 【燐。】


 写真は一枚だけだった。古いビルの入口。暗い階段。三階の窓に、白い小さな看板がかかっている。営業時間も短く、説明文もほとんどない。


 完全予約制。

 ピアスの相談。

 ジュエリー販売。

 無理な施術はしません。


 その最後の一文で、指が止まった。

 無理な施術はしません。

 断られるかもしれないと思った。

 それでも、なぜか画面を閉じられなかった。


 アパートの最寄り駅に着くころには、雨は少し強くなっていた。コンビニで傘を買うか迷い、結局買わなかった。

 濡れて帰りたい夜がある。

 そういう夜は、傘を差すと、自分だけが助かろうとしているみたいで、妙に居心地が悪い。


 部屋に着くと、玄関の電気をつけないまま靴を脱いだ。

 暗がりに慣れた目で、廊下を進む。小さなワンルームの部屋は、朝出たときのままだった。畳まれていない毛布。テーブルの上のマグカップ。読みかけの文庫本。水の少ない花瓶。

 花はもう枯れかけている。

 先週、編集部に届いた余りを、総務の加納さんから渡されたものだった。名前は知らない。白くて、薄い花びらがいくつも重なっている。もらったときは綺麗だったが、今は花びらの端が茶色くなっている。


 ――捨てればいい。

 そう思いながら、花瓶に少しだけ水を足した。

 明らかにもう遅いとわかっているものに、希望を捨てきれないのは、昔からの悪い癖だった。

 コートを椅子にかけ、洗面台の前に立つ。

 部屋の洗面台は狭い。鏡の端に、古い水垢が白く残っている。棚には消毒液と綿棒、使いかけの保湿クリームや化粧品等が雑多に詰められていて、右端に外したピアスを入れる小さな皿がある。

 皿の中には、小さな銀色。黒い石。透明なガラス。片方だけになったもの。留め具のゆるくなったもの。もうつけないのに捨てられないもの。


 じっと鏡で自分の耳を見た。

 数えていないふりをしながら、数えた。ちゃんと十個。

 母の声が、まだ耳に残っている。

 もういい歳なんだから。

 少し落ち着いても。

 昔から何考えてるかわからない。


 椅子に座り、検索画面をもう一度開いた。燐のページを見る。予約フォームは簡素だった。名前、連絡先、希望日時、相談内容。

 相談内容の欄に、何度も指を置いた。


 【新しく開けたいです。】

 【耳を見てほしいです。】

 【痛みがほしいです。】

 【眠れません。】


 どれも違った。

 しばらく画面を見つめたあと、こう打った。


 【右耳の相談をしたいです。】


 送信ボタンを押すと、すぐに自動返信が届いた。そこには明日の夜、ひと枠だけ空きがあると書かれていた。


 明日。

 早すぎると思った。

 けれど、遅すぎるとも思った。

 勢いで、そのまま予約を確定した。


 部屋の中で、冷蔵庫が低く鳴っている。

 雨が窓を叩く音は、外からではなく、壁の内側から聞こえるようだった。


 ベッドに入ってからも、眠れなかった。

 右耳は熱を持ったままだった。痛いわけではない。けれど、そこにある。身体の端に、小さな夜がひっかかっている。

 暗闇の中で耳に触れた。

 十個目の穴は、いつ開けたのだったか。


 思い出そうとして、やめた。

 思い出せないのではない。

 思い出す順番を間違えると、朝まで戻ってこられなくなる。


 スマートフォンの画面を見ると、午前二時十七分だった。

 最初の穴を開けた夜と、同じ時間だった。

 私にとって、最も特別な時間。


 偶然でなければ、困ると思った。

 私は目を閉じた。

 それは、眠るためではなく、部屋の暗さをこれ以上見なくて済むように。

 耳の奥で、何かが静かに疼いていた。

 雨は、まだ降っていた。


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