第21話 聖女の涙
王都・中央広場。
いつもは露店と音楽でごった返すこの場所に、今日は王家の紋章旗と白い布で飾られた大舞台が組まれていた。
石畳は清掃され、噴水の水面には花びらが浮いている。舞台前には簡易の椅子がぎっしり。その周囲を警備の兵が取り巻き、鐘楼からは合図の鐘が二度、涼しく鳴った。
年に数度の「市民生活改善キャンペーン」。
王家が衛生・教育・税制の最新情報を広める大イベントだ。今日は“家計と暮らしの見直し”がテーマ――つまり、お金の話。
私はクラリスとレオンハルトに挟まれて、舞台袖の控えスペースに立つ。人の海の中には、子どもを肩車した父親、買い物籠を抱えた主婦、仕事帰りらしい作業服の男たち、上等なコートの貴族も混じっている。
司会役の官吏が、よく通る声を響かせた。
「それでは、ご登壇いただきます――聖女アリス様!」
白いワンピースのアリスが、光をまとって現れた。
黒髪はゆるく巻かれ、額には小さなティアラ。舞台袖から見ても「絵になる」の一言だ。
アリスは胸に手を重ね、観衆をひとりずつ見渡す仕草をして――そっと口を開く。
「皆さん……最近、“投資”という言葉を耳にしませんか?」
うんうん、と頷く気配。
アリスは続ける。声は甘く、柔らかく、よく通る。
「私は……見てしまったんです。『家族のために』とお金を預け、でも思うように増えなくて、焦って、もっと預けて――最後には生活が壊れてしまった人を。泣いているお母さんを。震えている子どもを」
そこで、一拍。
黒い瞳が大きく潤み、ぽとりと涙が落ちた。
「お願いです。どうか、欲に惑わされないで。庶民の幸せは、地道な働きと、助け合いと、愛で築けます。お金がなくても……人は生きていけるんです」
前列の老婦人がハンカチを握り、若い男たちの肩に力が入る。「聖女様……」「守らなきゃな」そんな囁きが重なる。
涙は、早い。理屈の前に心に落ちる。
そのとき、隣のクラリスが、ぐっと私に身体を寄せて小声で言った。
「やっぱり、こうやって涙で市民を操っているんですね、お嬢様。お嬢様は引っかからないでくださいよ」
心配とも皮肉ともつかない調子。だが彼女なりの警戒だ。
私は視線を舞台から外さない。
(……十六歳でこの演技力。日本でどんな高校生活を送ってきたのかしら)
ふっと、前世の職場で見た“演技”のうまい交渉相手たちを思い出す。
(同情はする。突然の異世界。心細くないはずがない。でも――感情で財布を開かせるやり方は、私は取らない)
アリスが深く頭を下げて舞台を去ると、司会が私の名を告げた。
「続きまして、投資事業“マナ・コモンズ”を主宰するヴァルグレイブ侯爵令嬢、リアンナ様」
私は白シャツに濃紺のロングスカートという、簡素な装いで壇上へ。
足元の木が、コン、と乾いた音を返す。
観衆の熱は、まだアリスの涙で少し揺れている。ここで熱に合わせて話せば楽だ。でも――私は市場の人間だ。
「投資は危険です」
最初の一言で、意図的に空気を止めた。
「――危険です。けれど、正しい準備と知識があれば、“危険を管理”できます」
後方の魔導板に、私が指を振ると数字が浮かぶ。
「先月、マナ・コモンズで配当を受け取った世帯は五百二十七。うち四百九十世帯が“前年より生活が改善した”と回答。投資額は最少一銀から。上限は収入の一〇%まで――まずはここから始めます」
ざわ……と、観衆の熱が理性へと引き戻される気配。
「失敗例も隠しません。焦って規定以上の金額を入れ、短期で倍を狙い、結果として損を出した世帯が二十七。私たちはその後、上限規定を厳格化し、説明会を増やしました。今日の配布資料二枚目、右下をご覧ください」
近くの青年が、資料をめくる音がした。
私は続ける。
「“寄付”と“投資”は別物です。寄付は尊い。今この瞬間の苦しみを和らげます。けれど、毎日を支える仕組みにはなりにくい。投資は未来の選択肢を増やすための道具――夢ではなく、道具です」
言葉を選び、短く、平らに。
拍手はまだ来ない。いい。数字は熱狂ではなく、静かな理解を呼びこむ。
「質問をどうぞ」
手がいくつも上がった。
最前列の屈強な男が言う。「字が読めねぇと無理か?」
「無理ではありません。読み書きができない方には、口頭説明と図解。必ず“理解した”という合図――ここに指を置いて魔力を少し流す――が出た方だけ、契約へ進みます」
次は若い母親。「子どもの学費を貯めたいんです。怖くて……」
「なら、“積立”を。毎月一銀を、三つの対象に分けて入れる。金貨、魔力株式、土地権利。三年後、五年後――途中で引き出しても罰金はありません。『続けられる額』が正解です」
後方からしわがれた声。「年寄りでもやれるのか?」
「もちろん。年齢は関係ありません。むしろ、ご家族に“解説できるまで理解した”と合図してから契約してください」
舞台袖でクラリスが、質問者の誘導と時間管理を手の合図だけで仕切っていく。
さっきの毒舌が嘘のような、正確な仕事ぶりだ。
(ほんと、頼りになる)
やがて、司会が時間を告げる鐘を鳴らした。
私は最後に短く頭を下げる。
「噂ではなく、事実を。涙ではなく、選択を。――以上です」
最初はまばらだった拍手が、少しずつ大きくなり、波のように広がっていった。
熱狂ではない。けれど、硬い床にちゃんと根を張る音だ。
階段を降りると、舞台下の横手でアレクシスと目が合った。
彼は微笑んでいた――が、その笑みは冷たかった。
(……見てる。私じゃなく、数字の向こうの“影響力”を)
すぐに視線を切る。感情で見返す必要はない。
幕が閉まると同時に、クラリスが小走りで寄ってくる。
「お嬢様、時間ぴったり。質問も“落とし穴”は回避。完璧です!」
「ありがとう、クラリス。あなたの誘導が良かったわ」
「えへへ。……でも、さっきの聖女様の涙、やっぱり効きますね。お嬢様は絶対引っかからないでくださいよ」
「引っかからないわ」
(引っかからない、けれど――十六歳の涙は、やっぱり痛い)
会場を離れて石畳の通りへ出る。西日が屋根瓦を金色に染め、店先の影が長く伸びていた。
人波を抜ける途中、野次混じりの声が耳に入る。「投資なんて信用できるかよ」「でも、あの数字は……」
揺れている。だからこそ、今日、数字を置いた意味がある。
馬車の前でレオンハルトが待っていた。
扉を開けるとき、彼は周囲を一瞥し、私にだけ届く低さで言う。
「お前は、感情より理屈を選ぶ。……そこがいい」
私は一瞬だけ彼を見上げ、肩で息を整えた。
「褒め言葉として受け取っておくわ」
「褒めてる」
乗り込むと、レオンハルトは外套を座席に掛け、扉を閉めた。
車輪が動き出し、石畳のリズムが足元から伝わってくる。
窓の外、さっきの広場が遠ざかる。白い舞台と黒髪の少女のシルエットが、夕焼けに溶けていく。
(涙は早い。数字は遅い。でも、数字は積み上がる)
(今日、置いた一枚は、きっと明日の誰かの選択になる)
私は膝の上で指を組み、静かに目を閉じた。
次は――隣国。母の生家、アルヴェイン。
感情に揺れる世界に、もう一枚、数字を置きに行く。




