第10話(第9話中編):罪の立証
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# 『境界探偵レム』
## **第10話(第9話中編):罪の立証**
「裁けるか、か……」
レムは煙草をくわえ直し、ソファの肘掛けに頬杖をついた。
「お前はそうやって、神様気取りで老人の生気を吸い続けて満足していたわけだ。」
「罪が立証できないように、見えない罰があるんじゃないかって不安になったりはしないのか?」
男の笑みが、ほんのわずかに引きつった。
「立証できるのか?出来ないのか?それが気になっているだけだ。教えてくれ」
レムは天上を見上げ、無感情に言葉を紡ぐ。
「あんたに罪の意識が無いなら、法律も警察も、科学者でさえもあんたの罪を立証することは出来ないんじゃないかなぁ。知らんけど。」
男はその言葉を聞いてあっけに取られたような顔をする。
そして次の瞬間、くっくく…と、こみあげた感動のような喜びを我慢できず、声に出してバタン!と、扉を閉めて去って行った。
レム「一回5000円だって、俺、言ったんだけどなぁ。」
◇
最初は、ただの「実験場」でしかなかった。
介護施設での日々の仕事――オムツ交換、食事の介助、入浴の補助。商社マン時代なら見下していたであろう泥臭く泥臭い雑務をこなしながら、男は内心で鼻で笑っていた。
だが、思いがけないことが起きた。
食事の介助を終え、エプロンを外した時。車椅子を押して廊下を渡り終えた時。 よだれを垂らした老人が、落ちたスープを拭き取ってやった認知症の老人が、シワだらけの手を震わせながら、男の顔を見上げてつぶやくのだ。
「……お兄さん、いつもありがとうね」 「助かったよ、おおきに……」
――ありがとう。
その素朴で温かい言葉が胸に届くたび、男の奥底でカチリと小さな音がした。 他人と比べて勝ったか負けたか、奪ったか奪われたか――そんな排他的な価値観だけで生きてきた男にとって、見返りを求めずに他者から与えられる純粋な感謝は、経験したことのない未知の感情だった。
(なんなんだ、これは……)
今まで自分を支配していた、冷たく歪んだ全能感の城に、ひとつ、またひとつと小さなヒビが入っていく。
◇
そして、あのおばあさんとの出会いがあった。
脳梗塞の後遺症で右半身に重い麻痺が残る70代の女性。 車椅子の移乗や歩行リハビリの補助など、彼女の身体に触れ、気を吸い取れるチャンスなど毎日のように、いくらでもあった。無防備に背中を預けられ、手を握りしめる瞬間、男の掌はいつでも他人の命を貪る準備ができていたはずだった。
なのに――吸い取ることができなかった。
彼女は、汗と涙で顔をグショグショに濡らしながら、動かない右足を必死に前に出そうとしていた。 激しい痛みに唇を噛み締めながらも、男と目が合うと、ふっと痛みを隠すようにシワだらけの顔をほころばせるのだ。
「お兄さん……いつもリハビリに付き合わせて、ごめんねぇ。……汗、たくさん書いてるじゃない。無理しないで、少し休んでね?」
自分自身がどれほど辛く、苦しいはずなのに。 他人に過ぎない男の体調を気遣い、労わりの言葉をかけてくれる。
「私ね、早く歩けるようになりたいの。……向こうで待ってる旦那や子供にね、『お母さん、最後まで諦めないで一生懸命生きたよ』って、胸を張って報告したいんだ。だから、頑張りたいのよ」
男の手をぎゅっと包み込む彼女の手は、驚くほど温かかった。
その温もりが手首から腕を伝い、男の胸の奥深くに溜まっていたドロドロとした黒い悪意を、少しずつ、少しずつ溶かしていった。
(俺は……この人から、命を奪おうとしていたのか……?)
彼女が懸命に生きようとする姿と、自分に向けられる無償の優しさ。 それに触れるたび、男の中で膨れ上がっていた「神気取りの怪物」は爪を失い、角を折り、みじめに小さくなっていった。
◇
そして、ある夜。決定的な瞬間が訪れた。
遅番のシフトを終え、アパートの自室に帰ってきた男は、明かりもつけずに洗面所へ向かった。 ふと見上げた鏡の中に、月光に照らされた自分の顔が映っていた。
そこにいたのは、神でも、絶対的な支配者でもなかった。 頬はこけ、目は落ちくぼみ、他人の命を盗み吸うことでしか己の価値を証明できない、浅ましく衰弱した男の姿。
(俺は……俺は今まで、なんて愚かで、醜いことをしていたんだ……!?)
胃の底から激しい吐き気がこみ上げた。 男は便器に飛びつき、胃液を吐き戻した。何度も、何度も、自分の体の中に溜め込んだ他人の命の残滓をすべて吐き出そうとするように、激しく嘔吐した。
自分は神でも救世主でもない。 他人の命をコソ泥のように盗み、身身勝手な全能感に酔いしれていた、ただの恐ろしいバケモノだったのだと。
冷たいタイルの床に膝をつき、男は額を床に押し付けた。 しゃくりあげる胸の奥から、溢れ出る涙と絶叫が止まらなかった。暗闇の中で、一人激しい悔恨の涙を流し続けた。
(償いたい……。二度と、人から奪わない……! 俺を変えてくれたあのおばあさんに……俺のすべてを捧げて償うんだ……!)
泥のような涙で顔を濡らしながら、男は固く拳を握りしめた。 それが、自分が歩むべき唯一の「贖罪」だと信じて――。
翌日から、男の『実験』は真逆のものになった。
リハビリ室で汗を流すおばあさんの傍らに寄り添い、「大丈夫ですよ、ゆっくり行きましょう」と優しく声をかけながら、自分の掌からおばあさんへ、『生気』を送り込んだ。
「送る」感覚を掴むのは難しかったが、強い祈りを込めると、男の腕からすーっと熱が抜け、おばあさんの肌に赤みが差していくのが分かった。
日を追うごとに、おばあさんは奇跡的な回復を見せた。
麻痺していた足に力が戻り、自力で歩行器を押せるようになり、表情はどんどん若々しく輝いていった。
逆に、男は見る見るうちにやつれていった。
鏡を見るたび、頬がこけ、目の下に深い隈ができているのが分かった。だが、胸の中はかつてない温かい充足感で満たされていた。自分の命を削り、一人の人間を救っているという、本当の意味での希望。
そして、ついに退院の日が訪れた。
「お兄さん、本当にお世話になりました。私、外でもっともっと頑張って生きてみるね」
満面の笑みで手を振るおばあさんの背中を、男は涙を浮かべて見送った。
(ああ……俺はやり直せたんだ。これからは、誰かを傷つけるんじゃない。誰かのために、まっすぐに生きていこう)
男の心は、晴れやかな希望に満ち溢れていた。
(第9話中編:罪の立証)




