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夜を飼う耳  作者: みたらしわんこ
第二部 膿む

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10/10

第十話 雨の匂い

 朝から、雨が降っていた。


 細い雨だった。傘を差さなければ濡れるが、差してもどこかしら濡れるような雨。駅までの道で、靴先はすぐに暗くなった。アスファルトには小さな水たまりがいくつもできていて、信号待ちの人々の足元だけが、ぼんやりと揺れていた。


 傘を少し傾け、右耳に雨が当たらないようにした。


 透明なピアスに替えてから、十日ほど経っていた。赤みはもうほとんどない。律に言われた通り、枕カバーも替えた。触る回数も、いちおう数えている。


 いちおう。


 そういう言い方をする時点で、その記録はすでに歪んでいる。


 一本の日。


 空白の日。


 二本、ということにした日。


 数えなかった日。


 数えなかった、という日を作ってしまうと、空白とは違う種類の白さが生まれる。何もなかった白ではなく、見なかったことにした白。


 私はその違いを、メモ帳の上で知った。


 電車の中は、濡れた傘の匂いがした。


 人の体温と、湿った布と、雨に濡れた革靴の匂い。吊革につかまる手の近くで、誰かの傘袋から水が一滴ずつ落ちている。床には細い水の線ができ、電車が揺れるたびに、少しずつ形を変えた。


 右耳に触れないよう、傘の持ち手を両手で握っていた。


 触りたいわけではない。


 誰に言い訳するわけでもなく、そう思った。


 ただ、そこにあることを確かめたいだけだ。


 触りたいのではなく、確かめたいだけ。


 確かめたいだけなら、触るのと何が違うのか。


 自分で自分に問い始めると、朝から疲れる。


 窓に映る自分の顔を見ないように、足元を見た。黒い靴。濡れたつま先。薄く泥の跳ねた裾。小さな水滴が、傘の先から床へ落ちる。


 会社に着くころには、髪の内側が少し湿っていた。


 雨を含んだ髪で頭が重い。触らないようにしていたのに、濡れた髪そのものが耳に触れている。それは数えるべきなのだろうか。


 自分の指ではない。


 自分の意思でもない。


 雨と髪のせいだ。


 経理部の空気も湿っていた。


 雨の日のオフィスは、窓を閉め切っているせいか、人の気配が濃くなる。紙はわずかに波打ち、コピー機の排紙口から出てくる書類も、いつもより柔らかく感じられる。


 蛍光灯の白さだけが乾いていて、天井から少し浮いているようだった。


 席に着き、パソコンを立ち上げた。


 メールは四十二件。


 月末が近い。


 雨の日は、なぜか細かなミスが増える。領収書の写真が暗い。添付が漏れる。金額の入力が一桁違う。湿気のせいではないのに、毎年そう思える。


 午前中、三件差し戻した。


 一件目は、会議費の参加人数記載漏れ。


 二件目は、資料購入費の領収書が不鮮明。


 三件目は、交通費の経路不備。


 どれも小さなことだった。


 小さなことを小さなまま扱うには、思っている以上にエネルギーがいる。相手はときどき、小さなことくらい、と言う。けれど小さなことを小さなこととして見逃し続けると、どこかで必ず大きなものになる。そして、大きくなったときには、たいてい誰も最初の小ささを覚えていない。


 私はそれを知っていた。


 だから差し戻す。


 淡々と。


 細かく。


 数字だけを見ている人のように。


 昼休み、一架は珍しく来なかった。


 自席でおにぎりを食べた。鮭だった。梅を選んだつもりで、また鮭を取っていた。包みを開けてから気づく。


 前世は魚だったのだろう、と思うことにした。


 味は、今日はあまりしなかった。


 編集部の方から笑い声が聞こえる。


 雨の日でも笑える人は笑う。晴れていても黙る人は黙る。天気は人を少し濡らすだけで、本質までは変えてくれない。


 一架からの連絡はない。


 当たり前だった。


 毎日昼を一緒に食べる約束をしたわけではない。昨日の夜も、特別な話をしたわけではない。三件直った、という一架の言葉に、私が返事をしなかっただけだ。そこに続くものがないのは自然だった。


 気になったことに気づいて、無意識に右耳に触れた。


 今日、一本目。


 指先が透明なピアスの端に当たる。熱はない。痛みもない。あるのは、そこにあるという感触だけだった。


 メモ帳は鞄の中にある。


 線を引くのは帰ってからでいい。


 午後二時過ぎ、一架が経理部へ来た。


「澪田さん」


 声が少し低かった。


「はい」


「すみません、これ、確認していただいてもいいですか」


 一架は印刷した申請書と領収書を持っていた。資料購入費だった。書名、金額、日付、添付。必要なものは揃っている。


「問題ないです」


 そう言うと、一架はほっとしたように息を吐いた。


「よかった」


「珍しく完璧です」


「珍しく」


「はい」


「そこは余計です」


 一架は少し笑った。


 いつもより、その笑い方が浅かった。それに気づいたが、聞かなかった。聞けば、一架は何か答えなければならなくなる。答えるほどのことではない疲れというものがある。そういうものを無理に言葉にすると、かえって疲れる。


 一架は申請書を受け取りながら、ほんの一瞬、私の右耳を見た。


 いや、見た気がした。


 それは、見てほしいという私の深層心理なのかもしれない。


 髪が湿って、いつもより耳の形が出ていたのかもしれない。透明なピアスは見えにくいはずなのに、見ようとする人には見える。


 髪を戻そうとして、手を止めた。


 今触れば、二本目。


 一架は何も言わなかった。


「雨、強くなってますね」


 代わりにそう言った。


「そうですか」


「窓、白くなってます」


 窓の方を見た。隣のビルの壁が雨でぼやけている。非常階段の手すりに水が溜まり、細い線になって落ちていた。


「帰るころには弱くなるといいですね」


 そう言うと、一架は少しだけ肩をすくめた。


「傘、折りたたみなんです」


「今日の雨で折りたたみは厳しいですね」


「朝、いけると思ったんです」


「いけませんでしたね」


「はい。敗北です」


 いつもの言い方だった。


 けれど、やはり少しだけ力がなかった。


 口を開きかけて、閉じた。


 どうしましたか、と聞くのは簡単だった。


 大丈夫ですか、と聞くのはもっと簡単だった。


 けれど、その簡単さを私は信用していない。


 大丈夫ですかと聞かれるたびに、大丈夫ですと答えてきた人間は、その言葉の扱いづらさを知っている。


 言葉を探している間に、一架は自分の部署へ戻っていった。


 その背中を見送りながら、大丈夫です、私は自分に言い聞かせていた。


 夕方になるにつれて、雨は強くなった。


 窓の外は、細かな線でいっぱいになった。隣のビルの壁も、非常階段も、向かいの窓も、すべてが雨の膜の向こうに沈んでいる。


 経理部では、帰りの電車の遅延情報を調べる声が増えた。誰かが「最悪」と言い、誰かが「傘ない」と笑った。


 雨は全く関係ないが、残業することになった。


 急ぎの支払い処理が一件、夕方になって回ってきたからだった。承認は揃っている。金額も合っている。けれど振込データの作成には少し時間がかかる。


 不備はなかった。


 不備がない急ぎの仕事は、断れない。


 十九時を過ぎるころには、オフィスに残っている人は少なかった。編集部の方にはまだ何人かいる。電話の声、キーボードの音、紙をめくる音。雨の音が窓に重なり、外と内の境目を薄くしていた。


 振込データを確認し、保存し、確認者へ送った。


 送信時間、十九時二十三分。


 パソコンを閉じる前に、右耳へ手が伸びた。


 二本目。


 痛みはない。


 ないことが、少し心許ない。


 痛くないなら、なぜ触るのか。


 私は一体、触って何を確かめているのか。


 答えは出なかった。


 メモ帳を出して、日付の横に線を引く。


 一本。


 昼に触れた分。


 もう一本。


 今の分。


 その下に何か書こうとして、やめた。


 帰ってから記録しようと思っていたのに、早速それを変えた。意思が弱いのか、記録を信用していないのか、自分でもよくわからなかった。


 会社を出ると、一階の入口に一架が立っていた。


 自動ドアの内側で、外の雨を見ている。手には小さな折りたたみ傘。黒い布地が、すでにどこか頼りなさそうだった。


「あれ」


 一架が振り向いた。


「澪田さんも今ですか」


「はい。残業でした」


「お疲れさまです」


「一架さんも?」


「ちょっと原稿の確認で」


 一架は折りたたみ傘を見せた。


「これ、負けそうです」


 外の雨は、昼よりずっと強い。歩道には水が流れ、ビルの入口から駅までの道も、ところどころ光っている。


 私の傘は大きめの長傘だった。朝、迷った末に持ってきたものだ。


「駅まで入りますか」


 そう言った。


 言ってから、自分で少し驚いた。


 一架も少し驚いた顔をした。


「いいんですか」


「折りたたみよりは」


「助かります」


 自動ドアが開く。


 冷たい雨の匂いが入ってくる。傘を開き、一架が入る分だけ少し横にずらした。


 ふたりで一本の傘に入ると、思ったより近かった。肩が触れそうで、触れない距離。雨の音が傘の布を叩き、会話の周りを囲む。


 歩き出すと、一架は少し体を縮めた。


「すみません、狭いですね」


「大丈夫です」


「出ました、大丈夫」


「狭いのは事実です」


「じゃあ、大丈夫じゃないですね」


「少し狭いです」


「正直でよろしい」


 いつもの調子に近い。けれど雨のせいか、その言葉は少し柔らかく聞こえた。


 歩道には、傘を差した人たちが流れている。すれ違うたび、傘の端がぶつかりそうになる。右手で傘を持ち、左側に一架を入れて歩いた。


 右耳は傘の内側にある。


 雨は当たらない。


 けれど一架の気配が近く、耳の存在がいつもより強く感じられた。


「今日、忙しかったですね」


 一架が言った。


「月末なので」


「経理って、月末いつもあんな感じなんですか」


「だいたい」


「大変ですね」


「編集部も大変そうでした」


「大変なふりをしている人と、本当に大変な人がいます」


 少しだけ笑った。


「それは、どこも同じですね」


「澪田さんは?」


「何がですか」


「本当に大変な人ですか。大変なふりをしている人ですか」


 少し考えた。


「大変じゃないふりをしている人です」


 一架は一瞬黙って、それから小さく笑った。


「それ、いちばん大変そうです」


 雨の音が強くなった。


 傘に当たる水滴が、細かな鼓動のように響く。足元を見ながら歩いた。雨で濡れた歩道に、信号の赤がぼんやり映っている。人が立ち止まり、傘の群れが横断歩道の前に溜まる。


 ふたりも止まった。


 肩が、少し触れた。


 一架はすぐに体を引いた。


「すみません」


「いえ」


 信号はまだ赤だった。


 沈黙が降りる。


 けれど、雨があると沈黙は少し楽になる。何も言わなくても、雨の音が代わりに空間を埋めてくれる。


「澪田さん」


「はい」


「聞いてもいいですか」


 返事をする前に、少し身構えた。


 ピアスのことだと思った。


 そう思った瞬間、右耳の透明なピアスが、雨の中で急に重くなる。


 聞かれる。


 なぜ開けたのか。


 いくつあるのか。


 痛くないのか。


 仕事で困らないのか。


 親に何か言われないのか。


 そういう質問は、これまで何度も受けた。


 いつもの答えをいくつか頭の中に並べた。


 昔からです。


 なんとなくです。


 慣れました。


 大丈夫です。


 特に意味はないです。


 青信号に変わる。


 人の群れが動き出す。


 一架は歩きながら、少し迷うように言った。


「それ、痛かったですか」


 足は止めなかった。


 けれど、胸の奥で何かが止まった。


 痛くないんですか、ではなかった。


 痛かったですか。


 過去形。


 その問いは、今の私ではなく、穴が開いたときの私に向いているようだった。右耳の透明なピアスでも、職場で見える銀色でも、数でも、意味でもなく、その穴が開いた瞬間の痛みにだけ、そっと触れようとしていた。


 すぐには答えなかった。


 横断歩道を渡りきる。駅前の屋根の下に入る手前で、雨が少し弱くなる。実際に弱くなったのか、屋根が近いからそう感じるのかはわからない。


 痛かったか。


 最初の穴。高校二年の夏。父の傘がなくなった夜。


 二つ目の穴。大学の部屋。どこにも残れなかった飲み会のあと。


 三つ目。


 四つ目。


 五つ目。


 まだ誰にも話していない夜。


 数えきれないほど触れた穴。


 今では十個もある。二桁をこえると、あまり数に興味がなくなってくる、というのを、何かのSNSで誰かが発信していたのを思い出した。


 どれも、痛かった。


 けれど個々の痛みの大きさは、いつも出来事より小さかった。だから困った。耳に走る短い熱は、夜の重さに比べればあまりに軽い。血は少ししか出ない。ティッシュにつく赤い点は、拍子抜けするほど小さい。


 身体は、心ほど大げさには壊れてくれない。


「痛かったよ」


 私は言った。


 声は、雨の音に混ざるくらい小さかった。


 一架は頷いた。


「そうですよね」


 それだけだった。


 どうして、とも聞かなかった。


 何個あるんですか、とも聞かなかった。


 今も痛いんですか、とも聞かなかった。


 ただ、そうですよね、と言った。


 自分から話を逸らすために、一架もピアスを開けたいのかな、と勝率が明らかに悪い質問をするのはやめた。


 駅の屋根の下に入ると、傘を閉じる人たちで少し混雑していた。私も傘を閉じた。布についた雨が、足元に落ちる。一架は折りたたみ傘を使わずに済んだので、小さく息を吐いた。


「ありがとうございました。助かりました」


「いえ」


「傘、大きくてよかったです」


「たまたまです」


「たまたま助かりました」


 一架はそう言って笑った。


 その笑顔に、さっきの質問の続きはなかった。


 それに少し安堵し、少しだけ物足りなさを覚えた。聞かれたくない。けれど、もう少し聞かれてもよかった。そう思う自分が面倒だった。


 改札の前で、ふたりは立ち止まる。


「私、こっちなので」


 一架が右側の路線を指した。


「はい」


「澪田さん」


「はい」


 一架は少しだけ迷って、それから言った。


「痛かったって、言えるの、いいですね」


 答えられなかった。


 一架はすぐに、言いすぎたと思ったような顔をした。


「すみません。変な意味じゃなくて。わたしは、たぶん言えないから。すみません、やっぱり変な意味かもしれません」


「いえ」


「じゃあ、お疲れさまでした」


「お疲れさまでした」


 一架は軽く会釈して早足で改札へ向かった。


 その背中を見送った。人の流れの中に、一架の姿はすぐ紛れる。雨の日の駅は、誰もが少し急いでいる。濡れた傘を畳み、ICカードを出し、電車の時間を確認し、それぞれの線路へ向かう。


 しばらくその場に立っていた。


 痛かったって、言えるの、いいですね。


 その言葉が、胸の中に残っていた。


 いいことなのだろうか。


 わからない。わからない。わからない。


 痛かったと言うことと、助けてほしいと言うことは違う。痛かったと言えても、理由を話せるわけではない。痛かったと言えても、痛みが終わるわけではない。


 それでも、痛かった、と口にした瞬間、何かが少しだけ形を持ち歩き出した。


 改札を通り、ホームへ降りた。


 電車はまだ来ていなかった。ホームの端から、雨に濡れた線路が見える。黒い鉄の上を、水が細く流れている。向かいのホームには、傘を持った人たちが並んでいた。


 誰も私を見ていない。


 右耳に触れた。


 三本目。


 今度は、数えるためではなかった。


 痛かったよ。


 その言葉を、指先で確かめるように触れた。


 透明なピアスは、雨の湿気を含んだ髪の奥で、ほとんど存在を消している。それでも指先には、ちゃんと硬さがあった。そこにある。穴がある。痛かった場所がある。


 電車が来た。


 乗り込み、ドアの横に立った。窓には、濡れた髪の自分が映る。右耳は見えない。左耳の最初の穴も見えない。けれど、さっきまで一架がいた傘の内側の狭さが、まだ肩のあたりに残っていた。


 部屋に帰ると、玄関の床に雨の水滴が落ちた。


 傘を浴室に立てかけ、靴下を脱いだ。足先が冷えている。部屋の空気も冷たかった。電気をつけると、机の上のメモ帳が見えた。


 まず手を洗い、髪を軽く拭く。


 それからメモ帳を開いた。


 日付の横には、会社で引いた二本の線がある。昼に触れた分。夜、残業後に触れた分。


 そこへ、ホームで触れた分を足す。


 三本目。


 線を引いた。


 いつもなら、線が増えると少し苦しくなる。今日は違った。苦しくないわけではない。けれど、その三本目だけは、ほかの線と少し離して置きたかった。


 迷って、三本目の横に小さく点を打った。


 意味はない。


 ただ、同じではないと思った。


 その下に、書く。


 【痛かったよ。】


 書いた文字を見て、しばらく動かなかった。


 誰に向けた言葉なのかわからない。一架に言った言葉。過去の自分に言った言葉。今の自分が、やっと認めた言葉。どれでもあるようで、どれでもない。


 痛かったよ。


 ただそれだけの文が、メモ帳の上で濡れているように見えた。


 右耳には触れなかった。


 もう触れなくても、その言葉があった。


 シャワーを浴びる前に、スマートフォンが震えた。


 一架からだった。


 【今日は傘、ありがとうございました。無事でした。】


 少し考えて、返信した。


 【よかったです。】


 既読がつく。


 しばらくして、次のメッセージ。


 【変なこと聞いてすみませんでした。】


 画面を見た。


 変だっただろうか。


 たしかに、普通の会話ではない。会社の帰り道、同僚のピアスを見て、突然、痛かったですか、と聞くのは、あまり自然ではないのかもしれない。


 けれど私にとって、その問いは、これまで投げられたどの問いよりも静かだった。


 返信した。


 【変ではなかったです。】


 少し間があく。


 【ならよかったです。】


 また間があく。


 【痛かったんだろうなと思いました。】


 その文を読み、すぐには返せなかった。


 痛かったんだろうな。


 一架は、わかるとは言わなかった。


 わかります、と言わなかった。


 痛そう、とも言わなかった。


 痛かったんだろうなと思いました。


 その距離が、ちょうどよかった。


 返信を打つ。


 【痛かったです。】


 送信する。


 すぐに既読がついた。


 返事はなかった。


 それでよかった。


 会話がそこで止まったことが、ありがたかった。これ以上言葉を重ねると、さっきの問いが別のものに変わってしまう気がした。慰めや理解や共感の形に整えられてしまう前に、そのまま置いておきたかった。


 シャワーを浴び、髪を乾かし、右耳を確認する。


 透明なピアスの周りは落ち着いている。赤みはない。痛みもない。穴は、ただ穴としてそこにある。


 鏡の中の自分を見た。


 疲れている。


 でも、朝とは少し違う顔だった。


 救われたわけではない。


 心が軽くなったわけでもない。


 何かが解決したわけでもない。


 ただ、痛かった、と言った日。


 それだけの違いだった。


 ベッドに入ると、雨はまだ降っていた。窓に細く当たり続ける音がする。部屋の中は暗く、枕カバーは少し冷たい。仰向けになり、両手を毛布の中に入れた。


 右耳に触れたいとは思わなかった。


 そのことに気づいて、少し怖くなった。触れたいと思わない夜は、まだ慣れない。穴を見失いそうで、自分の輪郭まで薄くなるような気がする。


 メモ帳を眺めた。


 痛かったよ。


 それは穴の代わりにはならない。


 痛みの代わりにもならない。


 でも、今夜だけは、指先の代わりくらいにはなるかもしれない。


 午前一時を過ぎたあたりで、目を閉じた。


 激しい雨の音が続いている。


 雨音の中、目は開けなかった。そのまま眠っていたのか、眠っていなかったのかはわからない。ただ、右耳に触れないまま、暗い夜の底を少しだけ通り過ぎた。


 朝になれば、また仕事がある。


 申請があり、差し戻しがあり、夜には母から電話が来るかもしれない。


 一架も、またいつものように申請を間違えるかもしれない。


 律の店にも、そろそろ行かなければならない。


 何も終わっていない。


 何も始まっていない。


 必要かどうかも分からない。


 それでも、その夜だけは、私の中でひとつの問いが濡れたまま残っていた。


 それ、痛かったですか。


 暗闇の中で、小さく声に出して答えた。


 痛かったよ。


 雨は、明け方まで降り続いた。

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