## 第9話(前編):罪の立証
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# 『境界探偵レム』
## 第9話(前編):罪の立証
「さぁ……私が殺人者だと言うのなら、立証してみせてくれよ、探偵さん?」
雑居ビルの二階、煙草の煙が重たく澱む事務所の革張りソファで、その男は心底可笑しそうに口の端を吊り上げた。
スーツを着慣れた商社マン風の清潔感と、どこか人間離れした異様な圧迫感。男の目には、警察も法も、そして目の前に座る「境界探偵」すらも自分を指一本触れられないという、絶対的な全能感が宿っていた。
レムは指先に挟んだ煙草の灰を静かに落とし、硝子玉のような瞳で男を冷ややかに見つめている。
「立証、ね」
「そうさ。ナイフも毒薬も使っていない。防犯カメラにも映らない。医学的にはただの『老衰』や『病状の悪化』だ。……ねえ、これのどこに罪があるんだい?」
男は胸ポケットに手を放り込み、勝ち誇ったように背もたれへ深く身体を預けた。
男――かつて大手商社に勤め、現在はある介護施設で働いているその男が、この「絶対の力」を手に入れたのは、ほんの半年前のことだった。
◇
きっかけは、YouTubeで偶然見かけた気功の動画だった。 両手のひらに見えない球体をイメージした瞬間、じわりと湧き上がったあの独特のぬくもり。
それが、幼い頃に総合病院の薄暗い病室で目撃した「他人の手を握りしめ、生気を吸い上げていた不気味な男」の記憶と鮮烈に繋がったのだ。
(他人に気を送れるなら……その逆、『他人の生気を奪うこと』だって可能なんじゃないのか?)
その疑念は、すぐに狂暴な実験欲へと変わった。
満員電車やオフィスで、ポケットに手を入れたまま同僚や
見知らぬ客の生気を手繰り寄せる。
相手が「急にだるいな」とこめかみを押さえるたび、掌が力強く熱を帯びた。
実験はエスカレートし、妻や同居する義父の気まで吸い取った。
二人は日ごとに顔色を失い、原因不明の激しい倦怠感で寝込んでいく。
(すごい……俺は人の命を意のままにコントロールできる……!)
そう確信した男は、より多くの『被験者』が転がっている介護施設へと、表向きは感動的な転職を装って足を踏み入れたのだった。
だが、あまり身近な人間で試し続けて倒れられては困る。
だから男は、表向きは「福祉への興味」という感動的な理由を装い、商社をあっさりと辞め、大勢の『被験者』が合法的に転がっている介護施設へと転職したのだった。
気を吸うのをやめた妻や義父は、何事もなかったかのように徐々に体調を回復させていった。
◇
「……で? 介護施設へ場所を変えて、思う存分実験を楽しんだわけだ」
レムが静かに紫煙を吐き出す。
「そうさ」と男は目を輝かせた。「あそこは素晴らしい宝の山だった。寝たきりの老人、暴れる認知症患者、痛みに泣き叫ぶ癌患者……。
どうせ苦しんで死んでいくだけの無価値な命から気を吸い取って、安らかに眠らせてやる。
俺は彼らに無痛の救済を与えてやってるんだよ」
男は立ち上がり、レムに向かって両手を広げた。
「どうだい? 証拠なんてどこにもない。俺が手をかざすだけで人が死ぬなんて、裁判官が信じると思うかい? 探偵さん、君に俺が裁けるか?
俺の罪を立証できないのなら、俺は安心して実験に励む事ができる。そのために今日は来たのさ。」
絶対的な支配者の笑みを浮かべる男を、レムはただ、どこまでも冷たい瞳で見つめ返していた――。
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レムの事務所を辞した夜、男は降りしきる雨の中でひとり、込み上げる歓喜に身体を震わせていた。
(勝った……。俺は、勝ったんだ……ッ!)
振り返れば、自分の人生は常に「レース」だった。 小、中、高、そして難関大学から大手商社へ。常に隣の誰かと自分を比べ、勝っているか、優っているか――それだけが男の人生の物差しであり、すべての価値基準だった。だが、どれほど出世しようが、どれほど稼ごうが、上には上がいる。いつだって敗北の恐怖と劣等感に苛まれ続けていた。
だが、今はどうだ。 この社会のいかなるレースとも無縁の、金では買えない、成績では証明されない絶対的な力。
そして何より、**「どんな国家権力も、法律も、自分を裁くことができない」**という事実。
それこそが、男が手に入れた最高の『勝利』だった。
絶対的な優越感に浸った男は、それからというもの、介護施設という密室で精力的に『実験』へと没頭していった。
◇
**【ケースA:夜間徘徊と暴言を繰り返す認知症患者(80代男性)】**
夜勤のたび、ナースコールやセンサーマットがけたたましく鳴る。男はあえて誰よりも早く部屋へ駆けつけ、「大丈夫ですよ、〇〇さん」と優しく声をかけながら、暴れる老人の肩を深く抱きかかえた。
衣服越しに、手のひらをそっと背中に当てる。 次の瞬間、掌の真ん中に**『掃除機が湿った空気を吸い上げるような、じわじわとした吸着感』**が生まれた。
老人の身体から生気が抜け、自分の腕を通して血が巡るような強烈な快感。
数日もすると、あれほど凄まじかった徘徊と暴言がピタリと止まり、
老人は車椅子から立ち上がれなくなった。
一週間後にはベッドから起き上がる気力すら失い、おとなしく天井を見つめるだけの肉塊と化した。
(俺のおかげで、この人は穏やかになれたんだ。他のスタッフも『夜勤が楽になった』と俺に感謝している。俺は、この施設に平和をもたらしているんだ)
男の胸に、身勝手な誇らしさが込み上げた。
◇
**【ケースB:「殺してくれ」と毎日泣き叫ぶターミナルケアの老人(90代女性)】**
がんの痛みに耐えかね、毎日しわがれた声で「殺してくれ」と泣き叫ぶ老人。 男は毎シフト、彼女のベッド脇に寄り添い、「辛いですね」と優しく声をかけながら、その痩せこけた手を両手で包み込んだ。
数分間、じっくりと、確実に命の灯火を削り取っていく。 日ごとに老人の声は小さくなり、濁っていた瞳から光が消え、やがて呼吸が浅くなっていった。
ある朝、老人は苦しむ素振りすら見せず、眠るように静かに息を引き取った。 主治医の診断は「老衰による自然死」。
(神すら救えなかった老人の苦しみを、俺が苦痛なく終わらせてやった。これは殺人などではない。神に代わって授けた『無痛の安楽死』だ)
◇
男は誰に見せるでもないスマホの隠しメモに、被験者たちのバイタル変化と吸気時間の記録を刻み続けた。それは彼にとって、
**「自分が神として生死をコントロールしている証」**だった。
医学的にもただの病状悪化としか処理されず、後日、遺族からは涙ながらに感謝の手紙と高級な菓子折りの箱が届く。
『最期まで父に優しく寄り添い、温かく介護してくださり、本当にありがとうございました』
手紙を読みながら、男は暗闇の中でくつくつと喉を鳴らして笑った。
誰も俺を疑わない。誰も俺を裁けない。 感謝の手紙と菓子折りに囲まれながら、男は「神としての完全犯罪」の快感に深く、深く溺れていったのだった――。




